商談の翌日、判で押したようなお礼メールが届く。 文面はいつも同じだ。「本日はありがとうございました。大変勉強になりました」。
私はこの一文を、長らく好感触のサインだと読んでいた。 城野えんさんの『成果に直結する「仮説提案営業」実践講座』を読んで、それが誤読だったと知った。
参考になった、で言葉が止まっている。 その商談は、顧客にとって単なる情報収集の場で終わっていたということだ。
著者はグローバルIT企業に入社し、新卒2年目で新製品の受注件数を社内トップに押し上げ、社内最年少でシンガポールに駐在した後に独立、以後の受注率100%(2022年1月時点)を維持しているという営業コンサルタントである。本書はその手順を、スライドの配色ルールや商談での一言まで書き出した実践書だ。

こんな人におすすめ
アポは取れるのに二回目が設定できない人。相手の反応は悪くないのに、いつも「社内で検討します」で止まる人。この本が最初に効くのは、この層だ。
自社製品の知識がまだ浅く、商談で機能を聞かれるのが怖い若手にも向く。新規開拓をミッションとして渡されたものの、どこから手をつけるか決めきれないまま月が終わろうとしている人にも。
逆に、向かない層もはっきりしている。本書は攻めの営業に完全に振り切っているため、すでに来ている引き合いをさばくのが仕事の中心の人には、事前仮説にかける手間がそのまま過剰投資になる。
仮説思考は「当てずっぽう」ではない
本書の主張は一行に収まる。顧客に聞く前に、こちらから仮説を資料にしてぶつける。
これまでのBtoB営業は、まず訪問して困りごとを尋ね、持ち帰ってから提案書を作るのが定石だった。本書はこの順序を逆転させる。事前調査で「この会社はこの課題を抱えているはずだ」という問題仮説と、それを解く解決仮説を先に組み立て、初回訪問から個別の提案資料を持ち込む。
背景にあるのは市場側の変化だ。情報通信産業は2019年時点で名目国内生産高が100兆円を超え、全産業の1割を占める規模になった。ベンダーは乱立し、顧客は営業に会う前にホワイトペーパーで比較を済ませている。
紹介と称してカタログを開いても、相手はすでに知っている情報しか出てこない。「参考になりました」で終わるのは、この構造の当然の帰結だ。
著者が対置するのが仮説思考と網羅思考である。仮説思考は情報が足りない段階で仮の結論を置き、実行し、検証し、修正する。網羅思考はデータを集め尽くしてから結論を出す。後者のほうが正確に見えるが、結論が出る頃には競合が提案を終えている、というのが著者の見立てだ。
本書が挙げる例が象徴的だ。製品知識に乏しいまま中途入社した営業が、社内の顧客管理システムと信用調査会社の資料だけを頼りに顧客の課題を予測し、問題仮説を立てて初回商談に臨んだ。
1年後、社内表彰されるほどの成績を収めている。差がついたのは製品知識ではなく、準備の中身だったと本書は総括する。
仮説を立てるだけでは足りない、というのが第1章の続きだ。「だから何が起きるか」を機械的に問い直し、原因から結果へと因果を一段ずつ積み上げていく。
あるセキュリティ製品の例で言えば、脆弱性があると狙われやすい、だから侵入を許す、だから業務停止や情報漏洩に至る、だから数億円規模の損失や取引停止につながる、という具合だ。
ここまで積み上げて初めて、顧客は自分ごととして受け止める。売っているのは製品そのものではなく、この先延ばしのリスクを解除することなのだと、著者は位置づけている。
仮説が外れた瞬間に、商談は本音に切り替わる
外れた仮説をぶつける不安は、読むまで拭えなかった。的外れな提案をすれば信用を落とすのが普通ではないか、と。
著者の答えは逆だ。働くのは返報性の法則である。人は好意や労力を受け取ると、お返しをしなければと感じる。初回から「御社のために調べて作った」個別資料が出てくれば、顧客はその労力を受け取り、警戒を解く。
さらに、仮説が外れているときほど話は進む。目の前に具体的な仮の答えがあるから、顧客は「実情はそうではなく」と自分から正しい情報を補ってくれる。開いた質問だけでは引き出せない情報だ。
本書には外れた場面の実例がある。用意した想定課題を「うちはそこは課題に感じていない」と否定されたとき、営業は製品紹介に逃げず、その企業のサイトにあった新サービスの告知から「在宅勤務制度の本格導入が優先課題ではないか」と、その場で仮説を組み直した。
著者が唯一禁じるのが、外れたとわかった後も用意したプレゼンの筋書きを押し通すことだ。外れた時点で、相手が実際に口にした課題へ話を切り替える。
これが鉄則になる。ただし、外れを受け止めて即興で仮説を組み直すには、業界と企業への事前調査量がそもそも要る。仮説の質が低いまま外れても、顧客は単に不勉強な営業だと判断するだけだろう。
資料も商談も、削るほど刺さる
本書にはもう一つ、強烈な失敗例が出てくる。あるSIerが初回商談に49枚のスライドを持ち込んで詳細な機能説明をした結果、顧客は思考停止に陥り、商談は前に進まなかった。
背景に置かれるのが、山口揚平氏が著書で唱えた「思考と情報のパラドクス」だ。人は受け取る情報が増えるほど、自分の頭で考える工程を省きがちになる。丁寧に説明したはずが、聞き手の思考する余白を奪う結果になる、という逆説である。
この逆説を踏まえ、初回資料の型はあえて固定される。想定される課題とその原因、解決策、得られるメリット、導入事例。骨格はこの4点だけに絞り込む。
メリットの数値は正確さより先に、その会社向けの仮の試算を入れることが求められる。「業務効率が向上します」では何も伝わらないが、「1日1時間の作業が5分になります」と仮置きすれば、顧客は自社の実数で計算を始める。
金額は逆に、聞かれるまでこちらから出さない。必要性が腹落ちする前に費用を見せると、そこで「高い」と判断されて終わるからだ。導入実績がまだゼロの新製品でも同じ発想が使える。
実績の代わりに、何社が検討中で、うち何社が検証段階に進み、そのうち何社が同業界かを数字で示せば、実績ゼロは沈黙する理由にならない。
商談中の受け答えにも型がある。「その機能はありますか」と聞かれたとき、それが今使っている機能で欠かせないMUST要件なのか、他社のプレゼンで聞いただけのWANT要件なのかを見極める。
MUSTなら開発への要望として交渉の余地を作り、WANTならあえて省いた設計思想として返す。クロージングも「ご検討いただけませんか」ではなく、デモ、上長への説明、無料トライアルの3択を出し、進め方そのものを選んでもらう。
数百万円規模の決裁を、担当者一人にその場でYES/NOを迫ってはいけない。追い込まれた担当者は「社内で検討します」としか言えなくなる。
商談の温度感をひっくり返した実例が、従業員700人ほどの中堅広告会社への提案だ。顧客管理は表計算ソフトで代用しており、担当者は「今は導入を検討していない」というスタンスだった。
営業は事前にその会社の採用ページを読み込み、自主自律を重んじる社風を見つけ出す。そこから「画一的な営業研修は社風に合わない、だから現場発のナレッジ共有で受注率を底上げすべきだ」という、その会社専用のストーリーを組み立てた。
話を右から左に聞くだけだった担当者が、「真剣に検討してみよう」まで動いている。
受注を決めるのは、商談が終わった後の1時間
終盤で最も実務的だったのが、商談後のルールだ。商談が終わったら1時間以内に議事メモを送る。
根拠はエビングハウスの忘却曲線である。記憶は20分後に4割、1時間後には半分以上、1日後には7割以上が失われるとされる。時間が経つほど、メモを書く作業自体も重くなる。
メモに書くのは決定事項、双方の宿題、次回の日程の3点だけでいい。ここで働くのが一貫性の原理だ。人は一度文章として残した合意と矛盾しない行動を取ろうとするため、顧客が期日通りに社内調整を進めてくれる確率が上がる。
前提として、商談の直後に次のアポを詰めず、15分の振り返り時間を先にカレンダーで押さえておく必要がある。
著者の研修を受けたあるパートナー企業では、この復習サイクルをチェックシートにしてチーム全員がデスクに貼ったところ、1か月で受注件数が4件から83件に増えたという。テクニック単体ではなく、徹底できる仕組みに落とし込んだ結果だと読める。
終盤にはもう一つ、若手向けの視点がある。経験や知識量では、新人はベテランに追いつけない。だが議事メモを送る速さと文章の分かりやすさなら、今日から並べる。相手が本気度を測る材料は、キャリアの長さだけではない。
おわりに
読み終えて手元に残ったのは、個別のテクニックというより、動く順番についての発見だった。
先に尋ねるか、先に考えを差し出すか。この初動の違いだけで、商談の主導権がどちらの手に残るかが決まる。
著者は本書の終わりに、こう書いている。
「最も重要なのは、相手のことをどれだけ本気で考えられるか、そしてその本気度をいかにうまく顧客に伝えられるか、ということです。そもそも、相手のことを本気で考えられないと、顧客に刺さる仮説が立てられません。」
返報性も一貫性も松竹梅も、すべてこの土台の上に乗っている。仮説が外れることを前提にした設計は大胆に見えるが、外れを恐れず持ち込める仮説を作れるかどうかは、結局のところ事前の調べ込みの厚さに戻ってくる。
なお本書が想定するのは、新規顧客に新製品を提案するという最も難しい組み合わせだ。仕様と価格で決まる官公庁の入札や、即決性が求められるBtoCの営業には、この分量の事前仮説は過剰装備になる。
次の商談の前に、30分だけ相手の会社を調べてみてほしい。仮説が外れても構わない。外れたところから、本当の話が始まる。
