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『冒険の書 AI時代のアンラーニング』孫泰蔵|「学校がつまらない」は、あなたのせいじゃなかった

学習・インプット ✍ 孫泰蔵
約7分で読めます

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『冒険の書 AI時代のアンラーニング』
目次

学ぶこと自体は、本来おもしろいはずだ。知らなかったことを知る、できなかったことができるようになる——その瞬間のワクワクを、私たちは幼い頃に確かに味わっている。それなのに、学校の勉強はなぜあれほど退屈だったのか。

起業家の孫泰蔵さんが『冒険の書 AI時代のアンラーニング』で立てるのは、この素朴すぎる問いだ。本書はコメニウス、ルソー、フーコーといった過去の思想家との架空の対話という形をとりながら、私たちが「あたりまえ」と信じてきた教育の前提を、一つずつ剥がしていく。

読み終える頃には、疑いもしなかった常識の多くが、実はここ数百年で人為的に作られた”物語”だったと気づかされる。学校がつまらなかったのは、あなたの資質の問題ではなかった——本書の裏テーマを先に言えば、そういうことになる。

アンラーニング=学びほぐしが、なぜAI時代の出発点なのか

タイトルのアンラーニングとは、いったん身につけた知識や価値観、社会の「あたりまえ」を意識的に手放し、まっさらな目で考え直すこと。日本語なら「学びほぐし」が近い。

新しい情報を足し算するのではなく、同じ世界を別の目で見直す——これが本書の方法そのものだ。著者が繰り返し引くのは、次の一節である。

「真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ。」

なぜ今それが要るのか。理由はAIだ。人間が長い年月をかけて磨いた高度な技能でも、AIを積んだ機械は一瞬で習得してしまう。人間どうしが「能力」の高さだけを競う時代は、遠からず終わる。

だとすれば、能力を上げるために我慢して学ぶという発想自体を、まず疑ってかかろう——これが本書の出発点になる。

ここで留保をひとつ添えておきたい。AIが人間の学びを丸ごと不要にするわけではない。むしろ、点数化しやすい能力の市場価値が下がるからこそ、後述する「遊びとしての学び」の比重が上がる、という順序で読むほうが正確だろう。

アンラーニングは投げやりな放棄ではなく、学びの重心を置き直す作業なのだ。

学校の型は「工場」と「監獄」から来ている

最初に疑われるのは、学校そのものだ。私たちは学校を「学びたいから通う場所」と無意識に思っている。だが起源をたどると、話は逆になる。今のクラス編成や一斉授業のルーツは、19世紀イギリスで考案された「モニトリアル・システム」にある。

少数の教師が年長の生徒を助手に使い、多数の子どもを安く効率的にさばく方式だ。出発点にあったのは、人間を工業製品のように大量生産する発想であって、一人ひとりの興味を伸ばす思想ではなかった。ひな壇に数十人が座って一斉に受ける「ギャラリー方式」も、同年齢でくくる「学年」も、この時代に決められた型のまま、二世紀後の私たちに引き継がれている。

著者はさらにフーコーを引く。『監獄の誕生』が示したのは、学校や病院の原型が刑務所の「パノプティコン」にあるという指摘だ。中央の監視塔からは全独房が見えるのに、囚人側からは監視者が見えない。

囚人は「常に見られているかもしれない」と思い込み、やがて自分から規律に従うようになる。学校も監視・賞罰・試験という三点セットによって、生徒を秩序に従順な存在へと仕立てていく——。

この対応づけはやや図式的で、現場の教師の善意や、学校が果たしてきた居場所としての機能までは説明しきれない。ただ、教室でなんとなく感じる息苦しさが「気のせい」ではなく設計そのものに由来する、という指摘は妙に腑に落ちる。

制度を悪者にして終わるのではなく、自分が浸かっていた水の温度に気づかせてくれる、と受け取ればいい。

「基礎が先」も「早期教育」も、疑ってよい神話だ

次に壊されるのは、学び方の常識である。「まずは基礎から」「早く始めないと手遅れ」——著者はこの手の教育神話を正面から否定する。

基礎から順に積み上げるべき、という考えは、複雑なものを細かい要素に分解して捉える還元主義の産物だと著者は言う。その発想で「基礎」の反復ばかり強いると、子どもは学ぶ喜びを失い、分野そのものを嫌いになってしまう。

サッカーを始めた子に、試合を一切させずドリブルとパスの反復だけを課す図を想像すればいい。順序はむしろ逆で、まず自由に遊び、「もっと極めたい」と本人が思ったときに初めて基礎へ戻ればいい、というわけだ。

早期教育への疑いも同じ構造をしている。「臨界期を過ぎると手遅れ」という説はもともと動物の刷り込み研究などが元で、言語習得に二歳から十二歳ほどの臨界期があるという仮説もある。

だが著者は、これを人間の学び全般へ広げるのは「早まった一般化」だと釘を刺す。実際、アテネ五輪の出場選手を見ると、水泳は七歳前後で始めた人が多い一方、陸上は中学高校以降に始めた人のほうが多い。

早く始めた者が必ず高みに届くとは限らないのだ。人生百年時代において、いつ始めても遅すぎることはない、という一点だけでも、学び直しをためらう大人の背中を押すには十分だろう。

ついでに言えば、著者は「子ども」という概念そのものも近代の発明だと指摘する。歴史家アリエスによれば、中世に今のような「子ども」はおらず、七、八歳から「小さな大人」として働き、遊んでいた。

遊びと学び、遊びと働きが人為的に分断され、それぞれ「つまらない勉強」「つまらない仕事」になったのも、産業社会以降の作為だという。夢中で遊ぶ状態こそ最高の集中で深く学んでいる瞬間だ、という見立ては、覚えておく価値がある。

「能力」は実在せず、後付けのラベルにすぎない

本書でもっとも挑発的なのが、この主張だ。私たちは「能力」や「才能」を、その人の中に実在するものだと信じている。だが著者は、それはフィクション——一種の信仰にすぎないと言い切る。

からくりは循環論法にある。誰かが良い結果を出すと、私たちは「あの人は能力がある」と評価する。そして「能力を高めれば良い結果が出る」と信じ込む。

だがこれは、良い結果という事実に「能力」というラベルを後から貼っているだけで、原因と結果がすり替わっている。歴史的にも「能力」は統計の数字から生まれた。

ゴルトンの優生学に始まり、知能テストが開発され、第一次大戦下のアメリカでは百七十五万人もの兵士の配属を決めるのに使われた。人を数値で測り、選別する仕組みは、そうやって広がっていったのだ。

その延長線上にあるのがメリトクラシー、能力主義である。「知能+努力=業績」という公式で人を評価し、能力ある者が高い地位と報酬を得る。一見、身分ではなく実力で決まる公平な仕組みに見える。

ところが、この語を作ったマイケル・ヤングは、もともとディストピア小説の中でこれを描いた。能力主義は新たな格差を正当化し、敗者に「これは自己責任だ」と思い込ませて追い詰める仕組みでもある。勝者も敗者も終わりなき競争にすり減り、しかもAIが技能を一瞬で身につける時代には、人間が能力を競うこと自体が意味を失っていく。

「才能は、百害あって一利なし」という著者の一言は、挑戦する前から人を諦めさせ、努力のプロセスを軽んじる「才能」という言葉への強い異議だ。ここは論争的で、能力の遺伝や個人差までを全否定するのは、正直に言えば行き過ぎとも読める。

だが「能力」という便利すぎるラベルが、どれだけ多くの人を「自分のせいだ」と縛ってきたかを可視化した功績は、それを補って余りある。

補足すれば、能力主義への違和感は、いまや多くの人が薄々感じているものだ。頑張れば報われるはずなのに、頑張っても報われない現実。その落差を「自己責任」の一言で飲み込まされてきた人にとって、本書の指摘は都合のいい言い訳ではなく、視界を晴らす道具になる。

悪いのはあなた一人ではなく、能力を過剰に信仰する社会の側にも半分はある——そう静かに言い切ってくれる本は、案外少ない。

評価をやめ、鑑賞する——明日から試せる転換

では、能力で人を測るのをやめたら、私たちは何をすればいいのか。著者の答えは「評価から鑑賞へ」だ。評価(エバリュエーション)は一つの物差しで優劣をつけ、人をランク付けする行為であり、これが自信を奪う。

代わりに置くのが鑑賞(アプリシエーション)——美術館で絵を味わうように、相手固有の良さや発想、創造のプロセス全体を、優劣抜きで面白がり、敬意と感謝を向ける態度だ。

子どもの絵や部下のアイデアを良し悪しで裁くのをやめ、「どんな思いで作ったのか」を一緒に楽しむ。あわせて著者は「失敗する権利」も取り戻そうと言う。

転ばぬ先の杖を出しすぎれば、試行錯誤という学びの核心そのものが奪われるからだ。

もっとも、「評価するな」は言うほど簡単ではない。著者自身が指摘するように、「じゃあ評価しなくていいのか」と問われた瞬間、多くの人は口をつぐんでしまう。

学校も会社も評価を前提に回っており、それを完全に手放すのは非現実的だ。だから本書の提案は、評価をゼロにせよという極論ではなく、評価という物差ししか持っていなかった自分に、鑑賞というもう一本の軸を足す、と読むのが実際的だろう。

相手を測る前に、まず面白がる。その順番を入れ替えるだけでも、家庭や職場の空気はずいぶん変わるはずだ。

制度改革を待つ必要はない。本書の提案は、自分の日常から始められる。ひとつ、基礎練を飛ばして本番から遊ぶ。憧れの曲をいきなり弾く、とりあえず試合に出てみる。

ふたつ、遊びと仕事・学びの仕切りを外し、夢中になれることを生活の中心に据える。みっつ、他人を能力の高低という不確かな物差しで裁くのをやめ、その人固有の良さを鑑賞して、感謝を言葉にする。

読後に残るのは、大げさな高揚ではなく、静かな安心に近い。学校がつまらなかったのも、能力で測られて苦しかったのも、あなたの欠陥ではなく、数百年かけて組まれたシステムの設計だった。

そう知るだけで、呼吸が少し楽になる。まずは一つ、「基礎から」と我慢して先延ばしにしてきたことを、今日いきなり本番から始めてみてほしい。学びが遊びに戻る感覚を、その手ざわりで思い出せるかもしれない。


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