大谷翔平選手が最優先しているのは、1日10時間の睡眠だといいます。本人の言葉を借りれば、睡眠は質より量。短時間で効率よく眠って乗り切る、という世間のイメージとは正反対の発想です。
『ぐっすり! 1万人を治療した専門医が教える最強の睡眠メソッド』という一冊は、この量重視の考え方を医学の立場から後押しします。著者の渥美正彦さんは、精神科と睡眠の両方を診る臨床医です。
膨大な診療の積み重ねから、気合いではなく手順で眠りを立て直す方法をまとめています。読んでいていちばん刺さったのは、「自分は6時間で十分やれている」と思っている人ほど危ない、という一節でした。

「6時間は寝ている」という自覚こそが症状である
「6時間は寝ている」という自覚そのものが、睡眠不足の症状です。まず数字を見ておきたいです。OECDの調査で、日本人の平均睡眠時間は加盟国中最下位に沈んでいます。働き盛りの世代に限れば、4割以上が6時間に届いていないというデータもあります。
医学的に大人が必要とする睡眠時間はおおむね7時間から9時間とされており、著者は6時間睡眠を正常の範囲とは呼びません。
恐ろしいのはここからです。ある実験では、6時間睡眠を2週間続けた被験者の反応速度や集中力が、2晩徹夜した状態とほぼ同じ水準まで落ち込みました。それでも本人には自覚がありません。
脳が慢性的な疲れに慣れきってしまい、自分の調子が落ちていることに気づく機能そのものが働かなくなるからです。この指摘は、多くの読者に刺さるはずです。
「訓練すれば短時間睡眠でも平気な体質になれる」という俗説も、本書は退けます。短い睡眠でも健康を保てる生まれつきの体質は特定の遺伝的変異によるごく少数派で、世の中の自称ショートスリーパーの大半は、単に睡眠不足に慣れてしまっただけの人たちだといいます。
年齢によって必要な睡眠時間が変わることも押さえておきたいです。成長期の子どもは大人よりずっと長い睡眠を必要とし、ここが不足すると成長ホルモンの分泌や脳の発達そのものに響きます。
逆に高齢になるほど必要な睡眠時間は自然と短くなるため、時間ができたからといって長く眠ろうとするのはむしろ逆効果になりえます。自分にとっての適正な睡眠時間は、日中に眠気やだるさがなければそれで足りている、というシンプルな基準で見極められます。
覚醒し続けて17時間、脳はほろ酔いと同じ状態になる
17時間起き続けた脳は、軽い飲酒後と同程度まで能力が落ちます。ある実験では、被験者を眠らせずに起こし続け、判断力と反応速度を追跡しました。24時間眠らなければ、酩酊に近い状態まで悪化します。
朝早く起きて夜遅くまで働く人は、知らないうちにこの状態で仕事をしていることになります。「寝ていない頭で働くのは、酒を飲んで働くのとほぼ同じ」というのが著者の言い分です。
歴代のアメリカ大統領経験者が、人生の大きな判断ミスは決まって寝不足の時期に起きたと振り返った例も紹介されており、本書はこれを命を守るための安全装置だと位置づけます。
過去に起きた大きな事故の背景にも、睡眠不足による判断ミスが指摘されてきました。原発事故やスペースシャトルの事故など、名前を聞けば誰もが知る出来事の一因として繰り返し挙げられているという事実は、居眠り運転のような身近な例よりもずっと重く響きます。
眠りを削って失うのは、体力だけではない
睡眠を削ると、体だけでなく心と人づきあいにも害が及びます。睡眠不足がもたらす害は、本書のなかで研究データとともに次々に列挙されていきます。具体的には、次の害が挙げられます。
- 食欲を左右するホルモンのバランスが崩れて太りやすくなります
- 免疫細胞の働きが一晩の寝不足だけで大きく低下します
- 認知症の原因物質とされる脳内の老廃物が徹夜のたびに蓄積しやすくなります
- 血圧が上がり、寿命に関わる数値も悪化します
なかでも本書がページを割いているのが、心と人づきあいへのダメージです。徹夜明けは感情をつかさどる脳の部位が過敏になり、理性側とのバランスが崩れます。
別の実験では、一晩眠らなかった人の多くで「誰かを助けたい」という気持ちそのものが弱まっていたといいます。チームの空気がぎすぎすしていると感じたら、対話の技術をいじる前に、まず全員がちゃんと眠れているかを疑ったほうがいいでしょう。
そんな読み方ができる章でした。
数字にすると、これは個人の不調では済まない規模の話になります。ある研究機関の推計によれば、睡眠不足が日本にもたらす経済的な損失は年間で十数兆円規模にのぼり、国内総生産のかなりの割合を占めるといいます。
別の推計では、社員一人あたりの生産性損失は睡眠不足が突出して大きく、肥満や運動不足による損失より一桁多いです。企業が社員の睡眠を測定してボーナスに反映させる、という海外の取り組み事例も紹介されています。
すべての出発点は「毎朝、同じ時刻に起きる」こと
睡眠の立て直しは、毎朝同じ時刻に起きることから始まります。ここから先は実践編です。本書の方法論はすべて、起きる時刻を固定することを土台にしています。何時間眠るかより先に、何時に起きるかを揺らさないほうが大事だといいます。
理由は体内時計にあります。人間の体内リズムは地球の1日より少し長く、毎朝リセットしなければ眠る時刻がじりじり後ろへずれていきます。このリセットを担うのが朝の光です。
起きてすぐカーテンを開けて外の明るさを浴びると、眠りを促すホルモンの分泌が止まり、脳が覚醒モードに切り替わります。光を浴びてからおよそ半日後、再びそのホルモンが増え始め、自然な眠気がやってきます。
夜の眠気は、実は朝の行動でほぼ決まっています。
夜中に目が覚めてしまう人向けの対処法も具体的です。布団の中で粘って時計を気にするほど、脳は寝床を「眠れない場所」として学習してしまいます。だから15分ほどで眠りが戻らなければ、いったん布団を出て、照明を落とした別の部屋で気持ちを落ち着け、眠気が来てから戻ります。
逆に、あえて布団に入る時刻を遅らせて睡眠不足の圧力を高める、という発想の治療法も紹介されています。増やすのではなく減らす方向で睡眠を立て直す、逆説的なアプローチです。
日中の仮眠にも明確な線引きがあります。目安は30分以内、そして遅くとも午後3時まで。これを超えて眠ると深い眠りに入り込んでしまい、起きたときのだるさがかえって長引きます。反対に、午後の早い時間帯に短く仮眠を挟むだけで、集中力や判断力はしっかり回復するといいます。
週末の寝だめについても、本書は手厳しいです。睡眠は不足分の返済はできても、先取りの貯金はできません。平日にたまった負債を休日にまとめて返そうとすると、体内時計がずれて月曜の朝に時差ぼけのような不調が出て、それが週の半ばまで尾を引きます。
負債を返したいなら、休日に寝坊するより、平日の就寝を少しずつ早めるほうが確実だといいます。
自分に必要な睡眠時間そのものも、実は実験で確かめられます。日中に眠気やだるさがなければ、今の睡眠時間で足りています。それでも正確な数字を知りたいなら、まとまった休みを使った実験があります。
条件は次のとおりです。
- 目覚まし時計をかけない
- 自然に眠くなったら寝て、自然に目が覚めるまで眠る
- 昼寝はせず、カフェインも控える
最初の数日は積み重なった睡眠不足の解消でいつもより長く眠ることになりますが、最低4日、できれば数週間続けると、毎日ほぼ同じ時刻で自然に目が覚めるようになります。
そのときの睡眠時間こそ、生まれつきの体質として必要とされる本人の適正値だといいます。子どもの適正な睡眠時間は大人よりずっと長く、逆に高齢になるほど短くなっていくため、年齢が変われば同じ基準は当てはまりません。
目覚め方そのものにも工夫の余地があります。音は三段階で鳴らします。
- 起きたい時刻の15分ほど前に、鳥の声のようなごく小さな音で一段階目の予告を鳴らす
- 本番の時刻で、しっかりした音を鳴らす
- その5分後に、もう一度だけ念押しの音を鳴らす
スヌーズ機能を何度も鳴らして小刻みに眠りを分断するより、この三段構えのほうが起床後のだるさは軽くなるといいます。眠りの深さに応じて段階的に脳を覚醒へ導く発想は、ここでも一貫しています。
「1日くらい眠れなくても大丈夫」という着地点
明日の起床時刻を先に決めて、起きたらすぐ15分だけ外の光を浴びましょう。数々の警告を並べたうえで、著者が締めくくりに置く言葉は意外にも柔らかいです。眠れない夜を過度に恐れる焦りこそが、不眠をこじらせる最大の要因だからです。
目を閉じて横たわっているだけでも、体はそれなりに休まっています。そう捉え直すだけで気持ちが緩み、かえって眠りに入りやすくなるといいます。
何時に寝るかを考える前に、何時に起きるかを固定します。順番を入れ替えるだけで、夜の眠気の質が変わってきます。
合わせて読みたい
睡眠の科学的な裏づけ、質と量をめぐる異論、休息の考え方。関連する3本を挙げておきます。
『睡眠こそ最強の解決策である』マシュー・ウォーカー 徹夜が感情の脳に与える影響など、本書が引用する実験の多くを手がけた研究者自身による一冊。仕組みをもっと深く、細胞のレベルまで知りたい人に向きます。
「睡眠の質」を決めるのは、量ではなく「最初の90分」だった 量を最優先する本書とは逆の立場に立つ記事。慢性的な寝不足を量でごまかす危険性を本書は警告しているが、量を確保したうえで質も高めるという読み方をすれば、両者は補い合う関係になります。
『TIME OFF 戦略的休息術』 睡眠を「削っていいコスト」から「増やすべき資産」へ読み替える発想を、休息全体に広げた一冊。夜の眠りを固めたその先で、日中の過ごし方まで見直したくなったときに手に取りたいです。
