負けた試合の夜、監督が何をしているか想像したことがあるだろうか。栗山英樹さんの答えは、拍子抜けするほど地味だ。どれだけ悔しくても眠れなくても、机に向かってノートを開く。その日の出来事を書き、荒れた字で悔しさを吐き出し、そのあとに『論語』や『易経』から抜き書きした言葉を写す。
『栗山ノート』は、北海道日本ハムファイターズを日本一に導いた名将が、小学1年から続けてきたこの習慣の中身を明かした一冊だ。ただし勝つためのノウハウ本ではない。
むしろ「自分は才能のないちっぽけな存在だ」という自己否定から出発する、驚くほど内省的な本である。野球の本だと思って通り過ぎるのはもったいない。
部下やチームが思うように動かず「なぜできないんだ」と言いかけたことがある人、大きな失敗の悔しさが切り替えても消えずに苦しい人、古典に興味はあるが実生活での使いどころが分からず閉じてしまった人。
この三つに覚えがあるなら、読む価値がある。栗山さんはそのすべてを、監督業という究極のプレッシャーの中で通過しているからだ。
名将の哲学を一言で貫くのは「無私」という物差し
本書を貫くキーワードは「無私」だ。自分の利益や名誉、そして「批判されたくない」という保身の感情を、いったん脇に置くこと。栗山さんは、私心が入った瞬間に人は誠を尽くせなくなると考える。
褒められたい、責められたくないという気持ちが少しでも混じれば、決断が濁る。だから決断の純度を上げるために、まず自分を無くす。
精神論に聞こえるかもしれないが、この境地には手痛い裏付けがある。監督就任1年目にリーグ優勝しながら、翌年は最下位。自分の力量不足を思い知った経験だ。
成功者の共通点を探すうちに、その多くが古典を参照していたと気づき、そこから『論語』『四書五経』『易経』の言葉を血肉になるまで書き写すようになった。
この無私が最も鋭く表れるのが、責任の取り方である。栗山さんの姿勢は「勝った試合は選手のおかげ、負けた試合は監督の責任」という一文に凝縮される。
投手が打たれて負け、報道が「投手の誤算」と書いても、彼は最後に「自分に迷いや私心があったからだ」と矢印を自分へ向ける。選手のミスさえ「自分の説明や準備が足りなかった」と読み替える徹底ぶりこそ、本書の芯だ。ここには編集部として一つ留保も付けたい。
この考え方は自分を鍛える刃としては強力だが、他人がそれを部下に強要すれば、ただの精神主義になりかねない。あくまで「自分に向ける」ことに意味がある態度だと読みたい。
本書の構成を先に押さえると、内容がぐっと追いやすくなる。全5章は、栗山さんの視野が自分の内面から外の世界へ、同心円状に広がる順で組まれている。
第1章「泰然と」と第2章「逆境に」で自分の心を整え、第3章「ためらわず」と第4章「信じ抜く」で視点が組織の運営へ移り、最終章「ともに」でファンや社会という一番外側の円まで届く。
各章とも、まず古典の難しい言葉を置き、その直後に大谷選手や中田選手といった具体的な起用の話を並べる作りだ。おかげで抽象的な教えが「あの場面のことか」と腑に落ちる。
この「概念→実例」を律儀に繰り返す構造が、本書を単なる格言集から実践書へ引き上げている。
負けた夜のノートは、感情を洗い流す装置として働く
栗山さんにとってノートは記録帳ではない。感情を排出し、浄化するための装置だ。負けた直後、悔しさや怒りで頭がいっぱいのとき、その感情を乱暴でもいいから文字にして吐き出す。
字が乱れても構わない。書き出すうちに、感情的な思考が少しずつ理性的な思考へと変わっていく。そのあとで古典の言葉を書き写すと、興奮していた心が落ち着き先を見つける。
なぜ頭の中で反省するだけでは足りないのか。栗山さんは、心の中で「明日はこうしよう」と思うだけでは人は自分を甘やかして実行に移せない、と言う。
文字にして目で見て初めて、自分と向き合える。ノートは、情けない自分を叱る「もう一人の自分」との対話の場なのだ。逆境への対処も、常識破りの采配も、選手を信じる決断も、いったんこの浄化装置を通したうえで下されている。
ここは現代の読者にこそ効く指摘だと思う。SNSで反射的に感情を吐き出すのとは正反対の、遅い自己対話の技術がここにある。
逆境も采配も、古典の言葉を判断の物差しに変える
本書の面白さは、古典が抽象的な教訓で終わらず、具体的な判断の物差しになっている点にある。逆境の章で栗山さんが引くのは、『易経』の「習坎(しゅうかん)」。
困難が次々に重なる状態を指す言葉だが、後ろ向きの意味ではない。苦しみから逃げず正面から向き合い、自分で解決策を導く。そのプロセスを通ってこそ人は真の力を得る、という読み替えだ。
失敗の受け止め方も独特で、宮本武蔵が『独行道』に記した「我事において後悔せず」を指針にする。変えられない過去を「ああすればよかった」と悔やむのではなく、「なぜうまくいかなかったのか」を分析して次の教訓にする。
後悔は次の挑戦にブレーキをかけるから、そこには留まらない。さらに『易経』の「霜を踏みて堅氷至る」——霜が降りればやがて堅い氷が張る、大きな問題の前には必ず小さな予兆がある、という教えを持ち出す。
春季キャンプで吉田輝星投手が右腕の張りを申告したとき、直感的に危険を感じて登板を止め、大きなケガを防いだ逸話は、この目の実践例だ。「これぐらいなら、まあいいか」という妥協をしないところに、予兆を見逃さない構えが表れている。
トラブルそのものの捉え方も、森信三さんの「一日は一生の縮図なり」に支えられている。キャンプへ向かう飛行機が2時間遅れたときですら「これも吉兆か」と受け取り、安全のための整備だ、未来をプラスにする準備期間だと考える。
一日をおろそかにすることは一生をおろそかにすることと同じ、だから不機嫌にならない——という一貫性は、真似しようとすると案外難しい。
采配の章では『老子』の「すべては反対から始まる」を信条に掲げる。セオリーに縛られると新しい野球は生まれない。だから、抑え投手が投げるはずの初回に登板させる「オープナー」や極端な守備シフトを、「奇策」と批判されても試す。
大谷翔平選手の二刀流も、この延長線上にあった。試合中の決断でも「反対から考える」は武器になる。判断材料が多すぎると迷うから、確率をこねるより「相手のベンチはどっちが嫌か」とシンプルに逆側から発想したほうが、瞬時に最適解が出るという。
2016年の日本シリーズで、8回2死満塁に大谷選手をあえてネクストバッターズサークルへ立たせ、相手に圧をかけて一挙6得点につなげた采配は、その象徴だ。
感情が高ぶる局面ほど、栗山さんは言葉を短くする。安岡正篤さんの「人間は短い言葉が大事だ」に従い、ここぞという場面ほどシンプルな一言を選ぶ。長いアドバイスは選手の心を白けさせてしまうからだという。
指示の量ではなく密度で動かす、という発想は、野球に限らずマネジメント全般に効く視点だろう。
「信じて待つ」采配と、勝敗の外側にある「三方良し」
信じ抜く章のキーワードは「天真」、飾らない本来の心だ。象徴は4番・中田翔選手のエピソードである。深刻なスランプで一度だけ代打を送った翌日、監督室に呼んで「お前を信頼している」と本心を伝えた。
突き放すのではなく、本音でつながる。その年、チームは日本一になり、中田選手は打点王に輝いた。待つことの意味は歴史からも学ぶ。清宮幸太郎選手が32打席連続無安打に沈んだとき、王貞治さんが1年目に26打席連続無安打で苦しみながら27打席目に本塁打を放った事実を思い出し、目先ではなく3年後5年後の成長で判断する。
信じることは、任せることでもある。栗山さんは荻生徂徠の「得意な方面があることが良くない」を戒めにする。監督が特定の理論に固執すると自己本位になり、コーチの職域を侵し、部下の素直な意見を聞けなくなるからだ。
だからまず相手の話を聞く。良寛の『戒語』の「差し出口」を意識し、聞くことを最優先にする。
そして最終章のテーマは、勝敗の外側にある目的だ。近江商人の「三方良し」を野球に翻訳し、「選手良し、チーム良し、ファン良し」を追う。負けた試合の後もバスの中からファンに手を振るのは、応援に応えることが「世間良し」につながるという発想からだ。
その根にあるのが「陰徳」、見返りを求めない善い行い。幸田露伴の三つの福——運や用具を使い捨てない「惜福」、成功を独占せず分け与える「分福」、未来の世代のために種を蒔く「植福」——を大切にする。
『論語』の「十目の視る所、十手の指す所」、一人のときの行動こそがその人の本質だという一節が、この本の倫理観を静かに言い当てている。
今夜から真似できる、栗山流の三つの習慣に絞る
本書には哲学だけでなく、今日から真似できる習慣がある。三つに絞ると輪郭がはっきりする。第一に、ノートに感情と改善策をセットで書く。うまくいかなかったこと、悔しかった感情をその日のうちに書き出し、ただの反省で終わらせず「明日はこうしよう」という改善策を必ず添える。
第二に、誰も見ていない場所の躾を一つ徹底する。脱いだ靴を揃える、使った椅子を戻す。大きな仕事の基礎は独りのときの振る舞いにあるという。第三に、部下のミスに「自分の説明が足りたか」と問い直す。
感情的に叱る前に、準備や説明が足りなかったのではと自分の器を疑う習慣をつける。
三つに共通するのは、外向きの改善欲を自分の内側の点検から始める姿勢だ。栗山さんは、自分の願望を「他者のための志」へ変換することを勧める。「褒められたい」という内向きの欲を、「誰かに喜んでもらうために欲をかく」という外向きの欲に変える。
そうすれば困難にぶつかっても折れにくくなる。負けた夜にノートを開くのはしんどい作業だが、彼はそこで悔しさを文字にし、古典を書き写すことで翌日また立ち上がってきた。
読み終えて残るのは、勝負論ではなく、自分の弱さとの付き合い方の一冊だという実感だ。