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『ゼロからの『資本論』』斎藤幸平|「赤いインク」を取り戻す

学習・インプット ✍ 斎藤幸平
約7分で読めます

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『ゼロからの『資本論』』
目次

「給料は上がっているのに、生活は楽にならない」。そう感じたことがあるなら、まずその違和感を疑ってみてください。それは怠けでも甘えでもなく、生活の土台そのものが痩せているサインかもしれません。

斎藤幸平さんの『ゼロからの『資本論』』は、150年前に書かれた分厚い経済書を、いまの息苦しさを読み解く道具として差し出してくる一冊です。

難解な原典を要約するだけの本ではありません。マルクスが最晩年に取り組んでいた環境研究や共同体研究にまで踏み込み、「豊かになったはずなのに、なぜ心はすり減っていくのか」という一つの問いに答えようとします。

中身を具体的に追っていきます。

図解

こんな人におすすめ

本書は、経済や思想にもともと関心がある人だけの本ではありません。

本書に引用されている調査では、年収300万円に届かないひとり暮らしの人の貯金額(中央値)は、30代でたった15万円、40代では2万円まで落ち込むといいます。非正規で働く人はすでに全労働者の4割に迫っており、これは個人の努力不足で片づけられる規模の話ではありません。

「富」と「商品」のあいだにあるもの

本書がまず疑うのは、「豊かさ=商品をたくさん買えること」という思い込みです。

斎藤さんの言う「富」には、値札のつかないものが含まれます。きれいな空気、安心して歩ける道、近所の図書館、気兼ねなく話せる人間関係。お金には換算しにくいけれど、生活の土台を支えているものです。

商品は、その富の一部が誰かに囲い込まれ、値段をつけられて市場に並んだ姿にすぎません。かつては蛇口をひねれば飲めた水が、いまはペットボトルで買うものになりました。この変化は、たかだかここ数十年で定着した話です。

商品にはもう一つの顔があります。役に立つかどうかという「使用価値」と、市場でいくらと交換されるかという「価値」です。厄介なのは、資本主義のもとでは後者が前者を追い越してしまう点です。売れるかどうかが先に来て、本当に必要かどうかは後回しにされます。

本書はこの逆転が定着した状態を「物象化」と呼びます。人間が作った商品や価格が、逆に人間の行動を支配してしまう現象です。株価の上下に一喜一憂したり、「経済を止めるわけにいかない」という理由で無理を重ねたりする感覚に、名前をつけたものだと考えるとわかりやすいはずです。

この物象化は、心の中にも忍び込みます。本書が引くミヒャエル・エンデ『モモ』の床屋フージー氏は、時間貯蓄銀行の勧誘に乗り、雑談や家族との時間を切り詰めて働き続けました。

その結果、余裕どころか時間そのものを失っていきます。効率を突き詰めるほど楽になるはずが、実際には逆の方向に進む。この逆説を、ただの寓話として読み流せない人は多いと思います。

資本はなぜ、労働時間を欲しがるのか

たとえば時給換算で2000円の価値を生み出す人が、日給1万円で8時間働くとします。生み出した価値の合計は1万6000円ですから、差額の6000円は資本の取り分になります。この差額こそが本書の言う「剰余価値」です。

労働時間を10時間に延ばしても日給が変わらなければ、資本の取り分は4000円上乗せされます。放っておけば労働時間は伸びる方向にしか動きません。

これは誰か個人の意地悪ではなく、競争のなかに組み込まれた力学です。経営者一人の善意では止められない、というのが本書の指摘の怖いところです。

もう一つ、取り分を増やす道があります。労働時間はそのままに、生活必需品の値段そのものを引き下げる方法です。食費や家賃が安くなれば、同じ日給でも生活は成り立つので、日給自体を下げる余地が生まれます。

本書はこれを「相対的剰余価値」と呼びます。物価が上がっているのに給料だけが据え置かれる、いまの日本でよく聞く不満も、この構図の延長線上で読み解けるはずです。

この力学を可能にしているのが、本書の言う「二重の自由」です。私たちは奴隷ではなく、誰と契約するかを自分で選べます。ただし生活に必要な土地や道具を持たないという意味でも「自由」なので、結局は労働力を売るしか生きる道がありません。

さらに現代特有のねじれとして、本書は「魂の包摂」という概念を紹介します。「自分で選んだ仕事だ」「経営者目線を持て」という感覚を、自分から進んで取り込んでしまう状態のことです。

恐怖で働かせるより、責任感で働かせるほうがずっと効率がいい。この一文を読んだとき、頑張りすぎて心身を壊した知人の顔がいくつも浮かびました。

本書が挙げる、新入社員が長時間労働と理念教育の末に命を落とした事例は、特殊な会社だけの話ではありません。

技術が便利になるほど、仕事の中身が消える

技術が発達すれば働く時間は短くなり、暇な時間が増えるはずだ。かつての経済学者たちは、素朴にそう信じていました。ところが実際に起きたのは、正反対の現象です。

理由ははっきりしています。資本主義のもとでのイノベーションは、働く人を楽にするためではなく、商品を安く作るために使われるからです。技術者フレデリック・テイラーが確立した科学的管理法は、職人が持っていた勘やコツをばらばらに分解し、動作を秒単位で管理する仕組みでした

本書はこれを「考える部分(構想)」と「手を動かす部分(実行)」の分離と呼びます。

現場から考える権限が奪われると、何が起きるか。本書が挙げる学校給食の変化がわかりやすい例です。かつて各校の給食室では、調理員が献立を工夫しながら温かい食事を作っていました。構想と実行が同じ人の手のなかにあったわけです。

そこにコスト削減の波が来て、数十校分をまとめて調理するセンター方式が広がります。現場に残ったのは、運ばれてきたものを配膳する作業だけ。効率化を目的にしたはずが、味は落ち、事故が起きたときの被害規模はむしろ膨らみました。効率化と豊かさは、簡単には両立しないという実例です。

考える権限を奪われた仕事が増えると、皮肉なことに「なんのためにやっているのかわからない仕事」も同時に増えます。文化人類学者デヴィッド・グレーバーが名づけた「ブルシット・ジョブ」です。

本人ですら意味を感じられない高給の仕事がはびこる一方で、社会に欠かせないエッセンシャルワーカーの労働条件は厳しいままだと本書は指摘します。ここは、日々の会議や報告書に既視感を覚える読者が多いはずです。

マルクスは、機械化がもたらすものについて、労働そのものからの解放ではなく労働の中身からの解放にすぎないと言い切っています。楽になるのではなく、中身が抜き取られる。この見立てを知ると、日々のタスクをもう一度数え直したくなります。

編集部として付け加えたいのは、これが工場だけの話ではないという点です。定型作業を肩代わりする生成AIやチャットボットの導入も、使い方次第では同じ構図を繰り返しかねません。作業は減ったのに、考える余地まで一緒に減ってしまったら、それは楽になったとは呼べないはずです。

「外部」が尽きた先に何を選ぶか

資本主義は、環境破壊や労働の負荷を、どこか別の場所に押しつけることで成り立ってきました。地方や途上国、そして未来の世代です。本書はこれを「外部化」と呼び、ドイツの化学者リービッヒが唱えた「掠奪農業」批判を手がかりに、この構造を「物質代謝の亀裂」という言葉で説明します。

土壌から養分を吸い尽くして戻さない農業のあり方が、労働者から体力と時間を吸い尽くして戻さない働かせ方と、根っこで同じだという指摘です。

資本が持つこの態度を、本書はマルクスのこんな言葉で表現します。

「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」

自分が儲けているあいださえ持てばいい、というわけです。問題は、押しつけ先の「外部」がもう残っていないことです。有機栽培の割合はごくわずかにとどまり、農業の担い手も減り続けています。しわ寄せを先送りする余地が尽きたとき、次に選べる道は何か。

ここで本書が持ち出すのが「コモン」と「アソシエーション」です。水や電力、教育や医療といった、生きるために欠かせない富を、私的な独占から引き剥がし、住民たちの手で共同管理する。

担い手は国家ではなく、人々が自発的に作る連合体だとされます。到達点として本書が置くのは、マルクスのこの一行です。

「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」

これを聞くと、旧ソ連のような国有化・計画経済を思い浮かべる人もいるはずです。本書ははっきり切り分けます。官僚が独裁的に運営した体制は、資本家が国家に置き換わっただけの「国家資本主義」にすぎず、コモンとは似て非なるものだと。

同じ格差の問題を扱った本として、トマ・ピケティ『21世紀の資本』を思い浮かべる人もいるはずです。ピケティは累進課税のような制度で再分配を強めることを提案しますが、本書はそれだけでは足りないと考えます。

税制をいくら整えても、資本が生産の現場を握ったままでは、企業がより税の緩い国へ逃げてしまうからです。

正直なところ、コモンやアソシエーションが実際に機能するのか、規模を広げたときに何が起きるのかは、本書を読んだだけでは判断がつきません。斎藤さんが挙げる労働者協同組合や市民電力の事例も、まだ社会の主流とは言えない規模です。

それでも、賃上げより先に労働時間そのものを取り戻すという優先順位づけは、日々の働き方を見直すヒントとして十分に実用的だと感じました。

おわりに

この本を読んで変わったのは、社会の仕組みの理解より先に、自分を責める癖のほうでした。

残業が減らないのも、仕事の手応えが薄いのも、これまでは自分の能力や工夫が足りないせいだと思っていました。本書を読み終えて、その説明の一部は個人の外側にあるとわかっただけで、ずいぶん気持ちが軽くなりました。

大きな制度を変える力は、一人にはありません。それでも本書は、生活のなかの小さな選択から始められる練習を示してくれます。何かを自分の手で作る時間を増やす、お金を使わない時間を意図的に確保する。そこからしか、失われた構想と実行の統一は取り戻せないのかもしれません。

今週末、予定を一つだけ「お金を使わない時間」に置き換えてみてください。そこで浮いた時間を、自分の手を動かすことに使ってみる。その小さな実験が、この本の一番実践しやすい入り口になるはずです。


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