経済ニュースが流れた瞬間に、そっとチャンネルを変えたくなる。金利、物価、為替といった言葉が並ぶと、なぜか頭が受けつけない。歴史や小説なら何時間でも読めるのに、経済だけは別の言語のように感じる——そんな「経済アレルギー」を抱えた読者は少なくないはずだ。
長沼伸一郎『現代経済学の直観的方法』は、まさにその層に向けて書かれた733ページの大著である。数式をほとんど使わず、鉄道や磁石やポンプといった具体的なイメージだけで、資本主義の心臓部からブロックチェーンまでを一気に描ききる。
そして終盤、現代を覆う息苦しさの正体を「縮退」という一語に集約してみせる。編集部として付け加えるなら、本書の値打ちは個々の解説の巧みさ以上に、バラバラだった経済の話題が最後に一枚の絵として立ち上がってくる構成そのものにある。
なぜ資本主義は止まった瞬間に倒れるのか
本書がまず崩しにかかるのは、「経済成長は人間の欲深さの産物だ」という素朴な思い込みだ。
著者の答えはシンプルで、成長が義務になる根っこには金利があるという。企業が銀行から資金を借りれば、返済には必ず利息が乗る。借りた額より増やして返さなければ利払いが回らないから、事業は拡大を続けるしかない。
長沼はこれを、止まれば倒れる自転車やオートバイにたとえる。資本主義は前進をやめた瞬間に高度を失って墜ちる「空気より重い乗り物」なのだ、というのが本書全体を貫くイメージである。
「自己資金が貯まってから拡大すればいい」という健全経営の発想も、ここでは通用しない。競争相手が銀行融資で先に市場を押さえてしまえば、貯金を待っている間に参入の余地は消える。だから巨大企業ですら借金による成長レースから降りられない。
この宿命がどれほど強烈かは数字が語る。世界経済の成長率をならして年3%と置くと、複利の効果で経済規模は20数年で2倍、100年で16倍にふくらむ。過去100年の石油消費の爆発的な伸びは、この計算がそのまま現実になった記録だと本書は読む。
ただ編集部として一つ留保を置きたい。年3%という前提は右肩上がりの時代の平均値であって、低成長が常態化した先進国では「止まれば倒れる」構図がむしろ苦しさとして表面化している。
本書の比喩は成長の宿命を鮮やかに描く一方、成長が鈍った社会でその乗り物をどう着陸させるかまでは、あくまで問いとして残されている点は押さえておきたい。
貯蓄は美徳か、それとも社会の貧血か
次に本書がひっくり返すのは、もっと身近な感覚だ。「貯蓄は美徳」という常識である。
個人にとって節約は正しい。ところが全員が一斉に貯め込むと、社会に回るお金が減り、モノが売れず、給料が下がる。長沼はこの状態を経済社会の「貧血」と呼ぶ。そこで橋渡し役を担うのが銀行だ。集めた貯金を投資として経済に注ぎ戻す、いわば血液を循環させるローカル線である。
このローカル線を通って、貯蓄はそのまま投資と釣り合う。著者はこの「貯蓄と投資は一致する」という一点をマクロ経済学の中枢だと言い切る。だから貯蓄が過剰になれば、経済はその資金を無理な設備投資に回し、今度は逆に「超高血圧」の拡大を強いられることになる。
貯蓄が足りなければ貧血、余れば高血圧——資本主義とはこの綱渡りを毎日続けている仕組みなのだ。
この補助線が引けると、政府がなぜあれほど消費喚起にこだわるのかが腑に落ちる。倹約を美徳とする個人の道徳と、消費を促したいマクロの要請が、実は正面からぶつかっている。この「合成の誤謬」を血液循環のイメージで示したのは、本書の説明のなかでも特に実用性が高い部分だと感じた。
インフレの勝者と敗者を分ける「サンドイッチ構造」
インフレとデフレの整理も鮮やかだ。
インフレは主に三つの経路で起きるという。紙幣が出回りすぎたとき、オイルショックのように供給が急減したとき、好景気で供給が需要に追いつかなくなったとき。そしてインフレ下では、勝者と敗者がはっきり分かれる。
得をするのは、借金をして事業をする機動力の高い企業家だ。物価が上がれば借金の実質負担は目減りし、製品の値上げは賃上げより先に動かせる。賃金の上昇は必ず物価の上昇に遅れてやってくるため、そのタイムラグに生じた差額は経営者の手元に残る、というのが本書の見立てである。逆に損をするのは、現金や預金を抱える資産家と、給料が物価に追いつかない労働者。
真ん中の企業家が得をし、上下の資産家と労働者が損をする。著者はこの構図をサンドイッチにたとえる。
意外なのはデフレの扱いだ。物価が下がるデフレは一見やさしそうに見えるが、「まだ下がるなら待とう」という買い控えを呼び、社会全体をじわじわ貧しくする。
だからインフレより恐ろしい、と本書は評価する。戦後日本の激しいインフレも、庶民を犠牲にしてでも産業界の借金を実質的に帳消しにし、復興のサバイバルを戦わせた劇薬だった、という読み方が示される。
このサンドイッチの枠組みは、そのまま日々のニュースを読む道具になる。値上げや利上げの報道に触れたら、それが三層のうち誰を潤し誰を痩せさせるのかを一言で言ってみる。それだけで経済面の解像度は確実に上がる。
信用創造とドル——お金は「実」と「虚」でできている
私たちが日々使うお金の大半は、実は紙幣でも硬貨でもない。
銀行は「信用創造」という仕組みで、実体のあるお金以上の数字を生み出している。預金を企業に貸し、その企業が別の銀行に預け、そこがまた貸し出す。
この又貸しが繰り返されるうちに、預金通帳の上の数字だけが何倍にもふくらんでいく。長沼はこれを磁石にたとえる。物質としての実体を持つ紙幣が「実」の貨幣、それに磁化されてコンピュータの中だけに存在する残りが「虚」の貨幣だ。
もっとも無限には増えない。銀行が急な引き出しに備えて手元に残す準備金の割合が、増殖の上限を決めている。
この「実と虚」という物差しは、国際通貨のドルにもそのまま当てはまる。世界の貿易が伸びれば、決済に使うドルはもっと必要になる。ところが米国がドルを世界に供給し続けるには、自ら貿易赤字を出してドルを海外へ流し続けるしかない。
赤字を重ねれば通貨への信認が揺らぎ、供給を止めれば世界経済が干上がる。流動性の供給と信認の維持が両立しない——本書はこれを基軸通貨の逃れられないジレンマとして描く。
この節の効用は、ニュースで「お金」と言うとき、それが実の話なのか虚の話なのかを聞き分けられるようになる点にある。金融危機のたびに「お金が消えた」と言われるが、消えたのはたいてい磁化されていた虚の部分だ。実と虚の境目を意識するだけで、報道の受け取り方が一段冷静になる。
ビットコインは「電子の金」を作ろうとする挑戦
本書の直観化の力が最も冴えるのが、第8章のブロックチェーン解説だ。
長沼はビットコインの本質を、電子の世界に「絶対に増えない量」としての金(ゴールド)を作ろうとする試みだ、と要約する。恣意的に刷り増せる虚のマネーへのアンチテーゼであり、いわば電子の金本位制を目指す思想だという読み解きである。
それを技術的に支えるのがハッシュ関数だ。入力をほんの少し変えるだけで、出力が予測不能な別の値に激変する計算方式で、本書ではある数字を割った余りをタグとして使う、電卓レベルの例で仕組みを見せる。
各ブロックに前のブロックから導いたタグを書き込んで鎖状につなぐと、過去のデータを一文字でも改竄した瞬間、そのタグが変わり、後続のブロックすべてが芋づる式に矛盾を起こす。
だから不正はすぐに露見する。台帳を書き換える手間の桁違いを、多数決で乗っ取るのに必要な冊数の比較で示すくだりは、直観化の面目躍如だ。加えて、膨大な計算力が要るのはビットコインのような公開型だけで、参加者を限定した形式なら重い計算はほぼ不要だという指摘も現実的で、技術の使い分けを見誤らせない。
ここで立ち止まりたい数字がある。すでに1990年代の時点で、1日に投機のために動く資金は1兆ドル規模に達していたという。実体経済の何十倍ものマネーが投機に回っていた計算だ。
増えない金を作ろうとする挑戦の裏側で、虚のマネーはそれほど膨張していた——この対比こそ、著者がブロックチェーンを単なる技術ではなく「時代への応答」として位置づける理由だろう。
すべてを束ねる「縮退」という一語
そして最終章で、ここまでの全テーマが「縮退(コラプサー化)」という一語に収束していく。
縮退とは、多様なつながりで成り立っていた複雑で安定した状態が壊れ、少数の巨大な存在に統合されて末端が壊死していく現象を指す。生態系でも、経済でも、人の心の中でも同じことが起きる。
心のなかでは、長期的な願望である理想が、手軽に満たせる短期的な欲望に飲み込まれていくことを意味する。理想は注意深く守らなければ、すぐに欲望に駆逐されてしまう。
長沼の鋭さは、ここから逆説を引き出すところにある。社会を縮退させると、その崩れていく過程で富を絞り出せる、というのだ。多様な商店街が少数の巨大企業に飲まれ、人々が長期の目標を見失ってスマホの中の短期的な刺激に依存していく。
その劣化の過程で、資本主義は無理やり富を取り出している。環境問題も格差も、この縮退という根本の病理が表面に噴き出したものだ、という大きな見立てである。
対照として置かれるのが、狩ったバッファロー一頭を余さず使い切り「ごみ」を出さなかったネイティブ・アメリカンの暮らしだ。ごみという概念すら、システムの縮退が生み出したものだと本書は言う。
なぜ人類はこの罠に気づけなかったのか。著者は、ジョン・ロックら近代の啓蒙思想家が、ニュートン天体力学の「放っておけば自動的に釣り合う」というイメージを経済に持ち込んだからだと診断する。
個人の短期的欲望の総和はいずれ全体の理想に一致するはずだ、という壮大な錯覚。神の見えざる手とは、天体力学の誤用だったという指摘は挑発的だ。
この縮退論は、経済学というより文明論であり、実証よりも直観に大きく傾いている。その分だけ反証しにくく、あらゆる現象を「縮退のせい」と説明できてしまう危うさもはらむ。
編集部としてはそこを割り引いて読みたい。それでも、効率化の名のもとに古い慣習や無駄に見えるつながりを壊すたび、私たちは縮退を食い止める見えない防波堤を一つずつ失っているのかもしれない——この一点だけでも、立ち止まって考える価値は十分にある。
