本を一読して「なるほど、わかった」とスッキリする。認知心理学者・西林克彦さんの『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』は、その心地よい瞬間こそが読解を止めてしまう、と告げる一冊です。
私たちはふだん「わからない」を敵だと考えています。だから辞書を引き、背景を調べる。努力の方向が見えているぶん、まだ扱いやすい相手です。ところが西林さんが本当の障害として名指しするのは、その反対側にあるものでした。
読みが浅いまま止まる原因は「わからない」ことではなく、「わかった」という安定した手ごたえのほうだ、というのです。宮城教育大学で長く認知心理学を教えてきた著者が、私たちの「わかった」の中身を実験でひとつずつ解剖していきます。
読み終えると、自分がいかにいい加減に文章を通り過ぎてきたかに気づいて、少し背筋が寒くなる本です。
「わからない」より「わかったつもり」のほうが手ごわい
主張は一文で言い切れます。よりよく読もうとするとき、最大の障害になるのは自分自身の「わかった」という状態だ、と。
理由はシンプルです。「わからない」なら、人はそこで立ち止まって調べます。ところが「わかった」は、わからない部分が見当たらない状態を指す。疑問が浮かばないのだから、それ以上探そうという動き自体が起きません。
西林さんはこれを「安定状態」であり「停滞状態」だと呼びます。放っておいても前へは進まないので、かなり意図して手を打たない限り抜け出せない、と念を押す。
ここが本書の急所だと思います。無知は自覚できるのに、わかったつもりは自覚できない。だから始末が悪いのです。
では、より深く読むとは何をすることか。著者は「関連の緊密性」という物差しを持ち出します。文章が「わかる」とは、部分と部分のあいだに関連がつくこと。
「よりよくわかる」とは、その関連が以前より必然的で緊密になること。読解の深さは、細部どうしの結びつきがどれだけ強いかで測れる、というわけです。
一読後の「なんとなく筋は通っている」段階から、細部が必然でつながる段階へ。この距離を詰める作業こそが読解だと位置づけられます。
本書が巧いのは、この理屈を説教で終わらせない点です。まず読者自身に文章を読ませ、質問に答えさせ、「あなたも読めていませんでしたね」と体感させてから理屈を渡す。
たとえば第1章の教材は、小学2年生向けの物語「もしもしお母さん」。3匹の子ねこが順番に母さんねこへ電話をかける、心温まる話に見えます。ところが著者は「3匹をちゃんと見分けたか」と問う。
みけは自分を「ぼく」と言い、母から「ぼうや」と呼ばれるからオス。しろには「魚のほねに気をつけて」と注意が飛ぶから、あわてんぼう。母さんねこの返事は、実は一匹ずつの性格に合わせて変えてありました。
それに気づいた瞬間、「やさしい話」は「個体識別の物語」へと姿を変えます。一読の「わかった」は、この深さに一ミリも届いていない。しかも私たちは、届いていないことにすら気づかないのです。
文脈がスキーマを起動して、はじめて文章はわかる
なぜ単語も文法もわかるのに、文章の意味が取れないことがあるのか。第2章はこの問いに答えます。
引かれるのは、ブランズフォードたちの有名な実験です。「布が破れたので、干し草の山が重要であった」という一文。語はどれも簡単なのに、意味が結びません。
ところが「パラシュート」という一語を渡された途端、像を結ぶ。布が破れて落下が速まり、着地の衝撃をやわらげる干し草が要る——読み手が自分の頭のなかの知識を持ち出し、部分と部分をつないだからです。
この「頭のなかにある、ひとまとまりの知識」をスキーマと呼びます。そして、どのスキーマを引っ張り出すかを決めるのが文脈です。文脈は膨大な知識のなかへ照明を当て、必要な一群を使える状態にする。
これを活性化と言います。だから西林さんは「何の話かがわからないと、話がわからない」と言い切ります。凧揚げの説明文も、風船でスピーカーを吊るす場面の描写も、事前に「何の話か」を示す絵を見たグループだけがすらすら理解でき、逐語的な再生の成績まで上がった、という実験がこれを裏づけます。
さらに怖いのは、文脈が変われば引き出される意味が反転してしまう点です。「男の朝の支度」を描いた同じ文章を、「失業者の話」として読むか「株の仲買人の話」として読むかで、「地味なネクタイを締める」「新聞を読む」という同一の記述から、正反対の意味が無意識に立ち上がります。
ここに本書の裏テーマがあります。私たちは部分を積み上げて全体を作っているのではなく、先に全体の文脈を決め、その文脈に合うように部分から意味を引き出している。
順序が、ふだんの実感とは逆なのです。この非対称は、後半で扱われる「誤読」の議論の伏線にもなっています。
「全体の雰囲気」が部分の記述をねじ曲げる
文脈は理解の強い味方です。ところが第3章で、著者は同じ文脈が「魔物」に変わる瞬間を突きつけます。
教材は小学6年の教科書「正倉院とシルクロード」。大学生88名に6分で読ませ、質問しました。多くは「わからないことは特にない」と答える。疑問を持った人は1割もいません。
読めた気でいたのです。ところが精査すると、その読みは崩れます。正倉院が「世界の宝庫」と呼ばれる理由を「世界中の品物が所蔵されているから」と答えた人が94%。
しかし本文をていねいに追うと、宝物の多くは日本や唐で作られた模造品の可能性が高い。「イランから来た」と確証があるのは、没食子(むしこぶ)という染料の材料ただ1点。
それを正確に読み取れた学生は、88人中たった1人でした。
なぜ全員が読み違えたのか。「正倉院には世界中から宝物が集まった」という大雑把な雰囲気が、部分の記述から都合のいい意味を勝手に引き出してしまったからです。
全体の誤解は、一文一文を正確に読んでいないことから生まれる。間違ったわかったつもりは、細部の読み飛ばしの上に成立している。この因果を、著者はデータで示してみせました。
犯人はもう一つあります。読者が持ち込むステレオタイプなスキーマです。象徴的なのが、麻柄啓一さんによる木下順二『夕鶴』の実験。「つうは、なぜ美しい布を織ったのか」と大学生に問うと、一読後は63%が「恩返しのため」と答えました。
しかし本文には、恩返しではなく「与ひょうと二人で楽しく暮らすため」と読める記述がある。その箇所を読み直させると、「恩返し」は17%に激減し、「楽しいひとときを過ごすため」は33%から81%へ跳ね上がりました。
読者は本文ではなく、「鶴の恩返し」という手持ちの物語のほうを読んでいたわけです。西林さんが名指しする魔物は主に4つ。結末から逆算する「結果から」、多様性に圧倒されて探求をやめる「いろいろ」、そして「善きもの」と「無難なもの」というステレオタイプ。
「地球にやさしい」「勧善懲悪」のように社会で通りのいい読みは、鎧のように心地よく、記述の検証を素通りさせてしまうのです。
わかったつもりを壊す鍵は「文脈の交換」と「整合性」
では、どう壊すか。第5章でようやく出口が示されますが、精神論ではありません。
第一歩は自覚です。「自分は今おそらく、わかったつもりに搦め捕られている」と明確に思うこと。この一手がなければ何も始まりません。次に、自分の「まとめ」を点検する。もしそれが「多様化への対応」「顧客第一」のような無難な言葉に収まっていたら、魔物に捕まっている証拠だと疑います。
そのうえで、大雑把な文脈を捨て、もっと細部に光が当たる「新しい文脈」を大胆に持ち込む。たとえば「目的・機能」と「構造・設備」は対応しているか、という細かいレンズです。
「いろいろな船がある。漁船は魚を獲る」で満足せず、「では獲った魚を保管する設備の記述はなぜ無いのか」と問える。読み飛ばしていた部分から、新しい意味が立ち上がってきます。
このとき生じる「矛盾」や「無関連」こそが宝だ、と著者は言います。矛盾は理解が後退したサインではなく、前進の入り口だ、と。あとは、その矛盾を解消できる新しい解釈を仮説として立て、文章の他のすべての部分と食い違わないかを一つずつ確かめていく。
ここで効いてくるのが、最後の物差しである「整合性」です。編集部として付け加えるなら、この手順の値打ちは、そっくりそのまま仕事の資料読みに移せるところにあります。
読んだ直後に要約してみて、無難な一言に落ち着いたら細部を疑う。目的と手段は対応しているか、原因と結果に飛躍はないか、と縛りを一つ決めて再読する。
見つけた矛盾を消せる仮説を立て、他の記述と衝突しないか検算する。派手さはありませんが、この手の運動をやめない限りわかったつもりは壊れない、と本書は言い切ります。
「解釈は自由」は半分だけ正しい
本書のもう一本の柱が、解釈の正しさをめぐる議論です。
多くの学生は「文章の解釈は各人の自由だ」と思っています。だから試験の「最も適切なものを選べ」という形式に強い違和感を抱く。西林さんはこの違和感をいったん受け止めたうえで、両極を退けます。
唯一絶対の正解はない。しかし「何でもあり」でもない。そこに置かれる基準が「整合性」です。解釈が妥当かどうかを「正しさ」ではなく、周辺の記述や他の部分との食い違いのなさに求める。
整合的である限り複数の解釈は並び立つが、矛盾する解釈は捨てなければならない。だから著者は代案として、「最も適切なもの」ではなく「次の解釈のうち、可能なものはどれか、可能でないものはどれか」を問う形式を提案します。
この線引きは、読解を主観の海へ流さないための、実務的な歯止めだと感じました。
面白いのは、著者がこの態度を科学観に重ねているところです。科学の法則ですら「正しい」とは証明できず、反証に耐えて「整合的である」としか言えない。
読みも同じで、探求に終わりはない、と本書は閉じていきます。読み終えて残るのは、「自分は読めていなかった」という健全な不安です。94%が読み違えた正倉院のテストで、自分だけは大丈夫だと言い切れる人は、たぶんいません。
それでも西林さんは、それを敗北とは呼びません。矛盾に気づけたなら、それは「よりよくわかる」入り口に立てたということだからです。「読みという探求の過程に終わりはない」——この一文を持ち帰るだけで、次に資料を閉じる手が、少しだけ止まるようになります。
