「5年後、どうなっていたい?」——面接や1on1でこう問われて言葉に詰まった経験は、たぶん多くの人が持っている。将来像がすらすら出てこない自分を、どこか不完全な人間のように感じてしまう。
経営学者の楠木建は、その後ろめたさをあっさり退ける。計画なんて持たなくていい、世の中の九割は思い通りにならないのだから、と。
本書『好きなようにしてください』は、読者から寄せられた仕事の悩みに、著者がひたすら「好きなようにしてください」と返し続ける人生相談集だ。一見突き放しているようで、その手前で世間の常識を一枚ずつ剥がしていく。読み終えると、抱えていた荷物が一つ軽くなっている。
キャリア計画は失敗ではなく、そもそもの前提
本書の入口は、キャリア計画への信仰を崩すところにある。「夢に日付を入れろ」「一生の目標を持て」——よく聞く助言だが、著者に言わせれば余計なお世話だ。
長期計画を立てたところで、現実の九割は想定からずれていく。むしろ計画どおりに進むほうが例外なのだから、計画を持てないことを欠陥のように悩む必要はない。
では目標のない人はどう動けばいいのか。著者が置く答えは「川の流れに身をまかせる」。無理に目標をひねり出さず、日々感じる小さな引っかかり——「これをやっていると調子がいい」「なんとなく違和感がある」といった内なる声に耳を澄ませ、機が熟すのを待てばいい。
うまくいかない日は、うどんを食べて布団をかぶって寝るくらいの気楽さでちょうどいい、という。本書のもとになったNewsPicksの連載自体、著者いわく予期せぬ流れで始まったものらしい。
計画が立てられないのは失敗ではなく、キャリアという営みのそもそもの前提なのだ。ただし一つ留保も要る。流れに任せるという姿勢は、動ける選択肢がある人にとっては解放だが、次の一手が生活に直結する局面では気楽に構えづらい。本書の軽やかさは、いきなり全部を委ねるのではなく、まず「嫌なことを一つやめる」小さな一歩に翻訳して受け取るのが現実的だろう。
「仕事」とは何か——二つの原則に集約される
サブタイトルは「たった二つの『仕事』の原則」。膨大な相談への回答は、突き詰めれば二つの原則から派生している。
一つは、仕事とは自分以外の誰かへの価値提供だということ。自分のためにやる活動はすべて「趣味」であって、他者の役に立ち対価を得て初めて「仕事」と呼べる。
もう一つは、人間の行動の九割九分は自由意志で決まるということ。環境や他人のせいにできる余地はほとんどなく、自分の好き嫌いで好きに決めていい。
この二本柱から、環境を気にするな・計画を捨てろ・実績だけを見ろ・努力を疑え、という具体的な主張がすべて枝分かれしていく。膨大な悩みを二つの原則に畳んでみせる手つきは鮮やかで、読み手はいちいち個別の正解を探す必要から解放される。
ただし、これほど切れ味よく割り切れるのは、相談という形式ゆえでもある。現実の職場では、価値の受け手が誰なのか、どこまでが自由意志の範囲なのかが曖昧なことのほうが多い。
原則はそのまま公式として当てはめるより、迷ったときに立ち返る座標軸として持っておくのがいいだろう。
読みどころは、この解体が精神論ではなく経営学の論理で裏打ちされている点だ。著者の本業は競争戦略論。企業がどの市場に打って出るかを考える枠組みを、そのまま個人の働き方に持ち込んでいる。
ただし著者は「法則」までは約束しない。伊藤忠を率いた丹羽宇一郎の「経営は論理と気合だ」という言葉を引きながら、現実のビジネスは説明できるのが二割、残り八割は気合や運だと認める。
それでも人を動かすには二割の論理が要る。だから本書も「こうすればこうなる」という成功法則は差し出さず、考える筋道だけを渡してくる。
会社の名前では何も決まらない——環境決定論の解体
最初に叩き壊されるのが「環境決定論」だ。どの会社、どの環境に身を置くかで結果が決まる、という思い込みである。大企業かスタートアップか、東大かスタンフォードか、といった比較はすべてここに根を持つ。
だが結果を左右するのは環境という外側の条件ではなく、そこで自分が何をするかという中身だ。しかもどんな環境にも良い面と悪い面が必ず同居する。大企業には安定と引き換えの窮屈さがあり、ベンチャーには自由と引き換えの不安定さがある。
著者はこれを「行ってこいでチャラ」と呼ぶ。プラスとマイナスが相殺され、結局どこも似たようなものに落ち着く、というわけだ。
とりわけ鋭いのが「直接経験」の指摘である。働いたことのない会社の中身を、外から正確に評価できるはずがない。著者はこれを、パスタを一度も食べたことのない人が「カルボナーラが好きでアルデンテがいい」と語るようなものだ、とたとえる。
食べてみなければわからない。だから若いうちは、机上の比較で消耗するより飛び込んで確かめたほうが早い。環境の良し悪しを外から採点している時間は、たいてい何も生まない。もっとも、この「まず飛び込め」は転職コストの低い若手ほど効く処方でもある。
家族や年齢の制約が重い局面では、そのまま真に受けにくい面があることも付け加えておきたい。
自己評価は無価値、実績だけが自分を証明する
本書でいちばん冷たく、いちばん効くのが評価の章だ。著者は「自己評価には意味がない」と言い切る。「これだけ残業して頑張ったのに」という気持ちは、仕事の世界では一円の価値も生まない。仕事が他者への価値提供である以上、値打ちを決めるのは常に受け手——客や上司の側だからだ。
評価が低いなら、不満を漏らす前に「自分のどこが足りなかったのか」を尊敬する上司に正面から尋ねればいい。受け取るべきは自分の努力量ではなく、相手が返してきた結果だけ。
ここで支えになるのが、名経営者ハロルド・ジェニーンの「実績こそが実在」という言葉だ。未来の予測も他人の噂も関係ない。残した実績だけが自分の能力を証明し、自分を自由にする。
三菱商事時代に不遇だった新浪剛史が、砂糖部門で頼られる仕事を積み上げて認められ、やがてローソン社長へと進んだ逸話も、この原則の実例として引かれる。
承認欲求への処方も根は同じだ。他人が自分を気にかける時間なんて一瞬にすぎない。著者によれば本書への批判メールは週に二通ほど、Twitterのフォロワーが実際に本を買った数は累計で二十五冊、フォロワーの0.1%にも満たなかったという。
あなたが思うほど、他人はあなたを見ていない。関連して著者は、資格やTOEICのような「見せられるスキル」を積んでも担当者止まりで、本当に市場価値が高いのは商売全体を動かし売上やコストを動かせる人だと説く。
専門性の欠如を嘆く前に、まず一分野で「器用貧乏」になり、経験を掛け合わせて「器用リッチ」を目指せ——ここでも一貫しているのは、見せかけのハクではなく、他者に渡した実利で勝負しろという姿勢である。
この徹底した受け手中心主義は、承認に飢える人ほど楽になれるという逆説を含んでいる。評価の主導権を自分の外へ手放すことは、裏を返せば、自分の頑張り具合という当てにならない物差しを捨てられるということだからだ。
「努力しなきゃ」と思った時点で、向いていない
評価の次は努力だ。ここで著者は常識を大胆に反転させる。多くの人は成功に努力は不可欠だと信じているが、著者は「努力しなきゃ」と気合を入れている時点で、その仕事に向いていないサインだと見る。
理想は「無努力主義」。傍目には猛烈な努力に映っても、本人は理屈抜きに好きでやっているから努力とすら感じていない。努力が娯楽になっている状態だ。
才能のある人は頼まれなくても時間を忘れて没頭し、結果として自然に伸びていく。だから辞めたいほど辛い仕事にしがみつく必要はない。「死ぬ気で働け」がしんどい人は大勢いるし、それは優劣ではなく単なる性分の違いだ。
誰にも頼まれていないのに自ら苦境に身を置いて苦しむ様を、著者は「一人SM」と呼ぶ。向いていないなら、テニスで言えば別のサーブを打ち直せばいい。
若いうちは何度でもやり直しがきく。
この「無努力主義」は威勢がいいが、鵜呑みにすると危うさもある。好きなことでも、立ち上がりの反復には地味な負荷がつきものだし、「努力を感じる=向いていない」と早合点すれば、伸びる手前で撤退しかねない。
ここは「その苦痛が慢性化しているか、一時的な負荷か」を見極める線引きとして読むのが穏当だろう。
好き嫌いを言語化し、自分の土俵の輪郭を描く
計画という物差しを捨てたら、何を頼りに決めるのか。著者が据える新しい基準が「好き嫌い」だ。ただし好き嫌いを単なる感想で終わらせない。ここで登場するのが「具体と抽象の往復運動」という思考法である。
手順はこうだ。日々の仕事で感じる具体的な「これが好き」「これが嫌い」を拾い、「なぜ好きなのか」を掘り下げて抽象化する。すると「自由裁量のある仕事が好きだ」「他人との調整は嫌いだ」といった、自分だけの価値観が言葉になる。
これが「キャリア・コンセプト」、いわば自分だけの相撲の土俵の輪郭だ。そのコンセプトを携えて、次の具体的な選択を下していく。
示唆に富むのは、やりたいことは簡単にはわからなくても、嫌いなことは確信を持ってわかる、という指摘だ。だから「嫌いなことをしない」を出発点にしていい。
好き嫌いに嘘をついて嫌いなことを続けると、本当に好きなことまで見えなくなる。適性とは事前に診断するものではなく、まず思い込みで走り出して事後に修正していくものなのだ。この事後修正の構えは、やりたいことを先に確定させようとする世の自己分析ワークとは真逆で、そこに本書独特の軽さがある。
付け加えれば、好き嫌いを唯一の羅針盤に据える立場は万能ではない。「やりたいことで選ぶと後悔する」と説く科学寄りの議論もあり、両者を突き合わせて初めて、自分の選び方が立体的に見えてくる。
だから焦らなくていい。まずは「これだけは嫌だ」という一つを今日やめてみる。そこから、あなたの土俵の輪郭が動きはじめる。