朝6時に起きて、23時まで仕事を続けている。 本書はこの状態を「酔って働いている」と表現します。
たとえ話ではありません。オーストラリアの研究チームが示したデータとして、本書が紹介する事実です。人は起床から12〜13時間ほどしか、十分な覚醒を保てません。17時間を超えると、集中力はアルコールを軽く飲んだときと同程度まで落ちるといいます。
朝6時起きの人であれば、23時はすでに酔いが回った時間帯にいる計算になります。多くの残業が、酔った脳による判断で進んでいる。
この一撃から始まるのが、大嶋祥誉さんによる『マッキンゼーで学んだ速い仕事術』です。仕事の速さの正体を、気合いや才能ではなく、脳のコンディションと作業の手順という切り口で捉え直す一冊です。
マッキンゼー本と聞くと論理思考の解説を思い浮かべますが、本書はページの半分近くを睡眠、瞑想、運動、手書きといった身体の話に割いています。

仕事が速い人に共通する3つの型
著者は元マッキンゼーのコンサルタントで、独立後は組織開発とリーダー育成を手がけています。自身を「非ロジカルで直感型の人間」と語る人物で、MECEやピラミッドストラクチャーといった定番のフレームワークも、図解と日常の比喩でかみ砕いて説明されます。
裏を返せば、体系としての精度は専門書に譲る書き方で、フレームワークを深く学びたい人にはやや物足りないはずです。それでも明日から手を動かしたい人には、この簡潔さのほうが実用的に効きます。
本書は、仕事が速い人に共通する型を3つに整理します。考えすぎず粗いアウトプットを出し、修正しながら進める「すぐ動く」。要点を短く伝え、周囲から情報を引き出す「こまめに共有する」。
道具と生活をシンプルに保ち、余計な決断で脳を疲れさせない「シンプルであること」。この3つを軸に、時間管理、思考の型、資料作成、会議、習慣という順で技術が並びます。
今回は、なかでも脳のコンディションと思考のOSに関わる前半を中心に紹介します。
一生懸命やっているのに毎日残業になる人、ロジカルシンキングの本を買って途中で閉じた経験がある人、部下に仕事を任せられず自分で巻き取ってしまうリーダー。こうした人ほど、本書の指摘は刺さるはずです。
起床17時間で、脳は酔い始める
冒頭の数字を仕事の設計に落とすと、こうなります。思考がクリアな午前に「考える仕事」を置き、疲労を自覚し始める16時以降には「事務処理」を回す。同じ8時間労働でも、並べる順番を変えるだけで、成果物の質が変わるという主張です。
睡眠に関する説明では、スタンフォード大学のウィリアム・C・デメント教授が名づけた「睡眠負債」という考え方が登場します。日々の寝不足が本人の自覚なく借金のように積み上がり、判断力と体調をじわじわ削っていく状態を指す言葉です。
厄介なのは回復コストで、たった1日の夜更かしでも翌日の成果は目に見えて落ち、元に戻すまで2〜3日かかると著者は書いています。睡眠不足を気合いで取り返せる遅れだと考えている人には、耳の痛い指摘でしょう。
集中力そのものにも限界があります。高い集中を保てるのはせいぜい15〜30分、調子の良い日でも60〜90分が上限で、それを超えて走りきると反動が大きい。
本書が勧めるのは、調子が良くても20分働いたら5分休む、細かく刻む働き方です。集中が切れるまで粘ることを美徳にしてきた人ほど、これは発想の転換を迫られます。
脳の容量を、決断と物探しで溶かさない
本書がくり返す言葉が「シンプル」です。どうでもいい判断や物探しに脳の容量を使うと、肝心な仕事へ振り向ける分が残らない。スマホのストレージが不要なファイルで埋まると本命のアプリが重くなる、あの感覚に近いものです。
まずやり玉に挙がるのがマルチタスクです。デボラ・ザック氏の著書に引用されたハーバード大学の調査では、能率の低い社員は1日に500回もタスクを切り替えていた一方、最も能率の高い社員はむしろ切り替え回数が少なかったといいます。
忙しく手を動かしているように見える人ほど、実は仕事が遅い側にいるかもしれない、という逆説です。対策は地味で、付箋にタスクを書き出して優先順位をつけ、ひとつ終えてから次に進むだけです。
BGMについても、意外な報告があります。ジャーナリストのオルガ・カザン氏が伝えた実験によれば、複雑な作業で最も成績が良かったのは無音のグループで、最も悪かったのは好きなアップテンポの曲を聴くグループでした。
音楽が効くのは単純作業に限られるようです。作業用BGMを習慣にしている人には、意外な結果かもしれません。
物理的な環境も同じ理屈で削る対象になります。リズ・ダベンポート氏の調査では、平均的なビジネスパーソンは探し物に年間150時間を費やしており、コクヨの2017年調査でも紙の書類探しだけで年間80時間相当が失われていたといいます。
机の上の資料は、視界に入るたびに小さな判断を強いて、思考を乱すノイズになります。
仕事モードへの入り方さえも、儀式にしてシンプルにする発想があります。場所を切り替えのスイッチにすると在宅や外出先で崩れるため、本書はラグビー日本代表・五郎丸歩選手のルーティンを引き、どこでも再現できる自分だけの手順を持つことを勧めます。
ぼーっとする時間と、手で書く時間が仕込みになる
ここまでは削る話でしたが、本書は余白まで削れとは言いません。むしろ意図的に確保しろと勧めます。
ワシントン大学のマーカス・レイクル教授の研究によれば、人がぼんやりしているとき、脳内では「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ばれる回路が働き、蓄積した記憶や情報を結びつけ直しているといいます。
手を止めている時間は、サボりではなく次の一手の仕込みに当たる。著者自身は1日2回、20分ずつ瞑想する習慣を続けており、スティーブ・ジョブズ氏をはじめ瞑想を習慣にしていた経営者は少なくないと紹介されています。
行き詰まったら画面を見続けるのをやめ、10分だけ窓の外を眺める。それだけでも仕込みになるといいます。
体を動かすことにも近い効果があるようです。筑波大学の征矢英昭教授らの研究チームは、ウォーキングのような軽い運動を10分行うだけで認知機能が高まると報告しています。
著者は毎食後に30分ほど散歩する習慣を紹介し、昼食後の散歩で五感を整えると1日仕事を3時間で終えられたこともあると書いています。
もうひとつの推奨が、いきなりパソコンを開かず、まず紙とペンを持つことです。理由に挙げられるのは記憶の仕組みで、頭だけで覚えた知識は「陳述記憶」として海馬でふるいにかけられ消えやすい一方、手を動かして覚えたことは「手続き記憶」として大脳基底核や小脳のネットワークで処理され、定着しやすいとされます。
コクヨが東大合格者のノートを分析して作った罫線入りノートが東大生の8割以上に使われているという話も、この文脈で紹介されています。ノートの3割を余白にして、びっしり書き込まないことも勧められています。
分析をやめて、仮説と真因から動く
思考編に入ると、本書は「遅い人」の典型として、過去のデータと成功事例を延々と調べ続ける人を挙げます。変化の速い局面では、過去をどれだけ精密に分析しても新しい答えは出てこないという理屈です。
代わりに勧めるのが仮説思考です。情報が足りない段階でも「本質的な課題は何か」という仮の結論を先に立て、検証しながら動く。仮説を立てて試し、外れたら直す。
この回転の速さが、仕事の速さの正体だという主張です。分析は過去を採点する行為で、仮説は未来を発想する行為だと著者は言い換えています。この言い換え自体はビジネス書でよく見る型ですが、「間違いを恐れる必要が減る」という効能まで踏み込んでいる点は、実務で使う人への配慮を感じます。
ただし、動く前に一度だけ立ち止まる場所があります。真の原因を特定する作業です。本書が引くのは、目隠しをした6人が象の一部だけを触って言い当てようとする、インドに伝わる寓話です。
太い足に触れた人は柱のようだと報告し、大きな耳に触れた人はうちわのようだと報告する。誰の証言も本人にとっては嘘ではないのに、部分しか見ていないせいで、全員がずれた結論にたどり着く構図です。
若手の離職率が上がった職場を例に、本書はこの構図を実務へ当てはめます。多くの現場は「モチベーション向上研修」という対症療法に飛びつきますが、原因をノートに書き出して掘り下げると、実際の元凶は管理職のコーチング不足で、上司と部下の会話そのものが滞っていた、というケースです。
この場合、正しい打ち手は管理職向けのコーチング研修になり、若手研修をいくら重ねても離職は止まりません。
真因にたどり着いたあと、それを人に伝える型として本書が示すのが「空・雨・傘」です。空は事実、雨は事実に基づく解釈、傘はそこから導く行動。この3段を一息で並べて初めて、話が前に進むという考え方です。
「だから何(So what?)」
マッキンゼーの会議では、事実と解釈だけで止まった発言にこの一言が飛んだと著者は振り返っています。空・雨・傘そのものはビジネス書ではおなじみの型ですが、「傘まで言わないと仕事が渡らない」という言い切り方には、報告のたびに確認のやりとりが発生している職場への実感がにじみます。
早く失敗したマウスが、最初にゴールへ着いた
習慣を扱う章で紹介されるのが、脳科学者・池谷裕二教授が行ったマウスの迷路実験です。14匹に複雑な迷路を走らせたところ、序盤のうちに行き止まりへ繰り返し入り込み、同じ道を行ったり来たりしたマウスのほうが、最終的には最短経路へたどり着く速度が上だったといいます。
途中で最短経路が通れないようルールを変えると、序盤にたくさん迷ったマウスのほうが、代わりの経路を素早く選べたそうです。
この実験が示すのは、失敗は損失ではなく行き止まりを1本つぶした前進だという見方です。
「早くとりかかり、早く失敗しておくこと」
これが、著者が仕事を速くする一番の近道として繰り返す言葉です。準備の完成度を上げようとして着手を先延ばしにしている時間は、慎重さではなく回り道になっている可能性がある。この指摘は、リスクを取りたくない人ほど痛いはずです。
明日から動かせる場所は3つに絞れます。カレンダー上で、考える仕事を午前に、事務処理を16時以降にまとめ直すこと。報告の最後に「だから、こうします」を1文足して、空・雨・傘の傘まで届かせること。そして、行き詰まった案件ほど、粗くていいので今日中に一歩踏み出してしまうこと。
本書はこのあと、企画書の型や会議の設計、プレゼンの技術にも話を広げますが、根っこにあるのは今回紹介した脳のコンディションと思考の順番です。速さは気合いの量ではなく、脳を空けておく設計から生まれる。それが、この本を貫く一番太い主張です。
