牛丼チェーンが数十円値上げすると「客が離れるのでは」と大きく報じられる。ところが行列のできる人気ラーメン店が同じ額を上乗せしても、常連は黙って通い続ける。
同じ「飲食店の値上げ」なのに、世間の反応はまるで違う。高橋洋一さんの『たった1つの図でわかる! 図解経済学入門』は、この身近な謎の答えが、中学の公民で見た「需要と供給のバッテン形の図」1枚に全部書いてある、と説く一冊だ。
数式は一度も出てこない。モノの値段から国の景気、日銀の金利政策、政府の増税まで、たった1枚の図を軸に世の中の経済を丸ごと読み解こうとする、そんな挑発的な入門書である。
「経済の9割はたった1枚の図で読める」——本書が捨てたものと渡すもの
著者の立場は最初から徹底している。経済を語るのに何種類もの理論が必要になるのは、本質をつかめていない証拠だ、というのだ。手段を数多く暗記するより、1つの道具を幅広く応用する練習を積め、と繰り返す。
だから本書は、ミクロ経済もマクロ経済も金融も財政も、すべて「需要と供給の図」1つで押し通す。「経済の9割は、たった一つの図でわかる」というのが冒頭の宣言だ。
ここで見落としたくないのは、本書のゴールが知識の暗記ではない点である。著者は元大蔵省(現・財務省)の官僚で、政策の現場を内側から見てきた人物だ。
そのうえで読者に求めるのは、ニュースや政治家の言葉に流されず、自分の頭で損得を検算する力を持つことなんです。編集部として付け加えれば、この「1つの道具で押し通す」姿勢は強力な反面、切り落とすものも当然ある。
現実の経済は期待や制度、時間差で複雑に絡み合うが、本書はあえてそこを図の一撃で単純化する。その割り切りを承知したうえで読むと、道具としての切れ味が際立ってくる。
図の作りはこうだ。縦軸は「値段(P)」、横軸は「数量(Q)」。ここに2本の線を引く。消費者は安く買いたいので値段が下がるほど買う量が増え、需要曲線は右下がりになる。
生産者は高く売りたいので値段が上がるほど売る量が増え、供給曲線は右上がりになる。この2本が交わった点が、買い手と売り手が折り合える「モノの値段」だ。
バッテン(×)の形に見えるので、著者はこれを「バッテン形の図」と呼ぶ。取引が成立すると双方に「お得感」が生まれ、その差額を消費者余剰・生産者余剰と呼ぶ——この2語が、後の自由貿易の評価で効いてくる伏線になっている。
牛丼は値上げできず、人気ラーメンは値上げできる——価格弾力性という感度
ここから応用が始まる。カギは「価格弾力性」、値段の変化で売れる数がどれだけ動くかという感度のことだ。
牛丼チェーンは弾力性が高い。「安いから来ていた」客が多く、少し値上げしただけで人がサッと離れ、売上がガクンと落ちる。図でいえば需要曲線が水平に近く、数量が値段に敏感に反応する形だ。
人気ラーメン店は逆に弾力性が低い。特定の味のファンがついているので、多少値上げしても客足は大きく変わらず、値上げがそのまま売上増につながる。
同じ「飲食店」でも需要曲線の形が違えば、取るべき戦略は正反対になる。この視点を持てると、原価が上がったからと反射的に価格へ転嫁して客を失うリスクが、事前に見えるようになる。
もう一歩進んだ形が「オンリーワン」だ。似た商品が並ぶ完全競争の市場では、値段は市場全体で決まってしまい、1社だけ高く売ることはできない。ところが他社にない価値を持てば、自分だけの需要曲線を描けて、値段を自分で決められる。
本書はアップルを引く。ブランド力で「安くしなくても買う客」を抱えているから、値引き合戦の家電量販店でもほぼ定価で売れ続ける、という説明だ。ビジネス書としても読めるのはこのあたりで、弾力性の高い商品なら付加価値で、低い商品なら値上げ余地で、と自社の打ち手を図の上で仕分けできる。
待機児童も比較優位も、同じ図の「どちら側を動かすか」で整理できる
面白いのは、社会問題まで同じ図で切ってしまうところだ。著者は待機児童問題を「保育所の需要と供給のミスマッチ」として描く。人気があって家賃も高い一部地域で、入りたい子ども(需要)に対して保育所(供給)が足りていない状態だ。
だとすれば打ち手は2つに絞られる。需要を減らす(保育所の多い地域へ移る、通園バスを使う)か、供給を増やす(保育士の待遇を上げて成り手を増やす)か。
実際に政府は保育士の賃金を平均で月6000円ほど上げる策を打ち出した。感情論ではなく、図のどちら側を動かすのかという一点で議論が整理されていく。
働き方の話にも図は届く。ここで登場するのが「比較優位」だ。誰かに絶対的に勝てなくても、自分の中で相対的に得意な分野は必ずある、という考え方である。
本書はアインシュタインと秘書の例を出す。研究も事務も得意なアインシュタインが、あえて事務を秘書に任せて研究へ専念した。互いに得意分野へ特化して分業したことで、全体としての成果が増えた、という話だ。
自由競争で今の仕事が脅かされたときも、無理に正面衝突するより、自分が比較的得意な場所へ移るほうが理にかなう。ここは自己啓発に流れそうな箇所だが、余剰や弾力性と同じ「相対比較」という発想で貫かれているので、話が地に足を着けているのが良い。
軸を物価とGDPに張り替えれば、景気も金融政策も同じ図で読める
ここが本書の勝負どころだ。ミクロで使った図を、そっくりマクロ経済に持ち込む。やることは軸の張り替えだけ。縦軸の「値段」を「物価」に、横軸の「数量」を「実質GDP」に置き換え、需要は世の中全体の「総需要」、供給は「総供給」になる。
総需要には定義があり、日本全体の「消費+投資+政府需要+輸出-輸入」だ。この一番大きな塊が「消費」だと覚えておくと、後の増税の話が効いてくる。
すると経済政策の正体が見えてくる。金融政策も財政政策も、要は「総需要曲線を右に動かすか、左に動かすか」でしかない。デフレ気味なら右へ動かして物価と実質GDPを押し上げ、過熱したら左へ戻す。
ついでに、よくある誤解も1つほどける。牛丼の値下がりを見て「デフレだ」と言う人がいるが、特定商品の値段(個別物価)と世の中全体の値段(一般物価)は一致しない。
デフレは一般物価が下がった状態を指す、というわけだ。
金融政策の章でも入口は同じで、「金利とはお金の価格である」と捉え直す。お金を借りたい人(需要)と貸したい人(供給)のバランスで金利が決まる。
ここで本書が最重要視するのが「実質金利」で、式は実質金利=名目金利-予想インフレ率。名目金利が0パーセントでも、みんなが「これから2パーセントのインフレになる」と予想すれば実質金利はマイナス2パーセントになり、お金を借りて動かすほうが得な状態が生まれる。
だから量的緩和が意味を持つ。名目金利はゼロより下げにくくても、日銀が出回るお金の量を増やせば「これからインフレになる」という予想を高め、実質金利を引き下げられる、という理屈だ。
マイナス金利も、私たちの預金金利がマイナスになる話ではなく、民間銀行が日銀に預ける当座預金の一部に手数料をかけて貸し出しを促す策だ、と整理される。
為替もまた、円とドルの需給で交換レートが決まる同じ枠組みに乗せられる。
増税は必ず景気を冷やす——著者が「借金1000兆円」を否定する論拠
財政政策の章で、著者の立場は最も鮮明になる。増税はどんな状況でも景気を悪くする、と言い切るのだ。理屈はこうだ。総需要は「消費+投資+政府需要+輸出-輸入」であり、消費税を上げれば人々は買い控え、最も大きい塊である「消費」が直接落ち込む。
総需要曲線が左へシフトし、実質GDPが下がる。実際、消費税が5パーセントから8パーセントへ上がったときに景気が悪化し、10パーセントへの引き上げは一度見送られた、と実例が添えられる。
財政出動にも副作用があり、政府が国債を大量に発行すると利回りが上がって民間の貸出金利も上がり、民間需要を圧迫する(クラウディングアウト)。税の公平についても、格差を縮めたいなら消費税より累進課税の所得税のほうが筋が通る、と論じる。
本書で最も反直感的なのが「国の借金1000兆円で破綻寸前」という定番フレーズへの真正面からの否定だ。見るべきは借金だけでなく、資産と合わせた連結のバランスシートだという。
平成26年度末で負債合計1371.5兆円に対し資産合計932.1兆円、差額の借金は439.4兆円。そこから実質的な政府の子会社である日銀が持つ国債(2016年3月時点で353兆円)を差し引くと、実際の借金は90兆円、ざっくり100兆円程度まで縮む、という計算だ。
ここで大事なのは、この主張に賛成するかどうかではない。「1000兆円」という数字を鵜呑みにせず、資産の側も並べて自分で検算してみる——その姿勢こそ本書が本当に渡したい道具だ。編集部としては、著者の財政観は論者によって評価が割れる立場であることも申し添えておきたい。
むしろ本書の価値は結論そのものより、同じ図と余剰・弾力性・実質金利という数語で、賛否のどちらも検算できる土台を読者に持たせる点にある。
ニュースの見方を変える——明日から図を1枚描く習慣
本書の実践は、知識を増やすことではなく、ニュースの見方を変えることにある。値上げを見たら「嫌だな」で止めず、人気が出たから(需要増)か材料が足りないから(供給減)か、バッテンの図を頭に描いて当てにいく。
自社の商品が牛丼型(弾力性が高い)かラーメン型(弾力性が低い)かを判定し、前者は付加価値で、後者は値上げ余地で戦う。「増税」「公共投資」「金利引き下げ」というニュースは、総需要曲線が右か左かに翻訳して、景気を温めるのか冷やすのかを自分で判断してみる。
著者は経済学者について、難しい肩書きより「打率がすべて」だと言う。専門家の言葉も、学んだ図で「本当にそうか」と検算していい、という励ましだ。
この本を一言でいえば、経済理論の教科書ではなく「思考の練習帳」である。1枚の図を、牛丼にも待機児童にも日銀にも国の借金にも当ててみる。その反復の先に、値上げや増税のニュースを見たとき、慌てて誰かの結論に飛びつく前に、まず自分の手で1枚の図を描く癖が残る。
それが、数式ゼロのこの薄い本が渡してくる、いちばん実用的な武器だ。
