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『「普通がいい」という病』泉谷閑示|「普通」を目指すほど、幸せから遠ざかる

健康・メンタル ✍ 泉谷閑示
約7分で読めます

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『「普通がいい」という病』
目次

「普通でいい」「人並みでいれば十分」。私たちはこの言葉を、謙虚さや安全の合図のように口にします。ところが精神科医の泉谷閑示さんは、その「普通」への憧れそのものを一種の病として扱いました。

本書『「普通がいい」という病』のもとになったのは、対人援助職をめざす人へ向けた全10回の連続講義です。語り口はやわらかいのに、フーコーやニーチェ、夏目漱石から親鸞までを横断し、心の不調をめぐる常識を一つずつ裏返していきます。

読み終えると、自分が何気なく使ってきた言葉の輪郭が、少し変わって見えてきます。

先に断っておくと、本書は「こうすれば治る」式の実用書ではありません。むしろ、治るとは何かという問いの土台を掘り返す本です。すぐ効く処方箋を探す人には遠回りに映るはず。けれど、その遠回りにこそ本書の射程があります。

本書を貫くもう一つの視点が「言葉の手垢」です。「普通」「健康」「自立」といった言葉には世俗の価値観がべったり付着していて、私たちはその手垢ごと言葉を使い、いつのまにか手垢のほうに認識を縛られている。

だから回復の第一歩は、汚れた言葉をいったん洗い、本来の意味を取り戻すことだと著者は言います。本書自体が、当たり前とされる言葉を一語ずつ洗濯していく試みだと思って読むと、各章のねらいがつかみやすくなります。

「普通」を望む心は、どうやって作られるのか

出発点にあるのは「角(つの)」という比喩です。角とは、その人だけが持つ資質や感性、いわば自分が自分であることの目印。ところが角は目立つがゆえに、集団のなかでからかいや攻撃の的になります。

そこで多くの人は、生きづらさを減らそうと自分から角を隠し、削り落としていく。著者はこれを「角の切除」と呼びます。

厄介なのは、この切除が暴力ではなく、静かな洗脳として進む点です。角を削られた人はやがて最初の窮屈さすら忘れ、自分から「普通」を望むようになり、周囲や我が子にまで同じ型を求めはじめます。こうして息苦しい社会は、被害者が加害者へと回りながら再生産されていく。

個人の弱さではなく、構造の問題としてここを描くのが鋭いところです。著者はテネシー・ウィリアムズの戯曲『ガラスの動物園』を引き、少女が愛したユニコーンの角が折れる場面に「普通になること」の哀しさを重ねます。

編集部が惹かれたのは、本書が「普通は悪だ」と単純に反転させない点です。角を隠す選択にも切実な事情がある。問題は、隠しているうちに隠していること自体を忘れる不感症のほうにある——そう読むと、この話は一気に自分ごとになります。

頭・心・身体という、内なる独裁国家

角を切除された内側で何が起きるか。それを説明するのが、本書でもっとも知られる「頭・心・身体」の見取り図です。

頭(理性)は「〜すべき」と命じ、白か黒かで割り切り、過去を分析して後悔を、未来を予測して不安をつくり出す。心(感情)は「〜したい」と、理由も計画もなく「今ここ」で反応する。

身体はその心と一心同体で、快・不快を通じて今なにが必要かを教えてくれる——著者はこの三者を、一つの国家の統治にたとえます。

現代人の多くでは、頭が専制君主となり、本来の主人であるはずの心と身体を奴隷のように監視し酷使している。その独裁が限界に達したとき、心と身体は反乱を起こす。

うつはストライキ、パニックや摂食障害は暴動だ、というわけです。ダイエットが摂食障害に転じるのも、頭の決めた数字で身体を縛りつけた結果だと説明されます。

ここで挙がる例が示唆的でした。うつのとき「朝は規則正しく起きるべきだ」と頭で踏ん張るより、昼夜逆転をいったん受け入れたほうが回復が早まることがある。

風邪で食欲が落ちるのも、身体が免疫を上げようとする知恵だ、と。「規則正しい生活こそ健康」という思い込みが、かえって人を病ませることがある。もっとも、これを免罪符に不摂生を正当化するのは本書の意図ではありません。

頭の命令と身体の声、いま主導権を握るべきはどちらかを見極めよ——そういう話として受け取るのが公平でしょう。

この見取り図が優れているのは、善悪の話にしていない点です。頭そのものが敵なのではなく、暴走した頭が問題なのだと著者は繰り返します。だとすれば処方箋は「考えるのをやめる」ことではなく、頭が独り占めした実権を、心と身体へ少しずつ返していくこと。

理性を廃位するのではなく、専制君主から立憲君主へ格下げするイメージだと読むと腑に落ちます。

応用のヒントも具体的です。たとえば「本当は行きたいのに体が動かない」とき、それは心の『行きたい』ではなく、頭の『行くべき』を頭自身が本音とすり替えているのかもしれない。

体が動かないのは、心と身体がそろって起こしたストライキだ——そう疑ってみると、自分の本音がどこにあるのかが見えてきます。

「治る」とは悩みが消えることではない

では、その不調をどう扱うのか。ここで本書は治療観そのものをひっくり返します。うつ治療のゴールはふつう「悩みが消えてスッキリすること」だとされますが、泉谷さんの答えは逆で、本当に治るとは、あるべき悩みをちゃんと悩めるようになること。

悩みの消去ではなく、悩みと正面から向き合える状態こそを健康と呼ぶわけです。

その姿勢を象徴するのが「不幸印のギフト」という言葉です。病気や苦しみは天から届いた贈り物で、なかには自分らしく生きるためのメッセージが入っている。

ただし包みが「不幸印」なので、たいてい嫌がられ、受け取ってもらえない。薬や安易な解決で痛みだけを消すと、メッセージは未開封のまま、宅配便の再配達のように同じ苦しみが形を変えて何度も届く——うつの再発や別の不調は、そのサインだと読み解かれます。

だから著者は、流行の「癒し」にも疑いを向けます。癒しは「元の自分に戻す」響きを持ち、変化や成熟を促さない。細胞が絶えず入れ替わるように生き物は変わり続ける存在なのに、「変わらない明日」をめざす癒しには生命を停滞させる毒がある、と。

ここは賛否の分かれる主張で、本当に休息が要る人まで「変われ」と急かしかねない危うさもあります。ただ、癒しを消費しては同じ場所にとどまる回路への警告としては、耳が痛いほど当たっています。

感情の井戸と、腐らせない怒り

メッセージを受け取るには、抑え込んだ感情を通す必要があります。そこで語られるのが「感情の井戸」です。心の底から湧く感情には上から「怒・哀・喜・楽」の順があり、底にある喜びや楽しさを汲むには、まず上の怒りや哀しみのフタを開けねばならない。

ネガティブだからと怒りや哀しみを抑え込むと井戸全体がふさがり、下にあるはずの喜びまで出てこなくなる。心が便秘を起こし、うつへ傾くという比喩です。

面白いのは、怒りに鮮度があるという指摘。溜め込んで腐った「oldな怒り」と、その瞬間の出来事にだけ反応する「freshな怒り」は別物で、後者は過去を引きずらず、相手のある一つの言動にだけ反応してその都度発散される。

腐らせた怒りが問題なのであって、怒りそのものが悪いわけではない。素面では気を遣って「いい人」を演じ、酒の席でだけ暴れる人を、著者はむしろ日常のフタの締め方のほうが異常だと見ます。

この怒りを人生の推進力へ変える道筋として、ニーチェ『ツァラトゥストラ』の「三様の変化」が引かれます。義務に黙って耐える駱駝、抑えた怒りを爆発させ「われは欲す」と自由を勝ち取る獅子、そして自我への執着すら手放して「あるがまま」を生きる小児。

肝心なのは、獅子を飛ばして小児にはなれないこと。怒りで立ち上がる段階は、成熟の途中で必ず通る関門だという指摘は、怒りを未熟さと結びつけがちな私たちの常識に釘を刺します。

日常に落とすなら、著者がすすめるのは一冊の「吐き出しノート」です。誰にも見せず、古い怒りや言えなかった思いをそのまま殴り書きする。毎日つける日記ではなく、溜まったときにだけ開く弁のようなもの。

感情を文字にして外へ出すだけで、井戸の詰まりはずいぶんゆるみます。派手な技法ではありませんが、フタを開ける練習として、これ以上ないほど地に足がついています。

五本のバナナと、彫刻としての自分

成熟の途上で必ず問われるのが、人との関わり方です。著者は「愛」と「欲望」をこれ以上なく明快に分けます。愛は相手が相手らしく幸せになるのを喜ぶ気持ち、欲望は相手を思いどおりにしようとする気持ち。私たちが口にする「あなたのため」の多くは、じつは後者だと突きつけられます。

それを示すのが五本のバナナの話。5本持つ人が自分で3本食べて満たされていれば、余った2本を見返りなく差し出せる。感謝されなくても腹は立たない。

逆に、本当は3本欲しいのを我慢して2本しか食べず3本あげてしまうと、「これだけしたのに」という見返りがくっつく。前者が分かち合い、後者が偽善です。

だから愛の第一歩は、まず自分をきちんと満たすこと。枯れたまま尽くせば、その献身は欲望に化ける——世話や介護に疲れた人ほど刺さる逆説です。

最後に本書の核として置かれるのが「し切る」という思想です。短所と長所は同じ資質の見え方の違いにすぎないから、弱点は直そうと逆走するのではなく、とことん磨き切って突き抜ける。

神経質さも、消そうとするのではなく繊細さとして生かし切れば「敏感でタフ」へ反転する。「窮すれば通ず」です。夏目漱石『夢十夜』の仏師・運慶が木のなかにすでにある眉や鼻を掘り出すように、本当の自分とは外から資格や経歴を足すのではなく、余分を削って内なる核を彫り出すもの。

塑像ではなく彫刻だ、という比喩が全体を貫きます。

同じ出来事も、掘り下げが浅ければ過去に凝り固まった「体験」となって自分を縛り、深く掘れば未来へ更新され続ける「経験」となって血肉になる——哲学者・森有正の区別を借りたこの一節は、苦労を勲章に飾る人と、静かにそれを力へ変える人の差を言い当てています。

あなたが「普通じゃない」と削ろうとしているその部分は、削るべき欠点なのか、それとも磨くべき角なのか。本書はその問いを、静かに、しかし強く手渡してきます。


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