「天は自ら助くる者を助く」。この一文だけを聞いたことがある人は多い。だが、その後にスマイルズが何を書いたかまで知る人は少ない。彼の主張は、現代の常識からするとやや過激ですらある。
外部からの援助は、人間をかえって弱くする——。手厚い制度も親切な保護も、行きすぎれば人の足腰を奪う。生涯にわたって人を励まし続けるのは、自分で自分を助けようとする精神だけだ。
ここが本書の出発点になる。
『自助論』は150年以上前のイギリスで書かれ、明治期の日本では『西国立志編』として100万部を超えて読まれた。訳者は物理学者の竹内均。ずいぶん古い本だが、扱っている問題は驚くほど現代の悩みに重なる。
以下では、本書が才能や環境をどう捉え、私たちに何を突きつけてくるのかを順に追っていく。
才能ではなく、忍耐と勤勉が成否を分ける
本書の核心を一言でいえば、成功を決めるのは生まれつきの才能ではなく、地味な忍耐と日々の労働だ、という主張に尽きる。強みは、それを説教で終わらせないところにある。
スマイルズは自説を語る代わりに、実在した数百人の伝記を積み上げる。科学者、画家、軍人、鍛冶屋、靴職人と分野はばらばらだが、いずれも逆境から自力で立ち上がった人物ばかりだ。
「努力しろ」と百回言われても人は動かないが、原稿を焼かれた歴史家が黙って書き直した話を読めば、言い訳はしにくくなる。本書はそういう作りになっている。
背骨になっているのは、博物学者ビュフォンの「天才とは忍耐なり」という言葉だ。世間が天才と呼ぶ人ほど、自分の生まれつきの才を信じていない。ビュフォン自身、裕福な家に生まれて怠けかけた人物で、寝坊の癖を直すために召使いに冷水を浴びせさせ、40年間、毎日9時間の勉強を続けた。
逆境が才能を育てるという逆説も繰り返し語られる。数学者ラグランジュは父の投機による破産のおかげで研究に打ち込み、もし裕福だったら数学者にはならなかっただろうと後年振り返っている。
鳥類学者オーデュボンは200枚近いスケッチをネズミに食われても森へ戻り、以前より優れた絵を描き上げた。歴史家カーライルにいたっては、『フランス革命』第一巻の原稿を使用人に暖炉の火起こしで焼かれ、記憶をたぐってゼロから書き直している。
彼らが並外れていたのは才能の量ではなく、砕けても手を動かし続ける忍耐の総量だった。
制度を変えるより、自分を律するほうが人生を決める
著者がまず壊しにかかるのは、制度への幻想だ。私たちはつい、立派な法律を作れば人は救われ、政治を変えれば社会は良くなると考える。スマイルズはこれをはっきり否定する。
どれほど厳格な法律をこしらえても、それだけで怠け者が働き者に、浪費家が倹約家に変わるわけではない。国家の質を決めるのは制度ではなく、国民一人ひとりの生活態度だ——彼はこれを「外からの支配」と「内からの支配」と呼び分ける。
外の環境をどう整えるかより、自分で自分をどう律するかのほうが、人生の成否を大きく左右するという見立てである。
この視点は個人にもそのまま効く。市場が悪い、上司が悪い、会社が悪い。その不満が正しいこともある。だが著者は、まず自分の時間の使い方と生活態度に目を戻せと促す。
ここは留保も要る。環境の不公正まで「自己責任」で片づけてしまえば、本書は都合のよい精神論に転びかねない。制度への視線を捨てろという話ではなく、制度が整うのを待つ前に動かせる自分の領域があるはずだ、という順番の問題として読むのが健全だと私たちは考える。
偉大な発見は、偶然ではなく執念深い観察から生まれる
才能への懐疑は、科学の発見にも向けられる。ニュートンの万有引力は落ちるリンゴを見た偶然のひらめきだと語られがちだが、著者はそれを退ける。彼が些細な出来事から真理を引き出せたのは、何年もその問題を研究し続けていたからだ。
ガリレオも、ピサの大聖堂で揺れるランプをじっと観察し、五年かけて振り子を実用化した。何気ない日常を見逃さない目こそが発見を生む、というのが著者の見立てだ。
観察が運命を変えた例には事欠かない。製本見習いだったファラデーは、百科事典の「電気」の項目に夢中になって化学者デイビーの助手に迎えられた。医師ジェンナーの種痘は、牛痘にかかれば天然痘にはかからないという村娘の一言から始まり、20年以上の実験を経て天然痘予防の道を開いた。
師が贈った言葉が効いている——考えてばかりいないで実践せよ、ただし忍耐強く正確に。ここで見えてくるのは、才能とは特別な閃きではなく、目の前の一事に長くとどまる持続力の別名だという、著者の一貫した立場である。
実務能力こそ、最も高い知性の証である
意外に思えるのが、著者が日常の実務を強く肯定している点だ。芸術家や学者は事務作業を軽蔑するもの、というイメージがあるが実際は逆で、シェイクスピアは劇場経営で成功し、ニュートンは有能な造幣局長官を務め、作家スコットは裁判所の書記仕事をきちんとこなし続けた。
著者は仕事の「秩序」を重んじ、段取りや整理を知らない人間は、どれほど才能に恵まれてもその四分の三を無駄にしていると言い切る。
実務能力の中身も具体的だ。注意力、勤勉さ、正確さ、手際のよさ、時間厳守、迅速さ——この六つ。抽象的な精神論ではなく、明日の仕事にそのまま当てられる基準になっている。
体現者として描かれるのがウェリントン将軍だ。34歳のアセエーの戦いでは6500名でマラータ族5万を破り、イベリア半島では5万に満たない兵で35万のフランス軍と渡り合った。
だが著者が注目するのは戦術の冴えより、彼が自ら「穀物商人」となって手形で兵の食料を調達するほど、補給と段取りの細部まで管理した点である。名将の強さの正体が、華々しい閃きではなく地味な実務能力にあったという指摘は示唆に富む。
時間の使い方も同じ調子だ。毎日1時間、無駄にしている時間を有益な目的へ振り替えれば、平凡な能力の人でも10年しないうちに見違えるほど博識になる、と著者は書く。1日15分の自己修養でも、1年あれば確かな効果が現れるという。
お金の使い方と、本物の教育について
お金の扱いにも一章が割かれる。著者の立場は明快で、貯蓄は困窮に対する砦であり、借金は嘘と堕落の入り口だ。倹約は単なるケチではなく、自分の生活を律して本当の自由を手に入れる知恵だとされる。
節約は思慮分別の娘であり、節制の姉、そして自由の母である——収入が増えても生活水準を安易に上げないことが、精神の自由を守る。経済学者コブデンは倹約家を文明の建設者に、浪費家を奴隷にたとえたという。
目先の米粒を握って手を抜けなくなる猿のように、目先の欲に握られた者は自由を失う、というわけだ。ただし守銭欲そのものは戒められる。金を貯め込むだけの人間は「生きた財布」にすぎず、社会に影響を与えるのは金持ちではなく、経験を積んで人格を築いた人だと著者は言う。
教育観はさらに手厳しい。学校教育はほんの初歩を教えるにすぎず、家庭や工場や農場での日々の仕事のなかにこそ、はるかに効果の高い教育がある。人を向上させるのは文学ではなく生活であり、学問ではなく行動だ、と。
鍛冶屋として働きながら空き時間を積み上げて18の言語を身につけた言語学者バリット、12歳から村の教師を務め、死の一、二日前まで生涯で20万件もの気象観測を続けた物理学者ドールトン、劣等生とされながら愚直な努力で最後に追い抜くニュートンやナポレオン——著者が繰り返し描くのは、恵まれた環境ではなく、細切れの時間を何に使うかで人生が分かれるという事実だ。
神童ともてはやされた子ほど最初の成功に慢心して「ただの人」で終わる、という大器晩成論も、現代の早期教育熱への静かな警告として読める。労働そのものへの敬意を示す小話も印象に残る。
ある大工が知事の椅子をやけに丁寧に仕上げていた理由を問われ、いつか自分が腰かける日のためだと答え、後に本当に知事へ選ばれた——どんな仕事も手を抜かない姿勢が、めぐって身を立てるという寓意である。
よい忠告よりも、よい手本が人を動かす
本書の締めくくりは、人格と手本の力だ。著者は、言葉による忠告よりも無言の手本のほうが人を動かすと考える。良き環境、良き家庭、良き友人が及ぼす影響は、自己修養が静かに感染していくように広がる、と。
象徴的なのが貧しい靴職人ジョン・パウンズの話で、彼は街をさまよう子どもたちにゆでたてのジャガイモをぶら下げて自宅に呼び集め、勉強を教え食事を与え、生涯で500人以上を救った。
ウェリントンは戦後に10万ポンドを超える賄賂を持ちかけられても私腹を肥やさず、貧乏将軍のまま帰国している。礼儀についての一節も忘れがたい。礼にはお金がかからないのに、尽くすだけで信頼という財産が手に入る。
最も費用対効果の高い資質だ、というわけだ。
人格の核を言い当てているのが、ある少年の言葉だ。誰もいない果樹園で梨を一つも盗まなかった理由を問われ、彼は「そこには自分という人間がいました」と答えた。
他人が見ていなくても、自分が見ている。読み終えて残るのは爽快さより、静かなプレッシャーだ。登場する偉人たちは特別な才能で楽々と成功したのではなく、原稿を焼かれ、スケッチを食われ、貧困に喘ぎながら、それでも黙って手を動かし続けた人たちだからである。
「天は自ら助くる者を助く」という古い一文が今も生き残っているのは、それが正しいからではなく、実行があまりに難しいからかもしれない。まずは今日の無駄な1時間を、何か一つ有益なことへ振り替えるところから始めてみてほしい。