「今期は退職者が一人も出ませんでした」
人事部からこの報告が上がると、たいていの経営陣はひとまず胸をなでおろします。産業医であり経営学修士でもある上村紀夫さんは、その安堵のしかたにまず疑問を投げます。
誰も辞めない職場は健全さの証拠ではなく、辞めたい気持ちを飲み込んだまま動けずにいる人を、静かに抱え込んでいるだけかもしれない、と。
上村さんはこれまで3万人を超える社員面談と、年間1000件を超える組織サーベイに携わってきました。その臨床データが導き出した結論は、離職、メンタル不調、やる気の低下という三つの現象を、別々の問題として個別に扱わないことです。
すべてを一つの病理から枝分かれした症状として串刺しに見る。タイトルにある「辞める人」「ぶら下がる人」「潰れる人」は、実は同じ患者がたどる違う段階を指しています。

こんな人におすすめ
働きやすい制度を一通り整えたはずなのに、成果を出している人から静かに転職していく。その理由がつかめない人事担当者。
1on1を毎週やっているのに、部下の業務進捗を確認するだけの時間になっていて、面談のあとにどっと疲れているマネージャー。
今の職場に対するモヤモヤをうまく言葉にできず、転職サイトを開いては閉じる、を繰り返している人。
3つ目に心当たりがある人にこそ、前半だけでも読む価値があります。自分の不満の正体を、感情のままにせず構造として言語化する道具が手に入ります。
離職も不調もやる気消失も、根は同じ症状という見立て
休職者が出た。離職率が上がった。職場の空気が重い。多くの会社はこれらを個別の「原因」として捉え、残業削減や社内イベントで火消しにかかります。
本書はそのアプローチ自体を疑います。残業も人間関係の悪化も、原因ではなく結果にすぎない。真犯人は、社内にじわじわ溜まっていく不公平感や不満、つまりマイナス感情の蓄積だという立場です。
このマイナス感情は、感染症の広がり方に近い経路をたどります。まず一人の内面にひっそり芽生え、離職や不調というかたちで表に出て、そこから周囲へ移っていく。三段階の進行として捉えると、なぜ対症療法が効かないのかが見えてきます。
広がり方は身近な場面で起きます。誰かが休職すると、残されたメンバーがその仕事を肩代わりします。最初は助け合いのつもりでも、その状態が数か月続くと「なぜ自分だけが割を食うのか」という不満に変わっていく。
最初は一人だけの不調だったものが、時間とともに部署全体のマイナス感情へ育っていく。残業時間だけを削っても、この広がりの経路そのものは断てません。
個人活性という3層のピラミッドで、どこが壊れているかを見る
人が生き生きと働けている状態を、本書は「個人活性」と呼び、3層のピラミッドで説明します。土台にあるのは心身コンディション、睡眠や疲労、将来への不安といった健康の状態です。
中間にあるのが働きやすさで、業務量や人間関係、人事制度など「働きにくさ」を取り除く層。最上段が働きがいで、強みの発揮や成長実感、居場所感といった、プラスを生み出す層になります。
3層の積み上がり方には順序があります。睡眠不足や過労で土台の心身コンディションがぐらついているとき、その上に働きやすさや働きがいをどれだけ重ねても支えきれません。
反対に、働きやすさや働きがいが欠けた状態がじわじわ続くと、体力を奪うようにして土台そのものを蝕んでいきます。上下どちらから壊れても、最終的には全層が共倒れになる構造です。
本書が挙げる二つの事例が対照的です。昇進の直後に新サービスの立ち上げが重なり、月の残業が65時間を超えた32歳の営業担当者は、睡眠の質から崩れ、しんどさがやりがいを上回った時点で限界を迎えます。土台からの崩壊です。
一方、自分のペースで専門性を極めることに価値を置き、長時間労働もまったく苦にしていなかった29歳のエンジニアは、心身は健康なまま不満を溜めていきます。
きっかけは全社一律の残業削減でした。働き手への配慮のつもりで導入した制度が、この人にとっては働きやすさと働きがいを同時に奪う結果になった。善意の施策でも、対象を選ばなければ逆効果になるという教訓です。
診断の道具としては便利な反面、注意も要ります。ピラミッドのどの層が崩れているかを判定するのは、結局は本人の自己申告です。上司との関係が悪化している最中の人ほど、自分の不調を「働きすぎのせい」と単純化して語りがちで、実際にはミクロシフト側の事情が絡んでいる場合もあります。
本人の言葉だけを鵜呑みにせず、時期をずらして何度か聞き直す姿勢が要るはずです。
不満は、求める水準と現実の差から生まれる
本書はマイナス感情の発生源を、引き算で説明します。
「社員が求めるものと、会社が与えられるレベルの『差』がマイナス感情の要因なのです」
ここでいう「求めるもの」は労働価値と呼ばれ、キャリア研究者ドナルド・E・スーパーが体系化した14項目(能力活用、達成、自律性、経済的報酬、ライフスタイルなど)に整理されます。
厄介なのは、この労働価値が人ごとに違うだけでなく、時間とともに動く点です。本書は変化の要因を、社会情勢によるマクロシフト(労働人口の減少やAIの浸透など。
日本の労働人口は2040年までに約2割減る見込みです)と、出産や介護といった個人の事情によるミクロシフトに分けます。
もう一つ見過ごせないのが、感情の効き方が対称ではないという指摘です。昇給や新しい福利厚生がもたらす喜びは、数日で「当たり前」に変わってしまいます(この当たり前化は、満足を生む要因と不満を防ぐ要因は別物だとするハーズバーグの二因子理論とも重なります)。
逆に不公平感や怒りは澱のように長く残り、あるきっかけで一気に噴き出す。プラスの効果は薄く速く消え、マイナスの効果は厚く長く残る。この非対称性を踏まえずに幸福度向上の施策を打っても、たまった不満の上に上塗りするだけで終わります。
引き留めるべきは、優秀層より一段下にいる人材
労働価値が人によって違うなら、全社一律の施策は誰にも刺さりません。本書はここでマーケティングのSTP(セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニング)を組織運営に持ち込みます。
社内人材は、まず5つの層に分けられます。組織を牽引する優秀人材(約10%)、数年後に優秀人材となるハイポテンシャル人材(約10%)、入社間もない立ち上がり人材(10から20%)、平均的な業務をこなす普通人材(50から60%)、そして不満を抱えたまま居座るぶら下がり人材(0から10%)です。
定着施策の優先ターゲットを、本書は意外にも優秀人材ではなくハイポテンシャル人材に置きます。理由は二つです。優秀層は求める労働価値がバラバラなうえ転職市場での需要も強く、引き止めのコストが割に合いません。
対してハイポテンシャル層は能力活用や達成、自律性といった価値観が似通っており、施策の焦点を絞りやすい。加えて、この層が活躍する姿は下の世代にとって身近なロールモデルになり、好影響が周囲へ伝わっていきます。
離職の扱いにも整理が入ります。マイナス感情の末に離れていく防ぐべき離職と、成長した人が次のステージへ卒業していく離職を、本書は同列に扱いません。後者を無理に止める必要はなく、卒業したあとも自社を好意的に語ってもらえる関係のほうが、採用力という資産に変わります。
この設計、実行する側からするとかなり割り切りが要る発想です。優秀層への手厚い引き止めをあえて弱め、目立たないハイポテンシャル層に予算と時間を寄せる。
成果が見えにくい判断を経営陣に納得させるには、誰にどれだけ投資しているかを可視化する準備が要るはずで、そこは本書があまり踏み込んでいない実務の余白だと感じました。
満足度が高くても、組織は静かに沈んでいく
従業員満足度(ES)が高いから安心、という読み方に本書は待ったをかけます。ESは主に働きやすさのスコアを反映する指標で、やりがいが乏しくても居心地さえよければ高く出てしまう。
これが「ぬるま湯」状態で、働きがいを求める人ほど「ここでは成長できない」と見切りをつけて出ていきます。だから本書は、ストレス反応、働きやすさ、働きがいという3つの軸を掛け合わせて見る測定方法を勧めます。
単一指標に安心するのは、いちばん危険な読み方です。
不満の芽を制度は拾えません。拾えるのは、日々その人を見ている現場のリーダーだけです。本書は1on1の目的を業務の進捗確認から、精神的サポートと心理的安全性の担保に絞り込むよう勧めます。
この絞り込みを機能させるには、管理職がマネジメントに使える時間を経営側が確保する必要があり、現場任せでは実現しません。
入り口の設計を見直した例も紹介されています。従業員250名規模のあるIT企業は、採用基準を技術力一本から、多少スキルで劣ってもストレス耐性がある人を優先する方針へ切り替えました。
結果としてメンタル不調の発生率が3分の1まで下がり、管理職が抱えるケアの負担も軽くなったといいます。人を測る物差しを一つ足しただけで、後工程の負荷がまるごと変わる例です。
ここは強調しておきたい点です。本書のフレームワークはあくまで組織全体を診断するための地図であり、個人の不調を見立てて治療する道具ではありません。強いストレス反応や不眠が続くようなら、この本の枠組みで自己分析する前に、産業医や心療内科など専門機関へ相談するほうが先です。
巻末の特別収録では、ぶら下がりが固定化した組織の再生も扱われます。定着率と活性度という2つの軸で組織を四つの状態に分け、居心地だけがよくて人が伸びていかない停滞状態を、本書はそのまま「ぶら下がり」と呼びます。
人事評価を作り直し、貢献していない社員の評価をあえて下げて、一度は厳しい状態に組織を引き戻す。居心地のよさを足す前に、まず緊張感を取り戻すという逆方向の処方です。
この発想の原型として、本書はリクルート出身の大沢武志氏による組織論を挙げています。
3万人と向き合ってきた産業医は、本書をこう締めくくります。
「組織が人を生かすこともあれば、殺すこともあるのです。」
読み終えたあとに変わるのは、何を新しく足すかという発想ではなく、何が重りになっているかを先に探す順番です。自分のチームで、誰も口にしていない不公平感が一つないか。まずそこから疑ってみる価値があります。
