「ぼくは臆病です。つねに恐怖心を持って乗っている」
競馬のトップジョッキー、武豊さんの言葉だ。元メジャーリーガーの上原浩治さんも、自分は精神的に強い人間ではないと、著書で繰り返し認めている。一流のアスリートといえば常に前向きで強気、というイメージを、この一節が最初から崩しにかかってくる。
著者の鈴木颯人さんはスポーツメンタルコーチとして、8年間で1万人を超えるアスリートと向き合ってきた人物だ。行き着いた結論は、ずっとポジティブでいられる人間などこの世に一人もいない、というものだった。
著者自身、学習塾で働いていた2011年にうつ病と診断され、ベッドから起き上がれない日々を経験している。だから本書が説くのは、前向きさを装う技術ではなく、ネガティブな状態からどう抜け出すかという一点に絞られている。
羽生結弦さんや大谷翔平さん、イチローさんら、名前を聞けば誰もが思い浮かぶ選手の言葉が、章をまたいで何十と並ぶ。ただ、この本の値打ちは有名選手の名言集であることではない。
強豪校で挫折し、社会人になってからうつを経験した元・挫折者というコーチの立ち位置から、言葉の裏にある心理学と脳科学の知見を添え、超一流の感覚を凡人が真似できる手順に翻訳し直している点にある。

こんな人におすすめ
同期の昇進や後輩の成果に、心がざわついた経験は誰にでもある。次のどれかに心当たりがあるなら、この本は最初の章から刺さるはずだ。
- 同僚やSNSで見かけた他人の成果に気持ちを引っ張られ、その日一日集中できなくなる人
- 「完璧に仕上げてから出したい」と抱え込み、締切の直前まで手を止めてしまう人
- 大きな目標を達成した直後、燃え尽きたようにやる気が消えた経験がある人
不安は、消すものではなく使うもの
サッカー元日本代表キャプテンの長谷部誠さんは、自分を未熟で弱い人間だと自覚していると自著に書いている。あの選手の乱れない佇まいを支えていたのは、気合いではなく自分の弱さを直視する素直さだった、と著者は読み解く。
ここで補強材料として引かれるのがダニング=クルーガー効果だ。自信がない人ほど実は自分を高く見積もり、実力がある人ほど自分を厳しく採点してしまう。
この逆転した自己評価のクセを心理学はそう呼ぶ。裏を返せば、不安を感じているという事実そのものが、根拠のない自信に酔っていない健全さの証拠になる。
不安は克服すべき欠陥ではなく、本気で目標を見ているからこそ生まれる、脳のまっとうな反応だ。
もう一つ、著者が繰り返し使うのが思い込みのフタという言葉だ。「自分にはこの記録は無理だ」と、能力の上に自分でかぶせてしまう蓋を指す。このフタを外さない限り、実力の天井は本人の想像の中にしかできない。
著者はここで、もう一つの実践も勧めている。子どもの頃から今までの分岐点を書き出し、なぜその選択をしたのかを振り返る作業だ。当時は最悪だと思っていた出来事が、後から見ると何を残していたか。棚卸しをしてみると、いま抱えている逆境の重さの感じ方が変わってくる、という。
正直、ここには納得と同時に引っかかりも残る。不安を準備の燃料に変えられるのは、すでにある程度の技量や場数を積んだ人ではないか。フタを外した先に積み上げてきたものが何もなければ、不安はただの不安のまま居座る。
本書はこの技術を万人向けに書いているが、実際には「フタの下に何か持っている人」向けの話だと読んだほうが、期待のずれは小さい。
比較相手は「昨日の自分」だけでいい
柔道で五輪3連覇を果たした野村忠宏さんは、心の中にライバルという存在を置いていない、という趣旨のことを語っている。
これを裏づける実験が紹介される。子どもを2人1組にして課題を解かせ、片方には「勝った方に褒美」、もう片方には「勝ち負けなし、頑張った全員に褒美」と伝えた研究だ。
結果を振り返らせると、競争を意識していた子は成績を才能や運のせいにしやすく、競争のなかった子は自分の努力に結びつけた。人は競わされるほど、自分の努力から目を逸らしてしまうらしい。
だから比べる相手は他人ではなく、記録した「昨日の自分」に絞る。あるプロゴルファーは自分をパター下手だと思い込んでいたが、3ヶ月分のプレーを記録してみると、アプローチが決まった日はパターも入っていた。
弱点だと信じていた場所と、実際の原因はずれていたわけだ。思い込みは、記録という物差しの前ではあっさり崩れる。
上原浩治さんの言葉を引きながら著者が強調するのは、他人のやり方をそのまま真似るのではなく、自分の記録から自分専用の攻略法を作れということだ。レベルが上がるほど一般論は効かなくなる、という為末大さんの指摘も、同じ方向を向いている。
本書はここで、日本のスポーツ界が美徳とする「素直さ」にも一言添えている。他人の助言を全部正解だと思って飲み込む選手ほど、矛盾する指示に挟まれて頭で考えすぎ、本番前に潰れやすい。
本当の素直さは、言われるままに従うこととは違う。プロ野球で監督に質問を浴びせ続けた新庄剛志さんの逸話や、謙虚さと自己主張を7対3くらいの割合で使い分けていたという女子バスケットボール選手の話が、その具体例として挙げられている。
とはいえ、この章の「記録すればわかる」という主張は、成功例が象徴的すぎる気もする。3ヶ月で弱点の真因が見えたゴルファーも、記録を続ける習慣そのものはすでに持っていた人だ。記録という行為を始める最初の1週間、三日坊主をどう越えるかについて、本書は多くを語らない。
どん底は、心の筋トレになる
ハンマー投げの室伏広治さんは、こう言い切っている。
「弱い負荷しか体験したことのない人間は、強い負荷に耐えられない」
精神的な回復力、いわゆるレジリエンスは、負荷をかけた分だけ育つ。NASAの採用審査でも、どれだけ大きな困難を乗り越えてきたかが判断材料になるという紹介もある。挫折は早いうちに経験しておいたほうがいい、という主張の裏づけだ。
その負荷を意味づけに変える技術がリフレーミングである。コップの水を「半分しかない」と見るか「半分もある」と見るか、解釈の枠を変えて感情を動かす。逆境を伸びしろへと読み替えるときの土台になる考え方だ。
覚悟の作り方についても、具体的な逸話がある。何度も飛んだことのある空港であっても、必ず事前に気象情報を集め、最悪のフライト環境まで想像してから操縦桿を握るというベテラン機長の話だ。
最悪をあらかじめ思い描いているからこそ、実際に想定外が起きてもうろたえない。完璧主義への処方箋として引かれる、元プロ野球選手の「失敗のたびに新しい課題が見つかる」という捉え方も、同じ理屈でつながっている。
目標の立て方にも、著者は独自の階層を用意する。得たい結果であるHavingだけを目標にすると、失敗が怖くなり、達成した瞬間に燃え尽きてしまう。
そこに行動であるDoingと、どうありたいかというBeingを重ねる。結果の先にある「あり方」まで見えていれば、一つのゴールを超えても熱は消えにくい。
少なくとも月に1回、この3つの目標を見直す時間をあらかじめ予定に入れておく、という運用上の工夫も添えられている。
勝った翌日が、いちばん危ない
実験用の檻の中で、たまたま首を振った直後に餌が出ると、ラットはその偶然の動作と報酬を結びつけて覚えてしまうという。人にも同じ回路がある。まぐれで転がり込んだ結果を自分の腕前だと勘違いし、そのときたまたま取っていた手順にしがみつく。
著者が名づけたのが成功体験の誤学習だ。だからイチローさんは、勝った余韻に浸ることをむしろ警戒していたという。
対処法として著者が挙げるのは、他人の評価とは無関係な「昨日からのわずかな成長」だけを見ることだ。一流かどうかは変化を嫌わないかどうかで決まる、という元プロ野球選手・古田敦也さんの見立ても、同じ文脈に置かれている。
変わり続けることも、この章のもう一つの主題だ。イチローさんはメジャー移籍後にバッティングフォームを何度も作り直し、長谷部誠さんは本職のポジションを離れ、サイドバックやリベロを任されながら海外でキャリアを重ねてきた。
基礎は変えず、その上に小さな変化だけを積み重ねる。室伏広治さんはこの発想を「不易流行」という四字熟語に託している。勝ち方に固執しないという一点で、成功体験の誤学習を防ぐ話とまっすぐつながっている。
利他についての章もおもしろい。アメリカ国立訓練研究所が示す学習定着率のデータでは、講義を聞くだけだと数%しか残らないのに対し、人に教えるという行為は9割近くまで残るという。
教えるという利他的な行為が、結局はいちばん自分に効く。仏教でいう自利利他という考え方を、著者は学習効率という即物的な理由に接続し直している。
競技を終えたあとの人生についても、本書は冷たい数字を置く。アメリカの主要プロスポーツでは、引退した選手の相当数が数年のうちに経済的な窮地に陥るという調査結果が紹介されている。
頂点を極めた人ほど、その後の落差が大きい。もっとも、ではどう備えるかという具体策になると、本書の記述は興味のあることに触れておく程度で終わる。
危機感を煽った割に、セカンドキャリアの設計図までは描かれていない。この章だけは、続きを別の本で探す必要がありそうだ。
明日から変えること
本書に出てくる手順の中で、今夜すぐ試せるものを一つ選ぶなら、感謝ノートだ。
やり方は単純で、その日良かったことを5つ書き出す。ただし、一度使った理由は二度と使えないというルールがつく。この重複禁止の縛りが肝で、簡単な理由から尽きていくため、続けるほど日常に潜む小さなプラスを自分から探しにいく癖が脳につく。
10年近く感謝を習慣にした人は前頭前野の厚みがわずかに増していた、という研究結果も本書は紹介している。
派手な技術ではない。それでも、他人と比べて消耗した日の夜に、今日あった当たり前を5つ数え直す。それだけで、比較の基準を少しずつ自分の内側に引き戻せる。
武豊さんも上原浩治さんも、弱さを隠さなかったから長く一線に立てた。本書を読み終えて残るのは、強くなるための方法論ではなく、弱いままで前に進み続けるための具体的な手順だ。
