「会社のために」。この一言を口にした瞬間、宛先がどこにもないことに気づいた人は多いはずです。
会社に感情はなく、意思もありません。会社法が「そういうものがあることにしよう」と定めた、法律上の取り決めにすぎないからです。だから会社は、頑張った社員にお礼を言うこともなければ、稼いだ利益を勝手に分配することもありません。
分配の比率を決めるのは、生身の人間である代表取締役です。
そう説くのは、サイボウズ株式会社で長く代表取締役社長を務めてきた青野慶久さん。会社という仕組みを外から論じるのではなく、自分がその頂点にいながら内側の配線を明かしにきた、珍しい立ち位置の一冊です。
退職を考えている人向けの本だと思われがちですが、実際に多く載っているのは、いまの職場に留まったまま条件を交渉し直すための具体策です。

「カイシャ」は法律がつくった妖怪で、権限は代表取締役にある
本書がまず崩すのは、会社を人のように語る癖です。社屋も、そこで働く人たちも目に見えます。ところが「カイシャ」という本体を目撃した人は一人もいません。あれは会社法という法律が紙の上に生み出した架空の人格、いわゆる法人にすぎないからです。
この架空の人格には強力な権利が与えられています。自分の名義で財産を持てることです。だから創業者が死んでも会社は死なず、社員が生み出した利益は会社の口座に積み上がり続けます。実体がないのに、死なない。青野さんはこの存在を「妖怪」と呼びます。
童話の「かさこじぞう」のお地蔵様や「幸福な王子」の銅像を思い浮かべると、この比喩は腑に落ちます。どれだけ尽くされても、石や金箔が自分の意思で恩返しをすることはありません。
会社という道具に人格を与えて崇めた瞬間、人がその道具に仕える側へ主客が逆転します。「会社のために」という号令が実は宛先不明である理由は、ここにあります。本当は顧客のため、同僚のため、自分のために働いているはずなのに、主語を実体のない会社に置き換えた途端、その宛先の顔が思い浮かばなくなります。
もう一つ意外だったのが「社長」という肩書きの正体です。会社法のどこにも「社長」の権限は書かれていません。法的な契約権と意思決定権を持つのは「代表取締役」という別の呼び名のほうです。
単独で契約を結び、人事権を握り、報酬の上限枠の中で自分の給料まで決められる。歯止めとなるはずの株主も、大企業では持ち株が分散し、まとまって声を上げにくい立場に置かれています。
本書が挙げる東芝の長期不正会計は、その隙を突かれた実例として読めます。会社選びで社名や規模を見るより、代表取締役が何を語り、お金をどう使っているかを追うほうが、実は多くの情報を教えてくれます。
我慢を強いる5つの装置と、その代償
日本の会社には、社員に我慢させる仕組みが幾重にも張られている、と本書は言います。若手の給料を抑える年功序列。勤続年数が延びるほど支給額が跳ね上がる退職金。
権限を年齢で縛る昇進制度。本人の合意なしに決まる転勤。契約を強制的に終わらせる定年。この5つが同時に働くと、耐えることじたいが評価される種目になってしまい、しかも見返りはいつも将来へ繰り延べられます。
苦しい期間を勝ち抜いて発言力を得たとき、その人の感覚はすでに古びており、次は自分が下の世代の意欲をそぐ番に回る、と本書は突き放します。冒頭の東芝の話も、この仕組みの延長線上にある負の連鎖として読み直せます。
ここで一つ留保を挟みたいところです。5つの装置はたしかに個人を縛ります。ただし、いずれも長期雇用と引き換えに設計されてきた制度でもあります。
解雇規制が厳しい日本では、年功序列や退職金の後払い構造が、雇用の安定という別の利益を社員側にもたらしてきた面がある。本書はこの取引の存在にあまり触れません。
批判の切れ味は鋭い一方で、制度がなぜ生まれたのかという事情の半分は、視野の外に置かれていると感じました。
やる気を分解する「3つの円」と、コンセプトで交渉する技術
後半、本書は解体から再建に転じます。まず扱うのがやる気の構造です。モチベーションが高い状態を、本書は「やりたい(本人の意思)」「やれる(本人のスキル)」「やるべき(周囲の期待)」の3つの円が重なった状態だと定義します。
プログラミングが好きで入社した新人エンジニアは、最初は「やりたい」と「やれる」が重なって充実しています。管理職になり、毎日の予算管理という「やるべき」だけが残ると、やる気は落ちる。
ここで本書は気合いを求めません。根性論ではなく、3つの円のどれが欠けているかを見る。診断の対象を変えるだけで、打てる手はまるで違ってきます。
面白いのは「やれる」の扱いです。自分のスキルを磨くだけでなく、人のスキルを借りることも「やれる」に含めていい、と本書は言います。自分の手で作れなくても、周囲の「やりたい」を引き出せれば円は成立する、という考え方です。
「やるべき」については、増やすものではなく選ぶものだと釘を刺します。すべてを引き受けたら壊れる。何を選び、何を断るかを自分で決めた自覚こそが、やらされ感とやる気を分ける境界線になります。
納得できない指示を受けたとき、我慢か退職の二択だと思い込みがちです。本書はここに交渉という第三の道を置きます。使う道具が「コンセプト」、つまり「これは誰に何と言わせるための仕事か」を確認する問いです。
目的さえ一致すれば、指定された手順に従う理由はなくなり、もっと楽な手段をこちらから提案できます。
「交渉とは、じつはとてもクリエイティブな瞬間で、これこそが仕事の醍醐味とも言えるのです。」(本書より)
対立ではなく共同作業として交渉をとらえ直す発想は、本書の中でもっとも汎用性が高い部分だと思います。ただし機能するのは、相手が目的を言葉にできる組織文化があってこそです。
手順そのものが目的化した職場で同じ問いをぶつけると、上司を試しているように受け取られかねません。誰にでもすぐ効く技ではない、という注意は必要でしょう。
掛け算で希少になり、市場が値段を決める
個人の値打ちについても、本書は具体的です。誰でもできる仕事にとどまれば価格競争に飲み込まれます。かといって一つの分野で世界一を目指すのは、ほとんどの人には現実的ではありません。
本書が示す答えは掛け算です。100人に1人の技能を2つ持てば、単純計算で1万人に1人になる。クラウド事業を担当しながら、副業で本格的に農業を営んだ社員の例が挙がります。
IT側で本気の農業をやる人はほとんどおらず、農業側でクラウドを使いこなす人もまずいない。2つの掛け合わせが、農地のセンサー管理や産地間の連携という新しい仕組みを生みました。
この視点に立つと、社内でしか通用しない技能だけを与えて年功序列に縛りつける会社の姿勢は、安定ではなく市場価値を削る飼い殺しに見えてきます。だから本書は複業の解禁を企業側に強く勧めます。
給料の決め方についても立場は明確です。過去の実績だけに値をつける成果主義は、個人プレーやアイデアの囲い込みを招きやすい。代わりに本書が置くのが市場主義で、将来の期待値や他者への貢献に加え、そのスキルが市場でどれだけ不足しているかまで評価に含めます。
需要と供給で価格が動くのは不自然に聞こえるかもしれませんが、人材の流動性が上がるほど、この決め方のほうが実情に合ってくるはずです。
量から質へ、そして利益をどう見るか
組織づくりについて、本書は多様な個性を混ぜて化学反応を起こす「フラスコ理論」を掲げます。ビーカーのように口が広いと意見が拡散してまとまりません。
明確な企業理念という狭い口に向かって議論を絞るからこそ、他社にまねできない案が出る、という理屈です。反応を起こす条件は2つ。情報を隠さない公明正大さと、上司に依存せず自分の責任で動く自立です。
深夜残業が常態化していた時期に3割近くあった離職率が、働く時間と場所を自由化したあとに4%程度まで下がった、という数字がその効果を裏づけています。
長時間労働で押し切れた「量の時代」は終わり、次は「質」だと本書は言います。安い量産品との競争から抜け出し、独自の基準でブランドを作り直した企業の例が並びます。
利益の扱いにも本書らしい視点があります。伊那食品工業の会長の考え方として、取引先やパートナー、従業員、社会に還元した残りが利益なのだという捉え方が紹介され、高い利益率が必ずしも優良の証にはならない、という指摘に転じます。
取引先を叩き、人件費を削って残した数字かもしれないからです。
さらに本書は踏み込み、理念が形骸化した会社なら、いっそ解散して残った資産と事業を配り直したほうが、そこで働く人間は幸福になるのではないか、とまで書きます。
ここは賛否が割れる主張で、実際そういう温度で書かれています。公開企業には株主への受託者責任があり、解散を経営判断として語れる自由度は、非上場に近いオーナー経営者の立場だからこそ持てるものです。
読み手が置かれた会社の形によって、この提案の実行可能性は大きく変わると見ておくべきでしょう。
最後に本書が向かうのは、AIに代替される仕事の見分け方です。ルールに従い、残業も転勤も受け入れる従順さは、そのまま機械の得意分野になります。一方で、機械の側には自発的な「やりたい」という感情は生まれません。
「人間は、人工知能が思いつけない、新しい『やりたい』を見つけ出す必要があるのです。」(本書より)
告発だけでは愚痴で終わり、処方箋だけでは精神論で終わります。両方を往復する構成だからこそ、閉じたあとに体が動くのだと思います。著者は書くだけの人ではありません。働き方改革を批判する全面広告を新聞に出し、選択的夫婦別姓をめぐる訴訟の原告にも名を連ねています。自分の名前でルールを揺らしにいく姿勢が、本書の説得力を裏で支えています。
