銀行に預けておけば安全だ。多くの人がそう信じている。だが本書はその前提を静かに崩す。運用に回さず日本円のまま持ち続けることは、世界に無数の投資先がある中で「あえて資産の100%を日本円に投じている」のと変わらない――著者・田中渓さんはそう指摘する。
何もしないという選択そのものが、実はもっとも大きなリスクを抱え込んでいる。
『億までの人 億からの人』は、ゴールドマン・サックスで17年間、投資部門のトップを務めた著者による一冊だ。純富裕層をさらに超える「兆人」クラスの顧客と直接向き合ってきた経験から、彼らに共通するマインドと習慣を体系化している。
個別の投資テクニックを指南する本ではない。むしろ、お金や時間や決断との向き合い方という「土台のOS」を丸ごと入れ替えることに主眼がある。ここではその核となる考え方を、編集部なりに読み解いていきたい。
富裕層は「普通のことを圧倒的にやる普通の人」だった
本書の出発点は、富裕層への思い込みを壊すところにある。特別な才能や恵まれた家庭を持つ一握りの人々――そんなイメージに反して、著者が現場で接してきた富裕層の多くは、誰にでもできる普通のことを圧倒的な量でやり続けている「普通の人」だったという。
本書が想定する「億を超える人」は、年収1億円以上、または純金融資産(資産から負債を引いた額)5億円以上の層だ。年収1億円は労働力人口のおよそ0.037%、2,726人に1人にすぎない。
数字だけを見れば別世界に思える。だが著者は、その多くが一介のビジネスパーソンから出発し、挫折を重ねてたどり着いたと言い添える。
彼らに至る道は大きく二つ。投資銀行や戦略コンサルで理論を武器にする「金融エリート系」と、起業やM&Aで現場経験を武器にする「ベンチャー経営者系」だ。
本から学ぶ賢さと、現場で学ぶ賢さ。入り口はまるで違うのに、たどり着いたマインドは驚くほど似ているという。環境や能力の差は確かにある。それでも、何かに挑戦することだけは、いつでも誰にでも平等に開かれている。
ここに本書の希望がある。ひとつ留保を付けるなら、この「普通の人」論はやや理想化されている面もあるだろう。ただ、才能や運を言い訳にして動かない人ほど、この視点は効くはずだ。
「日本円で持つ」も投資、だから何もしないが最大のリスクになる
富裕層マインドの根に来るのが、お金への向き合い方だ。著者は、収入が給与のみという状態をはっきり「ハイリスク」と呼ぶ。会社が傾けば収入はゼロになり、インフレにも無防備だからだ。
インフレの怖さは複利で効いてくる。物価が年2%で上がり続ければ、10年後には100円のものが約122円になる。裏返せば、手元の1,000万円は実質820万円ほどまで目減りする。
金庫に眠らせているだけで、価値が2割削られる計算だ。だから富裕層は「お金にお金を稼がせる」。ここまでは投資本の定番だが、本書が面白いのはその先である。
彼らは「お金が貯まってから投資に回そう」とは考えない。貯まるのを待つこと自体が機会損失であり、必要なら資金を調達して最初から市場でお金をつくる。
投資も借入れも借金も、失うための行為ではなく増やすための道具として扱う。お金は貯めてから動かすものではなく、マーケットの中でつくるものだという発想の転換が、本書の一つの山場になっている。
では何から始めるか。答えは拍子抜けするほど地味で、「少額を今すぐ」だ。1,000円でいい。応援したい企業や、生活になじみのある銘柄を一つ買う。
ここで効くのが「カラーバス効果」――ある対象を意識した途端、関連情報が自然と目に飛び込んでくる心理現象である。自動車株を一株持てば、街を走る車も経済ニュースも投資家の目で見え始める。
少額投資は損失を抑えつつ経験値を稼ぐ入口だ、という説明には確かにうなずける。頭で理解するより先に、身銭を切って世界の解像度を上げよ、というわけだ。
お金→経験値→人脈、この順番を飛ばすと搾取される
資産形成に「ウルトラC」は存在しない、と著者は断じる。基本は三つの要素を回し続けることだ。自己資金という「お金」、投資で培う「経験値」、良質な情報が集まる「人脈」。しかもこれには順番があり、必ず「お金→経験値→人脈」で回さねばならないという。
順番を取り違えるとどうなるか。経験がないまま人脈だけで「おいしい話」に近づけば、たいてい搾取される側に回る。まず自分の金で少額投資をして経験を積み、その経験を発信することで、同じ目線の人脈が自然と寄ってくる。
派手さはないが、極めて実践的な処方だと思う。人脈から入りたくなるのが人情だけに、この釘の刺し方には価値がある。
搾取を避けるための思考も用意されている。「これは誰が儲けているビジネスモデルなのか」を常に問うクセだ。手数料無料をうたうサービスも、どこかで必ず誰かが利益を得ている。
胴元は誰かを見抜く目こそ、その取引がフェアかどうかを測る物差しになる。もう一つの道具がDCF(割引現在価値)の発想で、要は「1年後の100円より今日の100円のほうが価値が高い」を出発点に、目の前の出費が将来の利益に見合うかを数字で確かめる習慣である。
難しく聞こえるが、噛み砕けば「その支出、本当に元が取れるのか」を問い直すだけのことだ。
「速くて間違っている」が「遅くて正しい」に勝つ
本書がもっとも外資系金融らしい顔を見せるのが、意思決定をめぐる章だ。富裕層は最終判断を絶対に他人へ委ねない。材料集めや助言はプロに求めても、決断は自分で下し、その結果に責任を負う。
そして彼らは、決断の質と同じくらい速度を重んじる。「遅くて正しい」より「速くて間違っている」を選ぶ。間違えたら直せばいい、とにかく速く決めることが最強の武器だという構えだ。
これを象徴するのが、著者のゴールドマン・サックス時代の不動産交渉である。「3週間以内に100億円で売りたい」と急ぐ売り手に対し、大手のライバルは検討を持ち帰った。
その隙に著者たちはこう即決する。90億円なら3週間で確実に買う、返事が3日後になるなら85億円だ、と。売り手は確実性を取って90億円で手放し、著者たちは安く仕入れた土地を、今度はじっくり時間をかけて100億円超で売り抜けた。
スピードそのものが値引きの交渉材料になったわけだ。
仕事に引き寄せれば「80/20の法則」になる。成果の8割は全作業時間の2割から生まれる。ならば100点を狙って締め切りぎりぎりに出すより、半分の時間で8割の完成度をまず見せ、方向性を早くすり合わせたほうがいい。
土台にあるのは「期待値コントロール」だ。満足度は期待と結果の差で決まるから、事前に期待を煽らず、1割・3割・8割と小刻みに確認を挟みながら進める。
こうして積み上がるのが「信頼貯金」である。宿を借りるたびにその家のトイレ掃除を買って出た冒険家・植村直己の逸話が引かれるが、信頼もまた複利で増える資産だという見立ては腑に落ちる。
決断を減らし、複利で「勝ち癖」を積み上げる
意思決定を速くしたいなら、そもそも決断の総量を減らすしかない。ケンブリッジ大学の研究では、人は1日に約3万5,000回もの決断をしているという。
決断できる回数には上限があり、些末な選択でエネルギーを浪費すれば、肝心な場面で力が出ない。スティーブ・ジョブズが毎日同じ黒のタートルネックを着ていたのは、服選びに使う判断力と時間を仕事に回すためだった。
著者自身も毎朝3時45分に起き、前夜のうちにウェアとシューズをそろえておくという。
習慣化のコツは意外なほど単純で、「ばかばかしいほどハードルの低いことを1日15分」から始める。人は5分でも手をつけると脳内でドーパミンが出て「作業興奮」が起きる。
やる気が出るのを待つのではなく、まず動くから続く。ここでも効いてくるのが複利だ。楽天の三木谷浩史さんは、1日1%の努力と1%のサボりの差を語ったという。
毎日1%成長すれば1年で約38倍、逆に毎日1%サボれば0.03まで縮む。アインシュタインが複利を人類最大の発明とまで呼んだその力は、投資だけでなく日々の自己研鑽にも同じように働く。
小さくても毎日勝つ。その「勝ち癖」が自己肯定感を育て、次の一歩を生むというわけだ。
さらに富裕層は、時間をお金以上に有限な資源とみなす。彼らが死守するのは「緊急ではないが重要なこと」に使う時間だ。金融の勉強、語学、起業の準備――締め切りはないが人生を左右するタスクである。
逆に急な飲み会やSNSの通知対応は「緊急だが重要でない」錯覚の領域として削る。そのためにタクシーや家事代行にお金を払い、浮いた時間を自己投資へ振り向ける。
心身の整え方にも「カネ→カラダ→ココロ」という独特の順番があり、メンタルの不調をいきなり精神論で片づけず、まず経済基盤、次に睡眠や運動、最後に心という順で土台から立て直す。
FIREの落とし穴と、稼ぎ続ける「余裕のある生活」
最後に、ブームのFIRE(早期リタイア)への警鐘も見逃せない。40代での完全リタイアには二つのリスクがあると著者は言う。予期せぬ出費やインフレで元本が削られ、複利が逆回転して資産が縮んでいくこと。そして、社会とのつながりや役割を失い、アイデンティティが揺らぐ精神的リスクだ。
本書のシミュレーションが分かりやすい。貯金4,000万円を年5%で運用し、年180万円で暮らす。ここに年3%のインフレと、5年目の突発的な500万円の支出が重なると、10年後には元本が2割減る。
ところが年100万円の副収入があるだけで、同じ条件でも10年後の元本はむしろ増えるのだ。だから著者がすすめるのは完全な引退ではなく、少しでも収入源を残して社会とつながり続ける「余裕のある生活」である。
人間関係も一つの会社に依存せず、利害のない居場所を複数持つ「分散投資」でリスクを散らしておく。人は他者とつながり、支えを与えることで幸福を感じる――ハーバード大学の研究もそう示していると著者は添える。
読み終えて残るのは、才能や環境の話ではなかった。著者はウォルト・ディズニーの「想像したことは、実現できる」という言葉を引きながら、人は想像できないものにはなれないと書く。
億の世界を具体的に描けなければ、そこへ向かう行動は始まらないというわけだ。その第一歩は、証券口座を開いて1,000円の株を一つ買うことでいい。
世界の見え方が変わるのは、案外その小さな一歩からなのかもしれない。
