「駐在員」という肩書きには、どこか選ばれた人の響きがある。語学が堪能で、若くして海外を任され、グローバルに活躍する。そんなイメージを、本書の著者はあっさり裏切る。
著者が自分につけた肩書きは「底辺駐在員」だ。Fラン大学卒、低賃金の旅行業界勤務、経営の才もないただのサラリーマン。20代の約5年間はフリーターやニートに近い状態で過ごし、英語もまともに話せなかった。
それでも30歳でアメリカに渡り、旅行会社の駐在員として10年以上を生き抜いてきた。その実体験から導かれたのが、本書のタイトルでもある「ギリギリ消耗しない生き方」である。
高い目標を掲げず、人目を気にせず、目の前のことだけを淡々とやる。一見すると向上心の欠如にも見えるこの構えが、なぜ結果的にうまく回るのか。本書はその逆説を、成功譚ではなく泥臭い生存記録として語る。

成功談ではなく「生存記録」であること
この本の最大の特徴は、華やかな成功物語ではない点にある。
「海外で働く」系の本は、もともと優秀な人がさらに飛躍する話が多い。だが本書はその真逆だ。どん底からの這い上がりであり、しかも劇的なハッピーエンドで終わらない。年収150万円ほどの季節労働者を経て、著者は今も低賃金の旅行業界に身を置いている。
だからこそ、語られる言葉に無理がない。著者が一貫して説くのは「いい意味で期待値を下げる」こと。成功やキャリアアップを声高に叫ばず、ただ消耗せずに生き延びる。
この等身大の手触りが、自己啓発に食傷した読者にとっての解毒剤になる。背伸びした理想ではなく、地べたから見上げた現実の知恵だからこそ信じられるのだ。
どん底を一度くぐると、たいていは平気になる
著者の原点は、20代半ばの闘病にある。
不摂生がたたって発症したのがバセドウ病(甲状腺機能亢進症)。新陳代謝が異常に高まり、じっとしているだけでもジョギング中のように体力を消耗する病だ。
入院時は身長175cmで体重53kg、安静時血圧は上が200超、脈拍は1分に120を超えていたという。ある朝、首から下が動かなくなり、巨大な虫に変身するカフカの『変身』を思い出して恐怖した、という描写には鬼気迫るものがある。
体が動かず、フリーターやニートに近い生活が続く。著者はこの時期を「社会とつながっていられるか、引きこもるかは紙一重」と振り返る。あのまま自堕落を続けていれば、いわゆる「8050問題」の当事者になっていたかもしれない、と。
ここに本書全体を貫く論理の起点がある。著者は今、たいていのトラブルに動じない。「これより悪い状態を知っている」からだ。最悪の基準を一度くぐった人間にとって、その後の困難は「あの頃よりマシ」に変換される。
本書の核である「期待値を下げる」発想は、観念的な処世術ではなく、実際に死の縁を歩いた経験から絞り出されたものなのだ。
「遅すぎる」をやめる――28歳からの再起動
どん底からの脱出口は、28歳での渡米だった。
著者は全財産に近い約350万円を投じてフロリダへ語学留学する。スタートは語学学校の最下位クラス。マクドナルドを日本語式に発音して全く通じなかった、という失敗から始まる。
そこで得た気づきが、会話では文法よりまず単語の発音だ、ということ。間違いを恐れて黙るより、伝わる最小単位を正しく発音するほうが先だと割り切った。
「日本語だって言い間違えて直すのだから」という開き直りが、行動の背中を押す。
そして30歳、就職の手段に選んだのがJ1ビザ(米国の交流訪問者ビザ)だった。年齢制限が緩く、報酬を得ながら最長18か月の就業体験ができる制度だ。
著者はここに戦略を効かせる。「遊び」と見なされがちなワーキングホリデー(そもそも米国に同制度はない)ではなく、履歴書に「就業体験」と書けるインターンシップを選んだのだ。
面接にも作法がある。J1ビザの面接では「働く(work)」という語を使ってはならず、「訓練する(train)」「学ぶ(learn)」と言わねばならない。
研修目的のビザだからだ。こうして日系旅行会社にインターンとして潜り込み、ラスベガスへ。のちに正社員に登用される。28歳で留学、30歳でインターン。
この回り道から著者は「何かを始めるのに遅すぎることはない」という確信を得た。年齢を言い訳にしがちな読者には、これだけでも一読の価値がある。
目標を持たない、という逆説の核心
本書最大の主張が、この「目標を持たない」というスタンスだ。
旅行会社で数々のトラブル対応をくぐる中で、著者はある法則に気づく。人間は、期待していたものを下回る結果を突きつけられると、ひどく落ち込む。ならば、最初から期待値を下げておけばいい。著者自身の言葉で言えば、こうだ。
「目標を置かず、大きな期待をせず、身近なできることを淡々とやっていたほうが、物事が終わったときに良い結果が出ていたケースが圧倒的に多かった」
高い目標は、しばしばプレッシャーに反転する。目標が高いほど、未達のときの落胆も深い。だから著者は遠くのゴールを下ろし、今日できる小さなことへ集中する。逆説的だが、そのほうが結果が良かったというのが本書の経験則だ。
私はこれを「向上心の否定」とは読まない。むしろ、落胆という心理的ダメージを減らすための、きわめて現実的な自己防衛として理解するのが正しい。成果を出すなというのではなく、成果を「期待値」というレンズで自分を傷つける道具にするな、という話なのだ。
不安なときこそ、目の前に没頭する
「目標を持たない」と表裏一体なのが、「目の前のことに没頭する」という行動原理である。
それが最も鮮明に出たのが、コロナ禍だった。旅行業の仕事はゼロになり、著者は解雇される。先がまったく見えない。そのとき支えになったのが「今のことに集中する」構えだった。
集中していると「解雇された後のことは、解雇されてから考えればいい」と楽観できる。未来の不確実さを悩む代わりに、現在へ意識を寄せて不安を打ち消したのだ。
暇な時間に、著者は会社へ「YouTubeをやります」と提案する。きっかけは軽かった。ところが、JALのファーストクラスで帰国した動画を、画角を増やしテロップを足して丁寧に編集したところ、これが突然バズる。
当初1日10回ほどだった再生数が、1週間で1日100回、1か月で1日1万回、最盛期には1日3〜4万回。累計280万回超、登録者10万人に達した。
とはいえ1分の動画に約1時間、機材に総額約4500ドル。決して楽ではない。
著者はこれを「運が良かった」と語る。「やってみたら自分に合っていた」ものに出合えたのは運だ、と。気乗りしない偶然から、ライフワークが見つかることがある。だから、とりあえず目先のことに手をつける。どこにチャンスが落ちているかは、本当にわからないのだから。
人目を気にしない=自分の価値観で生きる
著者がアメリカで救われたのは、人々が「人目を気にしない」文化だった。
周囲は他人の容姿や服装をほとんど気にしていない。だから自分も気にしなくていい。著者は流行を追わず、同じデザインの服を色違いで着回す。「健康が一番大切で、洋服なんて無地のTシャツが着られればそれでいい」というわけだ。
これを著者は「人目を気にしなくていいとは、自分の価値観で生きていいということ」と言い換える。他人のものさしを手放すと、ストレスは半分になる。
ただし本書はアメリカ礼賛ではない。著者が見た現実はかなり辛辣だ。家賃の安さは治安の悪さに比例し、近所でギャングの銃声が響く。ニューヨークの地下鉄にはチワワ並みのネズミがいて、見知らぬ人に突然蹴られたこともある。
フレンドリーな西海岸と、訛りに冷たい閉鎖的な東海岸では文化が別物で、在米日本人の間にすら「東西カースト」のような分断があるという。理想化されない、生身のアメリカが描かれているのが信頼に足る。
その自己責任社会を生き抜く武器の一つが節約術だ。著者は「陸マイラー」として、米国の桁外れに大きいクレジットカード入会ボーナスでマイルを稼ぐ。
直近1年で77万マイルを獲得したという。ただしここは米国のカード事情やビザ制度に依存した話で、日本在住の読者がそのまま真似できる範囲は限られる。
著者も「知恵と工夫でお金をかけずに豊かな経験を得る」姿勢の一例として書いている。鵜呑みにせず、考え方だけ拝借するのが賢い。
NOと直球で断る、健康を土台に置く
人間関係の消耗を減らす技術として、著者は「断り方」を挙げる。日本の職場には「空気を読め」「頼まれごとを断るな」という無言の圧がある。これが個人をすり減らす。
ポイントは嘘の言い訳を考えないこと。気乗りしない誘いや業務外の依頼には「行きません」「できません」と直球で断る。理由を取り繕う行為そのものがエネルギーの浪費だからだ。
そしてすべての前提に置かれるのが健康である。著者はバセドウ病で激太りと激痩せを繰り返した経験から、健康を何より優先する。毎食を腹5分目にして1日5食に分け、夜は炭水化物を避け、脂質は青魚・アボカド・オリーブオイル以外を控え、水泳を習慣化する。
10年以上続くこのルールについて、著者はこう書く。
「自分で作ってきた体があり、自分で体をコントロールできるということは、自分の自信になっていると思います。」
体は食べ物と運動で作られ、自分でコントロールできる数少ないものだ。その積み重ねが身体的健康を超えて内面の強さになる。著者にとって「自分の体を作ること」は「自分自身を作ること」と同義なのだ。
著者はこれらを「ギリギリ消耗しない5か条」にまとめる。(1)人目を気にしない (2)運に感謝する (3)目標を持たない (4)結果に期待しない (5)健康が一番大切。
これらは別個の心がけではなく、「期待値を下げ、今に集中し、体を整える」という一本の線でつながっている。
おわりに――他人のものさしを手放す
この本は、夢を持てとも、努力で勝ち組になれとも言わない。言うのはただ「他人のものさしを手放し、自分のペースで生き延びろ」ということだけだ。どん底をくぐった人の言葉だから、綺麗事に聞こえない。
明日からすべてを変える必要はない。まずは今日、気の乗らない一件を「行きません」と断ってみる。あるいは、不安に飲まれそうになったら5分だけ目の前の作業に手をつける。その小さな一歩から、消耗しない生き方は静かに始まる。
合わせて読みたい
『手放す練習 ムダに消耗しない取捨選択』ミニマリストしぶ 「ムダに消耗しない」という問題意識が本書と直結します。本書が人間関係や目標の手放し方なら、こちらはモノを手放して身軽になる方法。生活の両面から消耗を減らせます。
『減速して自由に生きる ──ダウンシフターズ』高坂勝 「稼がないことを選ぶ」という静かな逆転劇が、本書の「目標を持たない」スタンスと響き合います。高い目標やお金を追うことに疲れた人に、もう一つの生き方の実例を見せてくれます。
『科学的な適職』鈴木祐 本書が経験から「目標や期待を手放す」と語るのに対し、こちらは「やりたいことで仕事を選ぶと後悔する理由」を研究データで裏づけます。感覚と科学の両面から、肩の力を抜いて働くヒントが得られます。
