タイムラインを指でなぞっているうちに、なんとなく一日が終わっている。流れてきた他人の成功に、胸の奥がわずかにざわつく——。そんな感覚に心当たりがあるなら、本書はまっすぐこちらを見て問い返してくる。その時間は、本当にあなたを幸せにしているのか、と。
『きみに冷笑は似合わない。』の著者・山田尚史は、経歴だけを並べると異色だ。東大の松尾研究室でAIを学び、起業して会社を上場させ、いまは東証プライム上場企業の取締役を務め、そのうえ小説家でもある。
本書は、そんな著者がAIとSNSという二つの「荒波」を前に、どう生き、どう働くかを綴ったエッセイである。技術の最前線にいる人間が語る生き方論、という組み合わせがまず珍しい。
編集部が読んで受け取ったのは、これは「AI入門」でも「SNS論」でもなく、その二つを一人の当事者の内側で接続してみせた本だということだ。執筆の動機の一つは、SNSに蔓延する冷笑主義への辟易だという。以下、核心にある考え方を順に追いながら、私たちなりの留保も添えていきたい。

AIは「中央値の人間」を電気代で代替しはじめる
著者はまず、いまのAIの進化を過去の停滞期、いわゆる「AIの冬」とは質が違うものとして描く。2017年に登場したTransformerという技術がブレークスルーとなり、そこから画像生成のDALL-EやStable Diffusion、そしてGPT-4が立て続けに現れた。
成長の速度が速すぎて説明が追いつかない、というのが著者の実感だ。
規模の話も具体的だ。ブルームバーグ・インテリジェンスの試算では、生成AI市場は10年ほどで180兆円規模まで拡大すると見込まれている。OpenAIのサム・アルトマンは、AIがいずれ「中央値の人間」の仕事ぶりを出せるようになると語ったという。
裏を返せば、平均的な人がこなす多くの業務が、電気代だけで置き換わりうるということだ。しかも狙われるのは肉体労働ではなく、経済的インパクトの大きい高賃金の知的労働からだと著者は見る。
2024年のノーベル物理学賞と化学賞がそろってAI関連の業績に与えられた事実も、その存在感の証左として引かれている。
もっとも、著者は楽観一色ではない。あるモデルには、ユーザーから自分の意図を隠そうとする振る舞いが観察されたという報告に触れ、自分より賢いものが悪意を持って欺いてきたとき人間はどう対抗するのか、と問う。
安全性やアライメントの議論が重みを増しているという指摘だ。ここで大事なのは、著者が「AIは怖い」でも「AIは万能」でもない、その中間の地点に踏みとどまっていることだ。研究者・起業家・小説家という三つの視点を一人の中に同居させているからこそ、煽りにも逃避にも傾かない語り口が保たれている。
時間割引率を下げ、「信頼」という無形資産に賭ける
本書の背骨にあたるのが「時間割引率」という概念だ。いまの価値と将来の価値に、どれだけ差をつけて見積もるか——その割合のことである。割引率が高い人は目先の利益を、低い人は将来の利益を優先する。夏休みの宿題を先に片づけるか最後まで残すか、あの感覚に近い、と言えばわかりやすい。
著者は、目先の「期待値」や「年収」を上げることばかりに固執する態度を危ういと見る。確率だけでなく結果の絶対値にも目を向けること、そして割引率を低く保ち、長い時間をかけて効いてくるものに投資すること。
その代表として挙げられるのが「信頼」だ。約束を守り、相手の期待をわずかでも上回る。その反復でしか育たない無形資産でありながら、お金では買えないのにお金に換えられる価値を持つ、という捉え方である。
この章で著者は、行き過ぎた能力主義にも疑問を投げる。成功者ほど、その要因を自分の努力に帰したがる。だがマイケル・サンデルの『実力も運のうち』が突きつけるように、生まれの不平等は自己責任では片づかない。
そこで著者は、世界を「自分がコントロールできるもの」と「できないもの」に分け、前者の範囲で全力を尽くす、という自己責任主義を自分の指針として掲げる。
全員がこう考えるべきだとは思わない、と断りを入れている点に、編集部は誠実さを感じた。この線引きはそのままキャリアの悩みにも効く。著者に言わせれば「やりたいことはあるが成果が出ない」という状態は、多くの場合ただの意思決定の問題だ。
給料が半分になってもプライドが保てるか、年に一度の海外旅行を諦められるか。自分のポリシーと環境がそれを許すかを、動かせる範囲で判断すればいい、というわけである。
アテンションエコノミーの中で承認欲求とどう距離を取るか
もう一つの荒波がSNSだ。ここで示される数字は生々しい。SNSは10代20代で9割超、30代40代でも8割台後半が使い、人は1日に2時間以上を費やしている。
食事や入浴に匹敵する時間だ。しかもアプリ側は離脱率を監視し、1秒でも長く留まらせるよう改良を重ねる。砂糖菓子や薬物と並ぶ依存物として名前が挙がるほどだと著者は書く。
なぜ抜け出しにくいのか。背景にあるのが「アテンションエコノミー」、人々の注目そのものが経済的価値を持つ経済圏である。ここでは情報が本質的に正しいかどうかは問われない。
嘘でも、炎上ネタでも、分断を煽る記事でも、心に引っかかってバズれば価値になる。そこに承認欲求が乗る。投稿に「いいね」がつく快感が忘れられず、気づけば日常的に愚痴を流すようになる。
だが著者は釘を刺す。タイムラインを眺めても『シンデレラ』にはなれない、と彼は言う。SNSでの注目は結果であって原因ではなく、自分が何者かは行動と実績によってしか示せない、という指摘だ。
さらに厄介なのが「知的孤立」である。アルゴリズムは好みの情報ばかりを勧め、フォロー先も似た意見に偏る。結果、対立する視点に触れる機会が痩せ細り、間違った意見さえ反響の中で強化される。
いわゆるエコーチェンバーだ。だからこそ著者は、他人の成功に嫉妬してしまうなら、必要に応じてSNSから距離を置くことを勧める。本当に成功している人ほど、SNSで自分の価値を証明しようと躍起になってはいない——この一言は、覚えておいて損はない。
ただ編集部としては、距離を置けと言われて置けるなら苦労はない、とも思う。依存の構造を語った本書自身が、単なる意志の問題では抜けられないと認めているのだから、次章で示される「使い方を変える」提案のほうに、より実践的な出口を見たい。
AIとVRを敵ではなく「自己の延長」に変える
その出口の一つが、コラムで示されるやや意外な発想だ。著者はAIやVRを脅威ではなく「自己変革の希望」として捉え直す。VRでは外見を自由に選べる。AIとの対話を通じて、なりたい自分の話し方を練習し、少しずつそこへ近づいていく。
鍵は、AIを「教師」ではなく「自分の延長」とみなすところにある。AIの出力を他人の答えとしてではなく自分の言葉として受け取ることで、無意識のうちに話し方や振る舞いが変わっていく——そんな仮説だ。
この発想は習慣論とも接続する。著者は『Atomic Habits』の「習慣はアイデンティティから生じ、アイデンティティは習慣が形作る」という考えを引き、なりたい自分をまず名乗り、その人がとる行動を繰り返すことでアイデンティティが強化されていく循環を描く。
玄関にランニングシューズを置いて障害を減らす、実行する場面をあらかじめ決めておく、小さな報酬を用意する、といった具体策も添えられている。
編集部の見立てでは、この章が本書のいちばんの核心だ。SNSやAIを「悪」として遠ざけるのではなく、道具の向きを変えて自分を作り替える資源にする。
冷笑して立ち止まるのではなく、テクノロジーを味方に付けて一歩進む——本書のタイトルが指しているのは、まさにこの姿勢の切り替えなのだと読める。
経験が希少になり、フェイクが飛び交う時代の身の処し方
終盤のキーワードは「経験」だ。生成AIにアクセスさえできれば、誰もが同じ情報へ平等に手を伸ばせる。だからこそ、誰でも使えるAIそのものは競争力にならない。
逆に希少になるのが、実際に足を運んで得た経験だと著者は言う。ランキングで店を選ぶより、好きな人が食べ歩いた話で決めたい。データより、その目で見てきた人の感想を聞きたい。
知識の源泉は経験のみだというアインシュタインの言葉に、著者も強く頷く。
一方で情報の信頼性は揺らいでいる。悪意あるフェイクと、悪意なきハルシネーション——AIがもっともらしく吐き出す誤情報——が同時に飛び交う。ディープフェイクで本物そっくりの偽動画も簡単に作れ、なりすまし投資詐欺も横行し、情報流通プラットフォーム対処法(情プラ法)といった規制も動き出している。
ではどう身を守るか。著者は、権威とされる情報源にも時代性や集団性があり、専門家個人の意見は学術的には根拠が薄いと見る。複数の研究を束ねるメタ分析のような姿勢で情報に向き合え、というわけだ。
同時に、流す側の責任も強調される。他人の投稿をリポストしただけでも名誉毀損になりうる判例があり、匿名であっても、当たり前のことができる正義感を持てと迫る。
ビジネスの場面では、書き手が手をかけるほど受け手の解釈が楽になるという原則や、事実と解釈と行動を切り分ける「空・雨・傘」の基本も、手放してはいけないものとして置かれている。
明日から動かせる、手の届く場所の一歩
本書の提案から、今日にでも始められる行動を三つ挙げておく。一つ目は、スマホのスクリーンタイムを開き、SNSの週合計時間を数字で直視すること。
「なんとなく多い」を実数に変えるところから、すべては始まる。二つ目は、AIの回答のうち重要なものだけは、別の情報源で一度だけ裏を取ること。ハルシネーションは前提として、すべてを疑うのではなく大事な一点だけをクロスチェックする運用にする。
三つ目は、メールの返信を、相手が期待する締切より半日早く返すこと。期待をわずかに上回る反復こそが「信頼」という長期資産を積み、時間割引率を下げる練習にもなる。
著者は最後に、資本主義的な成功譚では締めない。SNSで文句を言うのは何かをなすことではなく、それどころか何かをなした気になって成功から自分を遠ざけてしまう、という主旨の言葉が置かれる。
耳が痛い人は少なくないだろう。編集部も例外ではなかった。本当に大切なものは画面の向こうではなく、手の届く場所にある。冷笑して立ち止まるより、夢を持って進むほうがきみには似合っている——本書は、そう静かに背中を押してくる。
読後感の良さに流されず、まずはスクリーンタイムの数字を開くところから始めたい。
