1988年、世界最高峰とされる学術誌に一本の論文が掲載されました。左手を使う人は右手を使う人より早く死ぬ、という内容です。数年後には具体的な数字も添えられ、平均でおよそ9年の差があるという結果が公表されます。生命保険会社が保険料の見直しを本気で検討し始めるところまで、話は進みました。
この結論は、のちにすっかり誤りだったと判明します。しかも捏造でも実験の手違いでもありません。ありふれた統計の扱い方が、ありふれた錯覚をただ生んだだけでした。
千葉聡さんの『「科学的に正しい」の罠』は、似た構図の事件を十件近く重ねながら、一つの問いへ読者を連れていきます。世の中で「科学的に正しい」と呼ばれているものの中身は、いったい何でできているのでしょうか。

科学者は、そもそも「正しい」と言いたがらない
「科学的に正しい」の事実面と意思決定面を混ぜたところから、本書に並ぶ事故のほとんどが起きています。本書がまず突くのは言葉のずれです。科学者自身は「正しい」という言い切りをあまり好みません。代わりに使われるのは「支持できる」「今のところのデータと矛盾しない」といった留保つきの表現で、新しい証拠が出れば結論はいつでも書き換わる前提に立っています。
ところがこの留保は、専門の外側に出た途端に消えます。「科学的に正しい」という言葉は、誰の主観からも切り離された絶対の真理という顔をして一人歩きを始めます。
本書はここで二つの意味を切り分けます。今ある証拠に照らして最も信じるに値するという事実面の話と、今ある証拠に照らして選択が正当化できるという意思決定面の話です。
著者自身はもともと進化生物学を専門としていて、題材の中心も進化学や遺伝学に置かれています。ただし本書がたどっているのは学問の中身そのものではなく、その学問がどんな力によって歪められてきたかという経緯のほうです。
予防に成功した対策ほど成果が目に見えず、かえって疑いの目を招きやすいという指摘や、ある科学者への批判が数十年後に事実誤認だったとわかった例など、評価の脆さを示す小さな逸話も随所に挟まれています。
感染症のワクチンが数千万人の死を防いだという推計がありながら、その功績は感染が起きなかった世界では誰の目にも映らないという逆説も、同じ文脈で語られる一節です。
ルイセンコ思考:事実のほうを、あとから決める
本書の背骨にあたる「ルイセンコ思考」は、事実のほうをあとから決めてしまう思考です。
ルイセンコ思考:実際の証拠ではなくイデオロギーや願望のほうを先に決めて、事実をそこに後付けで合わせてしまう思考の癖。
かつてのソ連で、正式な学位を持たない一人の青年が国家公認の生物学者へ祭り上げられたことがあります。彼が唱えたのは、環境の影響で変化した性質がそのまま子の世代へ受け継がれるという説で、種子を低温にさらしてから播く技術や、株を密集させれば互いに助け合って収量が伸びるという農法をその根拠にしていました。
特別な設備も肥料も要らず、農民が主役になって安く増産できます。当時の政権が掲げていた「人間さえ作り変えられる」という理念と、都合よく重なったのです。
異を唱える本来の遺伝学者たちは「よそ者のスパイ」と政治的に攻撃され、著名な学者を含む多数が投獄され、命を落としています。結果としてこの国の農業は深く傷つき、大規模な飢えを長引かせることになりました。
本書はここから、この思考の癖を取り出します。これは歴史の一幕にとどまらないと本書は続けます。
今なお、ある大国では牛の乳に貴金属の粒子が含まれるといった荒唐無稽な話が公式の学習教材として扱われ、それを疑う研究者はネット上で「国を裏切る者」と名指しされます。
処刑という形こそ消えましたが、予算や職を奪うという静かな圧力へと姿を変えただけで、骨組みはそのまま生き延びています。
「である」から「すべき」は出てこない
事実を述べただけの文から、そうすべきだという規範は論理的に取り出せません。ここから本書は、罠そのものの構造へ踏み込みます。使う道具はひとつ、この原則です。「自然に存在するものは体によい、だから人の手を加えた添加物は悪だ」という飛躍を、私たちは日常的に踏んでいます。
この一線をめぐって実際に起きた騒動が、本書でもっとも読ませる場面です。ある著名な進化学者がSNSに、優生学を道徳的に非難することと、それが技術的に成り立たないと結論づけることは別の話だ、事実は誰の思想にも配慮しない、という趣旨の投稿をしました。
たちまち数千件の非難が集まり、世界的な炎上へ発展します。
本人は自分の論理が一貫していると信じていました。ですが「優生学」という単語には、弱い立場の人々を長く迫害してきた歴史がすでに強くこびりついていて、そこから純粋に事実だけを抜き出すことはできません。
自分の客観性に自信を持つ人ほど、自分の言葉にまとわりつく価値観そのものには気づきにくいのです。本書はこの炎上を、中立を装うことの危うさを示す典型例として位置づけます。
似た構図は、ある遺伝子の型と特定の民族の暴力性を結びつけた過去の報道にも見つかります。同じ型の保有率は別の集団のほうがむしろ高かったのに、物々しい呼び名がついたのは片方の集団だけでした。
植民地時代から続く格差という社会的な原因を遺伝子のせいへすり替えれば、向き合うべき責任は静かに消えていきます。
一九九〇年代の米国では、自然科学と人文学の側が科学の客観性そのものをめぐって激しく対立した時期があります。ある物理学者が、専門用語だけを散りばめたでたらめな論文をわざと思想誌へ投稿し、それが真面目に採用されてしまうという事件も起きました。
皮肉なのはその後です。科学的な合意など権力の産物に過ぎないという論法は、のちに気候変動を否定する側にそのまま流用され、対立を仕掛けた側の研究者自身が危機感を抱いて立場を修正することになりました。
批判のための道具は、誰の手にでも渡ってしまうということです。
冒頭の謎:9年差が生まれたからくり
9年差は、利き手が寿命を決めていたのではなく、世代ごとの人数構成のねじれが生んだ見かけの差でした。冒頭の話に戻りましょう。当時の研究者たちの説明はこうでした。左手を使う人は胎児期の脳損傷など病理的な要因を抱えていて、生き延びる力そのものが弱い、と。
からくりは拍子抜けするほど単純でした。二十世紀の前半まで、欧米でも日本でも、幼い子の利き手を右へ矯正する習わしが根強く残っていました。だから年配の世代ほど見かけ上は右利きに偏り、矯正を受けずに育った若い世代ほど左利きの比率が高いのです。
亡くなった人の記録だけを集めて平均年齢を比較すると、何が起きるでしょうか。高い年齢で亡くなる人の大半は昔生まれた世代なので右利きとして記録され、若くして亡くなる人には左利きが相対的に多く含まれてしまいます。
世代ごとの人数構成のねじれが統計上の差として表に出ていただけでした。のちに利き手による寿命差をゼロと置いた上で世代構成だけを使って計算し直すと、見かけ上の差はぴたりと再現されたそうです。
一流誌の審査を通過し、メディアで取り上げられ、保険料の議論にまで及んだ話が、真相にたどり着くまで35年を費やしています。
なお著者自身も左利きであることを、本書は隠さずに明かします。自分の側にある偏りを先に見せてから語ります。本書が読者に勧める態度を、著者が自分自身へ課している箇所でもあります。
左利きが集団の中で一定の割合を保ち続ける理由についても、少数派であることがかえって有利に働くという進化上の仕組みが補足として添えられています。
今日からできること
目の前の文章のどこまでが事実の描写で、どこから「そうすべきだ」という主張が始まっているのか、自分の手で線を引いてみましょう。本書が示す対処は、心構えというより具体的な手順に近いです。心を強く動かされた話題ほど、その場で結論を出さず翌日まで寝かせます。「やっぱりそうか」と膝を打った瞬間こそがいちばん危ないと自覚すること自体が、最初の一歩になります。
数字を提示する前に、自分がどの立場から、どんな利害のもとで発言しているのかを一行添えておきます。「私はどちらの側でもありません」と書いた瞬間、本書がもっとも警戒する型へ自分から足を踏み入れてしまいます。
その結論に反対する専門家が本当にいないのかどうかを、賛成の根拠をかき集める前にまず自分の足で確かめておきます。利害の対立が大きく先の見えない状況であるほど、閉じた輪の中だけで合意を進めることの危うさは膨らみやすいです。
実際に目の前の文章に線を引いてみると、きれいに線を引けない文章のほうが、思いのほかずっと多いはずです。
合わせて読みたい
『自分のアタマで考えよう』ちきりん 知っていることが増えるほど、かえって頭を使わなくなるという主張は、本書が突く「自信のある人ほど盲目になる」という論点と別の角度から重なります。判断が止まる瞬間を扱った一冊です。
数字が苦手な人ほど、数字に騙される 9年差という説がなぜ長く生き延びたのかを、日々の数字の付き合い方まで引き寄せて考えたい人に向きます。結論を左右するのは数字そのものより読み方だ、という視点で通じ合います。
「世界はもっと良くなっている」を知らないあなたへ うまくいった対策ほど目に見えないと語る本書に対し、こちらは改善は数字の中にしか現れないと説きます。二冊を並べて読むと、日常で見落としがちな範囲の形がはっきりしてきます。
