本文へスキップ
ブクドリ | BOOK DRIP
戻る

『モリー先生との火曜日』ミッチ・アルボム|死にゆく教授が教えた「いかに生きるか」

キャリア・働き方 ✍ ミッチ・アルボム
約7分で読めます

※ 本記事はアフィリエイトリンク(Amazonアソシエイト)を含みます。

『モリー先生との火曜日』
目次

死にかけている人から、生き方を教わる。そんな逆説めいた授業が、1990年代のアメリカで実際に開かれていました。教壇に立つのは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という治る見込みのない病で、体が少しずつ動かなくなっていく老教授、モリー・シュワルツ。

生徒はたった一人、16年前に音信を絶っていたかつての教え子です。テーマは愛、老い、お金、許し、そして死。教科書も試験もなく、あるのは死を目前にした一人の人間の、生々しい言葉だけでした。

『モリー先生との火曜日』は、スポーツコラムニストのミッチ・アルボムが、恩師モリーから受け取った「人生最後の授業」の記録です。名声も収入も手にしながら、どこか満たされずにいた著者が、ある夜テレビ番組でたまたま恩師の姿を見つけ、毎週火曜日に病床を訪ねるようになります。

二人が学生時代に授業をしていたのも火曜日でした。ここでは、その授業のエッセンスを追いながら、編集部としての読みどころと留保も添えていきます。

「死に方を学べば、生き方も学べる」という核心の逆説

この本の背骨は、たった一つの逆説にあります。モリー先生は繰り返しこう語りました。「いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べる」。誰もがいつか死ぬと頭では知っているのに、本気でそれを信じている人はいない。

だから私たちは、どうでもいいことに時間を浪費し、本当に大切なものを後回しにしてしまう。先生の指摘は、そこを突きます。

ここで編集部として立ち止まっておきたいのが、この本の説得力の出どころです。ふつうの人生指南書は、著者が机の上で組み立てた理屈を並べます。ところがこの本の語り手は、まさに今、死んでいく途中にある人間です。

ALSは神経を溶かし、脚から胴体、やがて呼吸筋へと麻痺を広げていきます。精神は最後まで明晰なまま、肉体だけが崩れていく病です。この過酷な状況から発せられるからこそ、一つひとつの言葉が机上の格言とはまるで違う重みを帯びます。「肉体はやられても、精神はやられない」と言い切る先生の姿そのものが、教えの最大の証拠になっているのです。

もっとも、この逆説をそのまま日常に持ち込むのは、思うほど簡単ではありません。健康な体で忙しく働いている人が、朝から晩まで死を意識し続けるのは無理があります。

先生の言葉は、四六時中それを考えろという命令ではなく、ときおり立ち止まって時間の使い方を点検するための「物差し」として受け取るのが実際的でしょう。

死を見つめることは、悲観に沈むためではなく、限りある時間の優先順位を組み替えるための作業なのです。

感情は抑え込まず、浸りきってから手放す

先生の教えのなかでも、とりわけ独特なのが感情との付き合い方です。恐怖や悲しみが襲ってくると、多くの人はそれを抑え込もうとします。見ないふりをし、気を紛らわせる。

ところがモリー先生のやり方は正反対で、感情の蛇口を全開にし、その感情で全身がずぶ濡れになるまで浸りきります。恐怖なら恐怖に完全につかりきって初めて、「よし、これは恐怖だ」と客観的に名前をつけられる。

名前をつけられて初めて、そこから一歩下がれる。逃げている限り、その感情はずっと背後につきまとう。先生はこれを「自分を引き離す」と呼びました。

同じ発想は、自己憐憫への向き合い方にも表れます。先生は毎朝、少しだけ自分をあわれんで涙を流します。ただし時間を区切ります。ひとしきり泣いたら、その日に残された良いものへと意識を切り替える。感情を殺すのでも、感情に飲み込まれるのでもない、その中間を行く態度です。

編集部として補っておくと、この「浸りきってから手放す」は、近年の心理療法が重視する「受容」や、感情に名前をつけるラベリングの手法と驚くほど近い位置にあります。

抑圧はかえって感情を長引かせるという知見とも整合します。ただし見落としてはならないのが、「時間を区切る」という条件です。ただ浸るだけでは、同じ思いをぐるぐると反芻する沼にはまり込むだけになりかねません。

浸る・名づける・切り替えるという三拍子がそろって初めて機能する技術だと読むべきでしょう。

「対立物の引っ張り合い」で、最後に勝つのは愛

人生をどう捉えるか。ここで先生が持ち出すのが「対立物の引っ張り合い」という比喩です。人生とは、ゴム紐を両側から引っ張り合うようなものだ、と先生は言います。

やりたいことと、やらなければならないこと。何かに腹を立てながら、それが良くないと知っている自分。相反する力に、私たちはいつも引き裂かれています。

「人間はたいていその中間で生きている」というのが先生の見立てです。

では、どちらが勝つのか。先生の答えは明快でした。押し合いへし合いする感情のなかで、最終的に人を支えるのは愛だ、と断言します。だからこそ先生は、詩人オーデンの一節「互いに愛せよ。

さなくば滅びあるのみ」を何度も口にしました。愛し合うか、さもなくば滅びるか。先生にとってこれは大げさな比喩ではなく、文字どおりの真実でした。

さらに踏み込んで、「愛は唯一、理性的な行為である」とも述べています。愛を、感情の高ぶりや衝動ではなく、相手を思いやろうと意識して選び取る行動として捉える視点です。

愛を「気分」ではなく「意志的な選択」として定義し直すこの一歩に、この本の実践性が凝縮されています。気分は自分では制御できませんが、行動なら選べます。だから愛は、特別な才能を持つ人だけのものではなく、誰にでも実践できる技術になる。そう読み替えると、精神論に見えた教えが、急に具体的な指針へと姿を変えます。ここは、この本を単なる感動話で終わらせないための、重要な読みどころだと考えます。

お金では満たされない。だから「自分の文化を創る」

お金と社会について、先生の見方はきっぱりしています。現代の文化は「多いほうがいい」と人々を洗脳している。もっと稼げ、もっと持て、もっと買え。

けれどもお金や権力は、優しさの代わりにはならない。多くの人が間違ったものに価値を置き、その結果として人生に深く幻滅している、と先生は指摘します。

では、本当の満足はどこから来るのか。先生の答えは「自分が人にあげられるものを差し出すこと」でした。新しい車や大きな家ではありません。自分の時間、心遣い、知識を、見返りを求めずに他人へ手渡すこと。

先生自身、病に倒れる前は老人センターで人に教え、孤独な高齢者とトランプをして過ごしていました。ここで登場するのが「自分自身の文化を創る」という考え方です。

世間が押しつける価値観が自分を幸せにしないなら、それに盲従する必要はない。会話、協力、愛情、読書、人とのつながり。先生が実際に選び取った文化は、そういうものでした。

他人の基準ではなく、自分の基準で人生のルールを決め直す。それが「文化を創る」ことの中身です。

ここは力強い教えですが、編集部として一つだけ留保を置いておきます。「自分の文化を創れ」という号令は、経済的な余裕や社会的な足場がある人ほど実践しやすいのも事実です。

先生は終身在職権を持つ大学教授でした。この教えは、お金を軽んじよという話ではなく、お金を目的そのものに据えた先に満足はやってこない、という優先順位の問題として受け取るのが穏当でしょう。

生活の土台を確保したうえで、その先の価値をどこに置くか。そう捉えれば、この言葉は現実から浮き上がることなく、日々の選択に効いてきます。

死ぬ前に自分を許し、目の前の相手に「完全に」いる

この本のなかで、モリー先生が涙を見せる数少ない場面が、許しの話です。先生には、ノーマンという古い親友がいました。あるとき二人は仲違いし、後にノーマンが歩み寄ろうとしたにもかかわらず、先生はプライドからそれを拒みます。

そしてノーマンは、和解しないまま亡くなってしまう。先生はこの後悔を、死の間際まで引きずっていました。だからこそ先生は言います。「死ぬ前に自分を許せ。

それから人を許せ」。しかも許しの対象は、他人だけではありません。やるべきだったのにやらなかったこと、もっとこうすればよかったという後悔。そうやって自分を責め続ける鎖からも、自分を解き放つ必要がある、と。

意地や恨みを抱えたまま時間切れを迎えるより、こちらから半歩踏み出したほうがいい。それは相手のためである以上に、自分自身を軽くするための行為なのです。

もう一つ、日々の関わり方についての教えが「その場に完全に存在する」ことです。先生は誰かと話すとき、過去の心配も未来の予定も頭から追い出し、目の前の相手だけに全神経を注ぎました。

私たちはたいてい逆をやっています。人と話しながらスマートフォンを気にし、頭の半分では次の用事を考えている。それでは、相手と本当に向き合っているとは言えません。

全部の注意を向けられた相手は、大切にされていると感じます。この小さな態度こそが、深い信頼の土台になります。

先生はさらに、老いを「衰え」ではなく「学びが増えていく成長」として引き受け、自らを「人間教科書」と呼んで、死にゆく過程を隠さず人に見せました。

生きているうちに愛する人々を集め、感謝の言葉を直接受け取る「生前葬儀」を発明したのも先生です。弔辞は本来、当人の耳には届きません。それなら生きているうちに、というわけです。

「死で人生は終わる、つながりは終わらない」。交わした愛や思い出は、残された人の心のなかで生き続ける。この一言に、先生の死生観が集約されています。

読み終えて残るのは、壮大な人生論ではありません。モリー先生が思い描いた「申し分のない一日」は、朝起きて体操をし、おいしい朝食をとり、泳ぎに行き、友人を招いて語り合い、自然のなかを散歩し、夜はレストランで食事をしてダンスを踊る、という一日でした。

特別なことは何一つない。死を目前にした人が最後に望んだのが、そんなありふれた一日だったという事実に、この本の要点は尽きています。だとすれば、私たちが今日から試すべきなのは、人生を丸ごと作り替える壮大な計画ではなく、次の会話でスマートフォンを裏返す、といった小さな一手のほうなのだと思います。


この記事をシェア:

次に読む一冊

同じテーマを、もう一段深く考えるための一冊です。

キャリア・働き方『もしも一年後、この世にいないとしたら。』清水研|「死」を見つめると、今日が輝き出す『もしも一年後、この世にいないとしたら。』(清水研)の要約。「いつか時間ができたら、やろう」