「教養がある人」と聞いて思い浮かぶのは、ワインの銘柄に通じ、西洋美術をひと通り語り、歴史の年号がすらすら口をつく、そんな姿だろう。だが山口周『自由になるための技術 リベラルアーツ』は、その像をあっさり退ける。飲み会で知識をひけらかす道具は、教養の本体ではない、と。
本書が描くリベラルアーツは、もっと物騒だ。自分を縛る常識や固定観念から抜け出し、自分の価値基準で生きるための技術。だから「教養」ではなく「自由になるための手段」と訳すべきだ、と著者は言う。
本書のおもしろさは、山口ひとりの論で完結しない点にある。歴史学者の中西輝政、出口治明、社会学者の橋爪大三郎、禅僧の平井正修、経営学者の菊澤研宗、データ科学の矢野和男、漫画家のヤマザキマリ。
専門のまるで違う達人たちとの対談を通して、教養を歴史、宗教、禅、経営、芸術という複数の入り口から立体的に浮かび上がらせる。編集部から見ても、この多声性が本書を単なる教養礼賛から救っている。

リベラルアーツは知識ではなく「常識から自由になる技術」
英語の liberal は「縛りがない」を意味し、その反対語は disciplinary、すなわち規律や訓練で体系化された学問だ。リベラルアーツはその反対の、体系に縛られない側に立つ。既存の学問の枠を軽々と越えていく、自由でしなやかな知的運動だというのが、本書の背骨である。
この抽象論をぐっと身近にするのが、コンピューターの比喩だ。ロジカルシンキングやマーケティングは、場面ごとに使い分ける「アプリ(道具)」にすぎない。
対してリベラルアーツは、その道具をいつ何のために使うかを判断する「OS(基本ソフト)」にあたる。どれだけ優秀なアプリを揃えても、制御するOSが弱ければ、肝心の場面で正しい判断も勇気ある決断もできない。ワインや美術をいくら語れても、おしゃべりの道具として消費するだけなら、行動の原動力にはならないという指摘は、耳が痛い。
ここで本書が繰り返すのが、「How」から「What」への転換だ。効率的なやり方(How)を追う時代は終わり、「自分は何をしたいのか(What)」に答える力が問われている。
その問いに答える土台こそ、OSとしての教養だという。ただ留保をつければ、OSとアプリの線引きはきれいすぎるとも思う。実務では両者は絡み合い、道具を使い込む過程でこそ判断力が育つ面もあるからだ。
それでも、手段の洗練にばかり気を取られる私たちに、目的を問い直す軸を思い出させてくれる比喩ではある。
「正しさ」がコモディティ化した時代の、美意識という賭け
なぜ今このOSが要るのか。理由のひとつが「正しさのコモディティ化」である。データ分析とロジカルシンキングで論理的に「正しい」答えを出すと、誰が考えても、どの競合が考えても、同じ結論に行き着く。
正しさはもう、差別化を生まない。皮肉なことに、分析の精度を上げるほど競合と結論が揃い、費やした努力ごと横並びに吸い込まれていく。
わかりやすいのが携帯電話だ。かつて日本のメーカーは巨額の費用で消費者調査を重ね、「正しい」はずの端末を作っていた。ところがAppleが、直感的に「カッコいい」と思わせるiPhoneを出した途端、あっけなく敗れ去る。
ここで浮上するのが「美意識」、すなわち自分の内側にある真・善・美の感覚である。論理が限界を迎える不確実な時代には、この主観の感覚を意思決定の拠り所にするしかない、と本書は説く。
象徴的なのが広島の家具メーカー、マルニ木工だ。存亡の危機に、市場調査ではなく「日本発の世界定番の椅子を作りたい」という社長自身の想いに従って椅子を開発した。
その椅子はAppleのチーフデザイナーの目に留まり、本社へ何千脚も納入される。客観的な予測ではなく、主観の美意識に賭けたことが新しい価値を生んだ。
もっとも、こうした成功譚は生き残った例だから語られる、という生存者バイアスの疑いは残る。美意識に賭けて消えた企業のほうが、はるかに多いはずだ。
本書の主張は「論理を捨てて感性で突っ走れ」ではなく、論理で差がつかなくなった局面でこそ主観の判断軸を持て、という順序の話だと読むのが正確だろう。
コナトゥス、単一のモノサシから自分を取り戻す
美意識の話は、17世紀の哲学者スピノザの「コナトゥス」という概念につながる。コナトゥスとは「自分が自分であろうとする力」、自分を押し進める推進力のことだ。
他人を理解するとき、出身地や学歴という属性をいくら並べても本質はわからない。その人が何に心を動かし、どんな推進力で生きているのか。そこを捉えることこそ、人間理解の最高の武器になると本書は説く。
山口は、歴史に残ってきた絵画や音楽や文学を「人類のコナトゥスの膨大なリスト」と呼ぶ。人類が何に深く心を揺さぶられてきたかの記録、それがリベラルアーツの正体だという捉え方だ。
問題は、いまの日本社会が年収や偏差値や財務指標という「単一の量的なモノサシ」で、すべてを測ろうとすることにある。その結果、多くの人のコナトゥスが窒息し、強い閉塞感が生まれている。
年収や偏差値で人を並べる発想は効率的に見えて、実は一人ひとりの推進力を数字の格子に押し込め、社会全体の活力まで削いでいる、というわけだ。
逆に、コナトゥスが活性化する場所に身を置くと、人は化ける。銀行員時代には冷遇されていた小林一三が、阪急電鉄の事業に関わった途端、住宅ローンの仕組みやデパート、宝塚歌劇団を次々に生み出したのが好例だ。
一人ひとりのコナトゥスを活かすことが、個人の生産性と社会全体の閉塞感の打破に直結する、というのが本書の底に流れる楽観である。この主張は魅力的だが、では自分のコナトゥスをどう見つけるのか、という肝心の入り口は各人に委ねられている。
そこを埋める手がかりが、後半の実践編になる。
賢い人ばかりの組織が、なぜ不祥事を起こすのか
経営学者の菊澤研宗との対談で扱われる「組織の不条理」は、読んでいて背筋が寒くなる。企業の不祥事や隠蔽は愚かな人間が起こす、と思われがちだ。ところが実際は逆で、賢く合理的な意思決定の積み重ねが招くと説明される。
カギは、新制度派経済学の「取引コスト理論」だ。人は行動するとき、人間関係の駆け引きや配慮といった見えないコストまで損得勘定に入れる。頭の良い人ほど、そのコストが大きく見えてしまう。
だから「波風を立てて報告するより、動かないほうが、隠すほうが得だ」と判断しがちになる。優秀な人間が集まると、明示的な指示がなくても全員の損得計算が「隠すほうが合理的」で一致し、組織的な不祥事が自律的に発生する。
これを突破するには、損得勘定(目的合理性)だけで動くのをやめるしかない。「計算上はプラスでも、倫理的に良くないからやらない」と主観で価値判断する「価値合理性」を、リーダーが引き受ける覚悟がいる。
ここでも判断の拠り所は、論理ではなく美意識の側にある。本書の議論は、章をまたいで一本の線でつながっていく。この対談は、教養を個人が自由になる話から、組織を暴走から守る話へと接続する要になっていて、本書でもっとも実務的な射程を持つ。
「人・本・旅」で教養を日常に鍛え直す
では、この教養はどう鍛えるのか。禅僧の平井正修との対談は、意外なほど実務的だ。禅でいう「仏」とは、心の縛りやもつれが「ほどける」ことを意味するという。
私たちは「これはこういうものだ」「自分はこういう人間だ」という思い込みに囚われ、不自由になっている。坐禅で外界の刺激を遮断して内面を見つめると、その思い込みがほどけ、他人の評価に一喜一憂しない本当の自己認識に近づく。
この「セルフアウェアネス(自己認識)」こそ、いまのマネジメントで最も重視されるリーダーの素養だと本書は言う。組織コンサルティング会社コーン・フェリーの調査でも、予測不能な状況で成果を出し続けるリーダーは、共通して自己認識能力が高いと確認されている。
もうひとつの鍵が「移動」だ。漫画家ヤマザキマリとの対談では、旅の価値が語られる。本や伝聞で得る情報は、誰かの手で加工された二次情報にすぎない。
自分の足で現地へ行く旅だけが、加工されていない生の一次情報に五感で触れさせてくれる。生涯のおよそ三分の一を旅に費やしたモーツァルトの創造性は、異なる文化の一次情報に触れ続けた「環境の産物」だったと説明される。
山口が引く「人生の累積移動距離は創造性と相関する」という言葉が、この章を貫いている。
そして出口治明との対談で、学びの基本サイクルは「人・本・旅」に集約される。いろいろな人に会い、古典を読み、現地に足を運ぶ。イノベーションは既存知の新結合であり、知と知の距離が遠いほど独創的になる。
だからこそ女性、ダイバーシティ、高学歴という「他者との出会いに開かれてあること」が生産性を左右する、という主張につながる。労働生産性と大学院修了者の比率は正比例する、という数字も引かれ、空気を読むムラ社会に閉じこもることこそ知的停滞の温床だと釘を刺される。
橋爪大三郎との宗教をめぐる対談を経て、本書はこれらを日常に落とす合言葉を差し出す。「タテ・ヨコ・算数」だ。その慣習は歴史的に本当に当たり前か(タテ)、海外や他業界でも通用するか(ヨコ)、数字やファクトの裏づけはあるか(算数)。
この三つの軸で常識を検証すれば、空気を読む同質的な忖度から抜け出せる。
読み終えて残るのは、「正しさ」で勝負しようとしていた自分への揺さぶりだ。みんなが同じ正解を目指す窮屈な世界から抜け出し、自分のモノサシで判断する。
そのために教養を武器として鍛え直す。リベラルアーツを「自由になるための技術」と呼ぶ意味が、読み進めるうちにじわじわ効いてくる。教養書を何冊も積んできたのに仕事や生き方につながらなかった、という読者ほど、この一冊で前提そのものを揺さぶられるはずだ。
まずは今日、いつも通り従っている「当たり前」をひとつだけ選び、タテ・ヨコ・算数で疑ってみることから始めたい。それが、自由への最初の一歩になる。
