「働かざる者食うべからず」——この言葉に、うっすらとした息苦しさを覚えた経験はないだろうか。和歌山県の山奥、最寄りの信号機まで車で1時間という限界集落に、その圧力を静かに無効化して暮らす人たちがいる。
廃校になった木造校舎に、10代から40代までの男女15人。1人あたりの生活費は月1万8000円で、家賃はゼロだ。それでも、都会で消耗している会社員より、たぶん自由で、たぶん幸せに見える。
石井あらたの『「山奥ニート」やってます。』は、その共同生活を内側から綴ったノンフィクションである。地方移住のすすめでも、社会への告発でもない。
「働かなくても、案外なんとかなる」という事実を、15人ぶんの実物で示してみせた、静かな証明の書だ。著者自身、浪人と留年と中退を重ね、教育実習でベテラン教師に否定されて鬱になり、リハビリで始めたバイトでも皿を割り続けて弁償し、労働への自信を完全に失った人である。
だからこの本には、成功者が高みから説く軽さがなく、一度こぼれ落ちた人だけが持つ手触りがある。
家賃ゼロが、心に途方もない余白を生む
共同生活の費用は1人あたり月1万8000円。この中に、食費も光熱費も通信費も含まれる。食費に至っては月9000円で、近くに店がないため自炊率は自然と100%になる。
米や野菜は地元の人からのおすそ分け、パスタはブログの読者がAmazonの「ほしいものリスト」から送ってくれる。なぜここまで下がるのか。廃校をNPOが無償で譲り受けたため家賃がゼロで、水道も裏山の湧き水、かかるのはポンプの電気代だけだからだ。
ここで石井が突く「家賃の呪縛」の指摘が鋭い。家賃は収入の3分の1が妥当だと言われる。裏を返せば、労働時間の3分の1は、寝る場所を確保するためだけに費やされている。
週5日勤務なら、月曜と火曜はまるごと家賃のために働いているようなものだ。その2日ぶんが、家賃ゼロなら丸ごと自分の手元に返ってくる。生存コストを下げることは、単なる節約ではなく、嫌な仕事に「ノー」と言える余地を買い戻す行為なのだ。
もっとも、この家賃ゼロは廃校とNPOという特殊な条件に支えられている。誰もが真似できる再現性の高い手法ではないし、著者自身もそれを認めている。
だが本書の価値は、金額の再現ではなく、「固定費を削るほど自由の面積が広がる」という原理を、極端な実例で可視化した点にある。山奥に行かない私たちにできるのは、住居費でも使っていないサブスクでも、固定費をひとつ本気で見直してみることだろう。
不便であることが、平和を守るフィルターになる
本書のキーワードのひとつが「不便益」——不便だからこそ得られる価値、という考え方だ。山奥は電波が繋がりにくく、ガードレールもない崖沿いの細い道を、車で何時間も走らないと辿り着けない。
ところが、この不便さが防壁として働く。生半可な覚悟では来られない場所だから、おかしな人が自然とふるい落とされ、アクセスの悪さがそのままコミュニティの平和を守るフィルターになる。
便利さと幸せは必ずしも直結しない、と石井は書く。
さらに面白いのが、ルールを作らないという方針だ。15人が一つ屋根の下で暮らしながら、驚くほど諍いが起きない。その秘訣は、細かい規則をあえて明文化しないことにある。
「自分の食器は自分で洗う」程度の暗黙の了解はあっても、成文化された掟はほとんどない。理由は逆説的だ。ルールを決めると、人は「それさえ守れば義務は果たした」と考え、かえって他者への配慮を手放してしまう。
曖昧なままにしておくからこそ、各人がある種の遠慮を働かせ、自発的な優しさが循環するのだという。
石井はここでもう一段踏み込む。ルールなしで平和でいられるのは、自分たちが「暇」だからだ、と。時間と心に余裕があるから、他人に気を使える。世界中の全員が暇だったら戦争は起きないんじゃないか、とまで書く。
この飛躍にはさすがに留保が要る——暇が優しさに直結するとは限らないし、貧しさのなかの余裕は綱渡りでもある。それでも、「余裕こそが人を優しくする」という洞察は、殺伐とした職場を思い返せば、簡単には無視できない重みを持っている。
意思決定の作法も独特だ。少人数の民主主義はかえって最悪で、その場の空気で物事が決まり、誰も責任を取らなくなる。だからシェアハウスは、信頼できる人による「優しい独裁」のほうがうまくいく、と石井は言い切る。
フラットさや全員一致を無条件に善とする発想への、小さなカウンターだ。曖昧なルールも、優しい独裁も、根っこにあるのは「制度で人を縛るより、信頼で場を回す」という一貫した構えなのだと分かる。
苦しさを分けるのは、労働の有無ではなく「納得感」
なぜ働くと苦しく、働かないと楽なのか。本書が出す答えは「納得感」だ。人間を最も苦しめるのは、その行為に納得できていない状態である、と石井は言う。やることが全く同じでも、「自分の意志で選んでいる」という納得があるかどうかで、天国と地獄が分かれる。
重要なのは、これがニート側にも等しく突き刺さる点だ。働いていない自分に納得できていなければ、周囲の視線と自己否定によって、無職の毎日はたちまち地獄になる。
逆に納得さえあれば、遊んで暮らしていても心は健やかでいられる。つまり山奥ニートの幸福は「働かないこと」そのものではなく、「納得して選んでいること」から来ている。
ここを読み違えると、この暮らしはただの現実逃避と区別がつかなくなる。苦しさを分けているのは働いているか否かではなく、その選択に自分が納得できているか否かなのだ。
そして、納得するための材料は、本人の中にしかない。合理的である必要もない。人の強い原動力は思い込みからしか生まれない——この一文は、やる気が湧かないすべての人に効く。
裏を返せば、都会で働き続けるという選択であっても、自分が納得して掴んだものであれば、それは立派に「持続可能」なのだと言える。本書は働くことを否定しているのではなく、納得のないまま流されることを問い直しているのだ。
「じゃない人」たちが作る、家族じゃない家族
山奥ニートたちの関係は、家族でも友達でもない。本書はこれを「NFO(家族じゃない家族)」と呼ぶ。血の繋がりも過剰な連帯もなく、互いの過去やフルネームすら知らないこともある。
住人のももこさんは、この距離感を、気の合わない者は勝手に出ていく動物の群れや、ゆるい部活のようなものだと言い表す。
彼らに共通するのは「じゃない人」という感覚だ。ニートという言葉が面白いのは、「◯◯な人」ではなく「◯◯じゃない人」を指すところにある、と石井は書く。
福祉に頼るほど働けないわけでもなく、バリバリ働けるほど頑丈でもない。どの箱にもきれいに収まらない、中間の人たち。だから行政の支援からもこぼれ落ちる。
似た気質の者同士が小さな生息圏を作ることは、弱い生き物の生存戦略なのだ。
面白いのは、彼らが「頼ること」を恥じない点だ。地元の高齢者に甘えて「孫ポジション」を得て、野菜のおすそ分けをもらう。完璧な自己PRで武装するのではなく、「これができません、教えてください」と弱さを開示するからこそ、お金に依らない助け合いが回りはじめる。
優秀さを競うより、上手に頼ること。その技術が、生存コストの低い暮らしを裏側から支えている。
住人たちの来歴は多彩だ。小説家志望で、この山奥を「文豪の別荘」と呼ぶピエールさん。法律事務所で不倫や遺産争いの書類にまみれて鬱になったももこさん。
声を失い、交通事故で足に障害を負って実家に居場所をなくした元声優のいくみん。母親から昼食を強制されるプレッシャーに耐えかねて逃げてきたジョーくん。
バラバラの彼らがゆるく共存できるのは、互いに深く干渉しないからだ。論破しようとする人も、教育しようとする人も、ここには来ない。だから穏やかでいられる。
この「干渉しない優しさ」は、良かれと思ってアドバイスが飛び交う都会の人間関係への、静かな批評にもなっている。
ニートは社会の予備電力であり、戻れる安全基地でもある
本書が痛快にひっくり返すのが、「働かない者はお荷物」という常識だ。アリの群れには常に一定数の働かないアリがいて、彼らは怠けているのではなく、非常時のための予備の労働力だとされる。
全員が全力で働く群れより、暇なアリを抱える群れのほうが、不測の事態への対応力が高く、生存率も上がる。石井はこれを人間に重ねる。東日本大震災のとき、日々の仕事に追われる会社員はすぐには動けず、真っ先に現地へ向かえたのは、時間のあるニートやひきこもりだった。
地域の清掃も台風後の道の片付けも、率先してやるのは彼らだ。ニートは社会の余白であり、いざというときの機動資源でもある、と本書は定義し直す。
日本には「ニートはモラトリアムで、いつか卒業すべきもの」という強い圧がある。石井はこれに真っ向から反対する。技術が発達して食料の生産効率が上がった以上、本来なら人類はもっと楽をしていいはずだ。
だから納得して働かないことを選ぶ「持続可能なニート」は、一時的な逃避ではなく、一生をかけた生存モデルになりうる、と。この主張の当否はさておき、働き続けることを前提にした人生設計しか知らなかった身には、視界を一度ぐらりと揺らす問いかけではある。
もうひとつ、この山奥は「戻れる場所」として機能する。住人のロキさんは、ここで1年を過ごしたあと、「ダメならまた戻ればいい」という心の保険を得て、東京で正社員として働き始めた。
逃げ場を確保しておくことが、かえって外の世界へ踏み出す力になる——これは会社を辞める必要のない人にも、そのまま応用できる発見だ。安全基地があるからこそ、人は思い切って前に出られる。
共生舎を立ち上げた山本さんは、こんな言葉を残している。「靴に足を合わせるのではなく、足に靴を合わせる」。かつて人が自分の足でわらじを編んだように、自分に合った履き物を作れば、足は傷つかず、どこまでも歩いていける。
今の暮らしが少しだけ苦しいなら、既製品の靴に足を押し込んで痛がり続ける必要はないのかもしれない。まずは来月の固定費をひとつ、見直してみること。
あなたのわらじは、あなたにしか編めない。
