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『武器としての「資本論」』白井聡さん|「牛丼で十分」が、あなたを安く働かせる

思考法・問題解決 ✍ 白井聡さん
約7分で読めます

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『武器としての「資本論」』
目次

夕方の満員電車で、分厚い『資本論』を食い入るように読む三十歳ほどのサラリーマン。著者の白井聡さんが実際に目にしたというその姿から、本書は静かに立ち上がる。彼はきっと、この古典に生き延びるための知恵を探しているのだろう——。そう感じたところに、この本の狙いが凝縮されている。

150年以上前に書かれた経済学の古典が、なぜ現代を生きる私たちの「武器」になるのか。白井さんはマルクスを難解な革命理論としてではなく、うつや格差や「人生がつまらない」という漠然とした感覚から自分の身を守る防身術として読み替えていく。

学問としての正確さよりも、読者が明日を生き抜くための実用性を優先した一冊だと捉えると腑に落ちる。

図解

資本主義は、あなたを豊かにするために動いていない

本書の核心を一文に凝縮するなら、この見出しに尽きる。資本のただ一つの目的は「自己増殖」、つまりお金がお金を生み続ける運動そのものにあり、労働者が豊かになるかどうかはその運動の「事のついで」でしかない。白井さんは資本主義を、人間が生きるために外界と取り交わす物質代謝の大半を、商品の売買を通じておこなう社会だと定義する。

この本の巧みさは、視点の振れ幅にある。グローバルな資本の運動というマクロな話と、「なぜ自分の上司はあんなに不機嫌なのか」という卑近すぎる話を、同じ一つのメカニズムとして地続きに描いてみせる。

おかげで読み終えると、日常の理不尽が個人の性格の問題ではなく「システムの必然」として見えてくる。ここは救いにもなるが、裏を返せば何もかもを構造のせいにして思考停止する危うさとも隣り合わせで、そのバランスの取り方は読者に委ねられている。

もう一つ、本書が執拗に崩そうとするのが「資本主義は永遠に続く自然な状態だ」という感覚だ。冷戦後にフランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を語り、市場経済こそ人類の最終形態とされた空気を、白井さんは資本主義以外の選択肢を想像すらできなくなった意識——「資本主義リアリズム」と呼ぶ。

この錯覚こそが、過酷な状況から「逃げる」という発想そのものを私たちから奪っている、という指摘は鋭い。

富と商品の違いが、水一杯にもお金を払う社会を生んだ

議論の土台になるのが、「富」と「商品」は同じではない、という区別だ。

富とは、おいしい水、住む家、誰かが淹れてくれた温かいお茶のように、人間の役に立つもの全般を指す。対して商品は、その有用性に加えて「市場で売買される形」をまとったものだ。

資本主義以前の社会にも富はあふれていたが、それは必ずしも商品ではなかった。ところが資本主義のもとでは、あらゆる富が「役に立つという質」と「いくらで売れるかという量」の二重性を強制的に帯びる。

結果として、お金を払わなければ水一杯すら手に入らない社会ができあがった。当たり前に思える光景だが、水にまで値札がつくこと自体が資本主義に固有の現象なのだと言われると、足元の常識が一枚めくれる感覚がある。

商品交換のもう一つの顔は「後腐れのなさ」だ。白井さんは『シートン動物記』の逸話を引く。育ててやった費用の領収書を成人した息子に突きつけ、全額を請求した父親がいた。

息子は何年もかけて完済したのち、父と縁を切ったという。支払いが済めば関係も終わる——匿名的でドライな商品交換の原理が、家族という共同体にまで侵食した極端な一例である。

ここを読むと、値段のつかない関係を自分がどれだけ守れているか、と胸に問いたくなる。

スキル信仰は「魂の包摂」という支配の完成形

マルクスは、資本が人間の労働を呑み込む過程を「包摂」と呼び、二段階に分けた。

形式的包摂は、生産の目的が自分の暮らしから金儲けへと変わる段階だ。農民が副業でわら細工を作って売るように、どう働くかはまだ自分で決められる。実質的包摂は、働き方そのものまでが資本の都合で完全に組織化される段階で、ベルトコンベアの速度に肉体を合わせる工場労働がその典型になる。

白井さんが現代的だと見るのは、この実質的包摂がいまや人間の「知性・感性・魂」にまで及んでいる点だ。私たちは無意識のうちに「人は資本の役に立つスキルを身につけて初めて価値が出る」という物差しを内面化し、「自分はスキルがないから低賃金で当然だ」と、自ら進んで自分の値札を貼り替えてしまう。

これが魂まで包摂された状態だという。

その延長線上で起きるのが「消費者化」だ。お金を払って受動的に楽しませてもらう態度が全面化すると、自分から面白さを見つけ出す力そのものが痩せ細っていく。授業に向かって「何か面白い話を提供しろ」と待つだけの学生の姿を、白井さんは教育まで商品になった時代の消費者マインドの象徴として挙げる。

人生がつまらないと感じるのは、あなたが主体性を奪われた消費者へと縮められているからだ、というわけだ。耳の痛い診断だが、面白さを「供給されるもの」だと思い込む癖には、たしかに身に覚えがある。

技術が進むほど、なぜ暮らしは楽にならないのか

本書でいちばん切れ味が鋭いのが、この問いへの答えだ。

資本の運動は、お金(G)で商品(W)を買い、より多いお金(G’)にして回収する「G−W−G’」で表せる。この差額が剰余価値だが、市場では等価交換が原則のはず。

1万円のものは1万円でしか売れないなら、その差額はどこから湧くのか。答えは「労働力」という特別な商品にある。労働力は、自分を維持する生活費(給料)以上の価値を、実際の労働で生み出せる唯一の商品なのだ。

1日の生活費が5時間分の労働に相当する人を日給どおりに雇い、実際には8時間働かせれば、差の3時間分が無償の儲けとして資本家に流れ込む。

儲けを増やす手は二つある。労働時間そのものを延ばす絶対的剰余価値と、生産性を上げて必要な労働時間を縮める相対的剰余価値だ。後者を狙うのがイノベーションだが、ここに罠がある。

新技術で一時的に得られる超過利益(特別剰余価値)は他社にすぐ模倣されて消えるため、企業は永遠のイタチごっこを走り続けるしかない。

その帰結は皮肉だ。1980年代にコンピューターが職場へ入り、事務効率は劇的に上がったのに、労働時間はむしろ延び、過労死が社会問題になった。機械は労働者を楽にするためではなく、剰余価値を搾り出すために導入されるからである。

そして中身の薄い「改善ごっこ」のPDCAや、社会的な有用性の乏しい高給職——いわゆるブルシット・ジョブが積み上がっていく。効率を追うほど無駄が増える、という逆説だ。

白井さんが引くボーイングの例は生々しい。利益を絞るために高給の熟練プログラマーを切り、安価な人材に最新鋭機737MAXのプログラムを書かせた結果、欠陥が生じて二機が続けて墜落した。

生産性競争は人命まで削りうる、という警告として重く残る。効率化はしばしば無条件の善とされるが、それが誰の何のための効率なのかを問い直す視点を、本書は静かに、しかし執拗に突きつけてくる。

「本源的蓄積」の暴力は、いまも現在進行形で続く

資本主義が動き出すには条件がある。身分制から自由で、かつ土地も道具も持たない「二重の意味で自由な労働者」が大量に必要になる。そして彼らは、暴力によって生み出された。

イギリスの「囲い込み」は、羊毛を採る羊を飼うために農民を土地から力ずくで追い出した。日本でも、松方正義による緊縮財政「松方デフレ」が農産物価格を暴落させて農民を土地から引きはがし、1873年の地租改正が税を現物から現金へ変えたことも、農民と土地を切り離す装置として働いた。

白井さんが強調するのは、これが過去の出来事では終わっていない、という点だ。現代の雇用の非正規化やアウトソーシングは、かつて労働者が勝ち取った「雇用の安定」という既得権益から、人をふたたび引きはがす動きにほかならない。安定を失って寄る辺なくなっていく社会を、白井さんは「現在進行形の本源的蓄積」であり「社会の液状化」だと名づける。

歴史の教科書の話が、そのまま自分の雇用契約の話へと接続される瞬間だ。

最強の抵抗は「うまいものを食う」こと

では、どう抗えばいいのか。白井さんの答えは意外にも「食」にある。

新自由主義の正体は、資本家の側から仕掛けられた「上から下への階級闘争」だと本書は言う。過去30年、労働者はやられっぱなしで、格差は世界大恐慌の水準を超えて開いた。

税や教育といった再分配の仕組みまで逆手に取られ、持つ者がさらに得をする構造が静かに進む。旧来の労働運動が総崩れしたいま、白井さんは新しい抵抗の場を「感性のアリーナ」に置く。

カギは「必要の弾力性」だ。賃金の基準となる「生活に必要な水準」は、栄養学で一律に決まるものではなく、歴史的・文化的に幅を持つ主観的なものだという。

資本の側は「カロリーメイトや牛丼で十分だろう」と、その必要の基準をどこまでも引き下げようとする。それを「まあこれでいいや」と受け入れてしまうことこそ、感性まで飼い慣らされた姿だ、と白井さんは指摘する。

だからこそ、単調なファストフードに舌を馴らされるのを拒み、「手間をかけてうまいものを食う権利が自分にはある」と主張する。白井さんが引く「Don’t think. Feel!」——考えるな、感じろ——という感性の再建こそが、資本による賃金ダンピングに抗い、自分の値段を自分で引き上げる階級闘争の原点になる、というのが本書の着地だ。

囲い込みで共同体が壊れたイギリスで食文化まで痩せていった歴史を重ねながら、食を軽い趣味ではなく尊厳の問題として語る筆致には、確かな説得力がある。

デモでも投資でもなく「うまいものを食う」から始めよ、という結論は最初こそ拍子抜けする。だが、自分の「必要」を安売りしない感覚を取り戻すことが、資本に値段を決めさせないための最初の一歩なのだと読み直せば、その突飛さの奥にある一貫性が見えてくる。


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