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『仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える』泉谷閑示|「働くこと」を人生の目的にしてはいけない

キャリア・働き方 ✍ 泉谷閑示
約8分で読めます

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『仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える』
目次

休日に何の予定もなくゴロゴロしていると、楽しいはずなのにどこかで罪悪感が顔を出す。「こんなことをしていていいのか」という、あの落ち着かなさです。

精神科医の泉谷閑示さんは、その後ろめたさの正体を「労働教」と名づけます。働くことそれ自体を最高の善とみなし、何も生み出さない時間を無駄と感じてしまう。私たちは知らぬまに、この宗教の熱心な信者になっている、と。

『仕事なんか生きがいにするな』は、現代人がなぜ「自分が何をしたいのかわからない」と立ちすくむのかを、精神医学と哲学の両側から照らした一冊です。タイトルは挑発的ですが、中身はむしろ静かで、地に足のついた人生論として読めます。

図解

悩みの「温度」が下がってきた

本書の出発点は、診察室に持ち込まれる悩みの質が変わったという、著者自身の臨床実感です。

かつて多かったのは、愛されなかった痛みや劣等感といった、熱を帯びた情念の問題でした。ところが近年急増しているのは「やりたいことが見つからない」「生きている手応えがない」という、温度の低い悩みだと言います。

怒りや渇望のような分かりやすい熱がない分、本人もどう扱っていいか分からず、輪郭のないまま苦しみが続く。ここに現代の難しさがあります。

なぜこうなったのか。著者は、空腹や危険といった欠乏を埋めることを動力にしてきた「ハングリー・モチベーション」が、飽和点に達したためだと見ます。食べるため、貧しさから抜け出すため、という万人共通の動機が消えたとき、人は逆に行き先を失う。

ここで本書は「不自由から自由へ」という巧みな構図を持ち出します。マイナスからゼロへ、つまり不自由を脱して自由を得るあいだは、目標がはっきりしていて迷いません。

ところがゼロからプラスへ進む段になると、苦労して手に入れた自由が、今度は重たい困難に変わる。何でも選べるのに、何を選べばいいか分からない。豊かさが解決するはずだった問題を、豊かさ自身が生み出しているという逆説です。

精神科医ヴィクトール・フランクルの指摘も引かれます。人は生きる意味を見失うと、精神だけでなく生命までも衰えていく。彼はマズローの欲求段階説にも異を唱えました。

低次の欲求が満たされて初めて高次の欲求が芽生えるのではない。むしろ強制収容所のような極限にいる人ほど「意味への意志」を激しく求めた、と。生きる意味は人間にとって贅沢品ではなく、生存の条件なのだ、という見方です。

「能動的に見える受動」という罠

豊かになった社会は、この空虚に巧みにつけ込んできます。

エーリッヒ・フロムは、内面の空白を紛らわすために消費社会の刺激を詰め込み続ける人間像を「受動的人間」と呼びました。本書のなかでも、ここはとりわけ刺さる指摘だと思います。

フロムによれば、外から見ていかに活発な活動でも、外部から注入された欲求で動いているなら、その実態は「受動」にすぎない。

具体例を並べると、輪郭がはっきりします。空腹でもないのに何かを口に入れる。予定の隙間を埋めずにいられない。手持ち無沙汰になればスマホを眺める。

どれも「充実している」「活動的だ」と本人は感じていても、中身は空白への恐れを外の刺激で塞いでいるだけ。だから満たされず、際限なく量を求める依存に近づいていく。

受動に陥った人は、やがて「役に立つこと」「わかりやすいこと」「面白いこと」を渇望するようになります。すぐ使えるノウハウ書や、噛み砕かれた動画ばかりが消費される背景には、この心理があるという見立てです。

耳が痛いのは、この要約サイトを読んでいる時間さえ、その渇望の延長になりうる点でしょう。

そして著者は釘を刺します。「難解か、わかりやすいか」という頭の物差しで判断すると本質を見誤る、と。難解さを装った思想がもてはやされ、後にその数式がデタラメだったと暴かれた例も引かれます。

難しいから優れているわけでも、易しいから良いわけでもない。本物を見極めるのは理屈ではなく「心=身体」の直感だ、というのが本書の一貫した立場です。

「労働」が賛美されすぎた歴史

著者は、私たちを縛る「労働教」の起源を、思想史までさかのぼって解きほぐします。ここは本書の知的な醍醐味です。

手がかりはハンナ・アレントの分類です。彼女は人間の営みを三つに分けました。生きるために消費されてすぐ消える「労働(labor)」、形あるものを後世に残す「仕事(work)」、人々のあいだで言葉を交わし歴史を編む「活動(action)」。

古代ギリシャでは、労働から解き放たれて思索にふける生こそ尊ばれていました。

ところが産業革命と労働価値説によって、この序列がひっくり返る。永続性を持つ「仕事」が細かく分業され、手応えの薄い「労働」へと格下げされ、その労働ばかりが称えられるようになった。人間は、消費財を作っては消費するだけの「労働する動物」に成り下がった、とアレントは嘆きます。

なぜ労働が神聖視されたのか。マックス・ヴェーバーが答えています。ルターが世俗の職業を「天職」とみなし、カルヴァン派が絶え間ない労働を神の定めた務めと説いた。

この宗教的な義務感が「働かざる者食うべからず」という資本主義の精神になり、宗教色が抜けたあとも価値観だけが残った。日本は資本主義を輸入する際、この「労働教」という見えない宗教も一緒に持ち込んでしまった、というわけです。

マルクスの娘婿ラファルグが『怠ける権利』で労働への愛を「狂気」と呼んだ事実まで添えて、著者は「働くのは当たり前」という常識が歴史の産物にすぎないことを示します。

だから著者は、働くことを「食うための方便」と割り切る態度に与しません。目的と手段が逆転すれば、労働の中身すべてが「食べるため」に支配され、精神は痩せていく。バートランド・ラッセルの言葉も引かれます。現代人は何事も別の目的のためになそうとして、行為それ自体の目的を見失った、と。

「意義」と「意味」を切り分ける

本書の核心は、よく似た二つの言葉を峻別するところにあります。「意義」と「意味」です。

「意義」とは、お金になるか、役に立つかという、頭の損得勘定。「意味」とは、価値の有無や他人の評価とは無関係に、自分の心=身体が物事を深く「味わう」ことで生まれるもの。

現代人はこの二つを取り違え、意義のないことには意味もないと思い込んでいる、と著者は診断します。

ここで効いてくるのが「頭」と「心=身体」という対比です。頭は効率と損得と合理性を追い、世界を二元論で切り分ける器官。心=身体は対象を直接味わい、美や快不快を感じ取る、野性的で自然な器官。

現代人は頭が肥大し、「いつでも役立たねば」「時間を無駄にするな」と自分を追い立てる「有意義病」にかかっている。だから何もしない休日を責めてしまう。

けれど生きる意味は、価値を生む行為のなかではなく、コーヒーをじっくり味わう、目的もなく歩く、そんな「味わい」の側に宿る、と本書は言います。

ここから著者は「自分探し」という幻想も壊しにかかります。問題は二つ。本当の自分を自分の「外」に求めていること、しかもそれを「職業」という狭い枠に押し込めていること。

本当の自分は、社会が用意した職業のどこかで発見を待っているのではない。効率主義に抑え込まれた心=身体を取り戻すことで、内側から立ち上がってくる。

「青い鳥」を外に探しに出るかぎり職探しの迷路は終わらない、という比喩が胸に残ります。

意味そのものの定義も鋭い。意味は、どこかに点として存在して発見されるのを待つものではない。「意味を求める」という内面の働きそのものが、意味を生み出す。だから「自分の人生には意味がない」と嘆くのは順序が逆で、意味を向けようとする志向こそが意味の源泉なのです。

「愛」と「自発性」、芸術が必需品である理由

孤独からどう抜け出すか。著者はフロムの『自由からの逃走』を下敷きに論じます。

個人として自立すると、人は自由と引き換えに孤独と不安を背負う。その重荷から逃れようと、人は権威への「服従」に走りやすく、それが極まればファシズムを招く。フロムが示した出口は服従ではなく、自発性に基づく愛や仕事によって世界と結び直すことでした。

ここで著者は「愛」を鮮やかに定義します。愛とは、相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ち。欲望とは、相手を自分の思い通りにしようとする気持ち。

「あなたのため」という言葉に支配欲が隠れることがある、という指摘は痛い。世のため人のためという行為でさえ、自分の存在証明のために他者を必要としているなら、それは愛ではなく欲望だ、と。

芸術の位置づけも独特です。芸術は人間であるために不可欠なものであって、余裕のある人がまとう装飾品ではない。指揮者チェリビダッケの「美しさはおとりだ。

美しさなしには、その背後の真理に到達しない」という言葉や、岡潔の「数学は情緒だ」という喝破が引かれ、芸術も数学も、その奥の真理に心=身体で触れることが本質だと説かれます。

そして生きる意味は、こうした「愛」の経験、世界との一体感を取り戻す瞬間に訪れる。その舞台は特別な非日常ではなく、何でもない「日常」のなかにこそある、と。

日常を「遊び」に変える三つの実践

最終章で、本書は抽象論を一気に行動レベルへ着地させます。私が本書をただの哲学書で終わらせない理由が、この具体性です。

第一は「即興」。頭の計画性をあえて回避するために、その対極の即興を使う。休日に行き先を決めず、交差点で「足がどちらに行きたいか」を心=身体に聞く。スーパーで献立を決めずに、惹かれた食材だけ買ってから料理を考える。偶然に身を開けば、決まりきった日常がスリリングな遊びに変わる。

第二は「面倒くさい」を歓迎すること。「面倒くさい」は効率を求める頭の声だからこそ、あえて手間のかかる道を選ぶ。顆粒だしをやめて昆布と鰹節からだしを引く。

筆と墨で文字を書く。すぐに結果の出ないプロセスを試行錯誤するところに、深い味わいが生まれる。辰巳芳子さんの「料理はものの本質と向き合うことだ」という言葉が添えられます。

第三は、結果を求めない遊びを始めること。「継続は力なり」「上達せねば」という強迫を捨て、純粋な好奇心で手を出す。気が向けばやり、向かなければやらない。

三日坊主でも自己嫌悪に陥らず、別の興味へ軽やかに移る。著者はこれをニーチェの「駱駝・獅子・小児」の比喩で裏づけます。最も成熟した姿は、結果を度外視してプロセスに熱中する「小児」であり、それは「創造的遊戯」だ、と。

締めくくりは、あの寓話の裏返しです。普通はアリが立派でキリギリスは愚かとされる。けれど著者に言わせれば、今を生きることを犠牲にして備えを増やすだけのアリこそ倒錯している。美と喜びに生きるキリギリスのほうが、よほど人間らしい。

読み終えて思うのは、この本は「働くな」とは一言も言っていないということです。働くことを目的そのものとして、味わいながら生きよ、と説いている。次の休日、予定を一つだけ空白のまま残してみる。そこに後ろめたさではなく解放を感じられたら、本書の処方箋は確かに効いています。


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