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『池上彰の行動経済学入門』池上彰|その「980円」に、なぜ手が伸びるのか

思考法・問題解決 ✍ 池上彰
約7分で読めます

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『池上彰の行動経済学入門』
目次

1000円と980円。差はわずか20円なのに、980円のほうが「ぐっと安い」と感じてしまう。この感覚に「端数価格」という名前がついていて、しかもそれが脳の設計に根ざした反応だと知ると、自分の判断が思ったほど自分のものではないと気づかされる。

『池上彰の行動経済学入門』は、その手のカラクリを一つずつ名前をつけて解いていく本だ。ニュース解説でおなじみの著者が、行動経済学の主要な概念を、身近な買い物や仕事の場面に翻訳してみせる。

読み終える頃には、スーパーの値札もサブスクの解約画面も、少し違って見えるはずだ。編集部として通読して感じたのは、これは「賢い消費者になる本」であると同時に、「自分の不合理を許す本」でもある、ということだった。

図解

「合理的な人間」という前提を、行動経済学は捨てた

本書がまず崩しにかかるのは、伝統的な経済学が置いてきた人間像だ。かつての経済学は人を「ホモ・エコノミクス(経済人)」と見なした。常に損得を冷静に計算し、自分の利益が最大になる選択を外さない存在である。同じ品質なら安いほうを買う、という理屈の人だ。

だが現実の私たちは、こんなに整っていない。「なんとなく」「面白そうだから」で、割に合わない買い物を平気で繰り返す。負けが込んだギャンブルほど一発逆転を狙い、ダイエット中と知りつつケーキに手を伸ばす。行動経済学は、この生身の不合理さを正面から扱う学問だ。

なぜ人は不合理に振る舞うのか。本書の答えは拍子抜けするほど身も蓋もない。脳が省エネをしているからだ。人は1日に数万回もの意思決定をこなしており、その大半を「ヒューリスティック(直感)」で片づけている。

いちいち厳密に計算していたら脳がもたない。つまり不合理さは欠陥ではなく、限られた資源で膨大な判断をさばくための、脳の合理的な妥協なのだ。問題は、この直感が便利さと引き換えに一定のクセを抱えている点にある。

本書はそのクセを一つずつ棚卸ししていく。著者はさらに、リーマンショックのような予測不能の衝撃を「ブラックスワン」、軽視されがちだが暴走すると手に負えないリスクを「灰色のサイ」と呼び、不安が理論を超えて相場を動かす場面にも目を配る。

損の痛みは得の喜びの2.25倍——だから「限定」に負ける

本書が繰り返し立ち返る中心概念が「損失回避性」だ。人は得の喜びより損の痛みを大きく感じる。その差はおよそ2.25倍とされ、1万円もらう喜びより1万円失う痛みのほうが、2倍以上強く胸に響く。

この非対称を突くのが「期間限定」「数量限定」「先着100名」といった売り文句である。冷静に考えれば今すぐ要らないのに、「今買わないと損をする」というスイッチが入り、手が伸びる。

損得や確率を人が正確に見積もれないことを理論化したのが、ダニエル・カーネマンの「プロスペクト理論」で、彼はこの業績で2002年にノーベル経済学賞を受けている。

心理学者が経済学賞を取った事実そのものが、この分野の立ち位置を物語る。

同じ性質は「フレーミング効果」にも顔を出す。「成功率95パーセントの手術」と「失敗率5パーセントの手術」は数字の中身が同じなのに、後者を聞くと急に怖くなる。

損のほうに光を当てられると脳が過剰反応するからだ。冒頭の980円も理屈は同じで、4桁が3桁に落ちることで「大台を割った」と直感が早合点する。

言い換えひとつで印象が変わるこの技は、広告のコピーから政治のメッセージまで、あらゆる場所で使われている。

ここで一つ、本書の実用性に触れておきたい。損失回避は突かれる側であると同時に、使える側でもある。仕事で誰かを動かしたいとき、「導入すれば年100万円の利益が出る」とだけ伝えるより、「導入しなければ年100万円を取り逃す」と損の側から言い添えると、相手の判断は目に見えて速くなる。

同じ事実でも、得の絵より損の絵のほうが人を急がせる——この非対称を知っておくだけで、提案の通り方は変わってくる。逆に自分が受け手のときは、「限定」「今だけ」を見た瞬間に「損したくない心理を突かれている」と一度つぶやくだけで、衝動にブレーキがかかる。

アンカーと松竹梅——値札はあなたの物差しごと操作する

次に強力なのが「アンカリング効果」だ。最初に見た数字が錨(アンカー)になり、その後の判断を縛る。通常価格に線を引いて特価を並べる二重価格表示はその典型で、元の値段を先に見せられると、特価が実際以上にお得に映る。

ここに「極端の回避効果」、いわゆる松竹梅の法則が重なると威力が増す。選択肢が三つあると、人は極端を避けて真ん中に落ち着く。5000円と2000円の二択では「贅沢すぎるか安物すぎるか」で迷うが、そこに3000円の「竹」を足すと、無難な真ん中へ自然と流れる。

売り手が本当に売りたい商品を「竹」に置く理由はここにある。高級時計店がショーウインドーに150万円の時計を飾るのも同じ発想で、その一本は売れなくていい。

強烈なアンカーとなって、店内の7万円を「手頃」に見せてくれるからだ。値札が操作しているのは価格そのものではなく、私たちが高い安いを測るときの物差しのほうだ。

「来月こそ」が来ないのは、意志ではなく脳の設計

ダイエットも貯金も資格の勉強も続かない。これを意志の弱さで片づけないのが本書の美点だ。犯人は「現在バイアス」で、人は将来の大きな利益より、目の前の小さな利益を過大に評価する。

時間が先になるほど価値を割り引いて見積もる脳のクセである。だから「将来やせて健康」より「今このケーキ」に負ける。夏休みの宿題を後回しにする子どもと、大人の先延ばしは、まったく同じ回路で説明がつく。

やめられない側には、もう一つ「サンクコスト効果」が働く。すでに払って戻らないお金や時間を惜しみ、損とわかっていても続けてしまう。使っていないサブスクを「元を取らなきゃ」と解約できないのが典型だ。負けを取り返そうと張り続けるギャンブルも、つい買い足す分冊百科も、根は同じである。

では、どう抜け出すか。本書がすすめるのは意志ではなく仕組みだ。あらかじめ自分を縛る「プレ・コミットメント」——目標と期限を周囲に公表し、破ったら小さなペナルティを払うと決めておく。

締め切りを「1か月後」ではなく「あと4週間」と言い換えるフレーミングも、先延ばし対策として効く。公表という仕掛けが効くのは、現在バイアスに勝てない今の自分の代わりに、少し先の他人の視線を借りて自分を律するからだ。

人間の弱さを説教で直そうとせず、環境の側を設計し直す。この発想の転換が、本書後半の「ナッジ」へとつながっていく。

行列と多数派に引っ張られる、社会的な脳

人は自分の損得だけでなく、他人の目や周りの動きにも強く反応する。本書はこれを「社会的選好」と呼ぶ。代表格が「同調効果(バンドワゴン効果)」で、行列のできた店はそれだけで「おいしいはず」に見え、「人気ナンバーワン」のポップに背中を押される。

みんなと同じ行動は安心をくれるからだ。反対に、流行しすぎたものを避けたくなる「スノッブ効果」もあり、揃えたい心と、人と違いたい心が同じ人の中に同居している。

社会的選好は損得勘定に尽きない。他人の利益を喜ぶ「利他性」や、受けた恩に報いようとする「互恵性」も人を動かす。SDGsやエシカル消費の広がりを、本書はこうした心理の表れとして読む。

判断のショートカットはまだある。有名人が薦めるだけで中身が良く見える「ハロー効果」、よく見かけるものを信頼できると錯覚する「利用可能性ヒューリスティック」、自分で組み立てた家具に実物以上の愛着がわく「イケア効果」。

どれも直感のクセであり、裏を返せば、手間をかけさせるほど価値を感じてもらえるという商売の技にもなる。組み立て式の家具や自分で仕上げるサービスが根強いのは、この保有効果と互恵性を静かに利用しているからだ、と読むこともできる。

ここまで来ると、身のまわりの値付けや広告が、どれもこの本のどこかのページに載っている気がしてくる。

禁止せずに人を動かす「ナッジ」という発明

本書の後半で光るのが「ナッジ」だ。もとは「ヒジでそっとつつく」という意味の言葉である。禁止も強制もせず、選択肢の見せ方を少し工夫するだけで、人が自然に望ましいほうを選ぶよう仕向ける。ここまで並べてきた脳のクセを、悪用ではなく良い方向に転用する発想だ。

象徴的なのが臓器提供の意思表示である。「提供したい人が申請する(オプトイン)」方式に対し、原則同意で拒否する人だけ申請する「オプトアウト」方式に切り替えると、同意率がほぼ100パーセントに跳ね上がる国がある。

人は現状維持を好むため、初期設定(デフォルト)を変えるだけで行動が大きく動く。もっと身近な例もある。タニタ食堂の茶碗は内側に100グラムと150グラムの目安線が入っているだけで盛りすぎが減り、イギリスは納税督促状に「あなたの地域ではすでにほとんどの住民が納税しています」の一文を添えて納税率を上げた。

命令ではなく、そっとつつくだけで人は動く。

ただし、ここには居心地の悪さも残る。デフォルトを設計する側が善意とは限らないからだ。同じ仕組みで臓器提供の同意率を上げられるなら、退会ボタンを深く隠して解約させないサブスクの画面も作れてしまう。

本書はナッジを希望の側から語るが、選んでいるようで選ばされている構図そのものは変わらない。だからこそ、つつかれる側にできる最初の防御は、名前を知ることだと編集部は考える。

「これはアンカリングだ」「今、損失回避を刺激されている」と胸の内でつぶやけるだけで、直感と判断のあいだにわずかな隙間が生まれる。本書の価値は、その隙間を作る語彙をまとめて手渡してくれる点にある。

ここに本書の姿勢が凝縮されている。行動経済学は、人間はダメだと責める学問ではない。人はこう間違えるという規則を知れば、その裏をかいて、自分や相手をより良い選択へ導ける。

今日スーパーで「980円」に手が伸びたら、その一瞬に何十年ぶんの脳のクセが働いていると思い出してほしい。気づけるようになるだけで、選び方は確かに変わり始める。


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