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『ネガティブ・ケイパビリティ』帚木蓬生さん|答えを急ぐ脳が、本質を取り逃す

健康・メンタル ✍ 帚木蓬生さん
約8分で読めます

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『ネガティブ・ケイパビリティ』
目次

胃がんを引き起こすピロリ菌。その存在が医学に正式に認められるまで、じつに30年が空費された。足りなかったのは技術でも予算でもない。「強酸性の胃のなかに細菌が棲めるはずがない」という権威の一言を、世界中の医師が疑いもせず記憶し、そこで考えるのをやめてしまったからだ。

日本の優秀な内科医も、顕微鏡の視野に細菌らしき影を見ていた。だが「どうせゴミだろう」と片づけた。

精神科医であり作家でもある帚木蓬生さんの『ネガティブ・ケイパビリティ』は、この苦い逸話から筆を起こす。早くわかろうとしすぎると、目の前にある本物を取り逃す。私たちの脳に巣くう「分かりたがり」の落とし穴を、まず容赦なく突きつけてくるのだ。

そのうえで本書が差し出すのは、正反対の力である。答えをすぐには出さず、宙ぶらりんのまま持ちこたえる力。奇妙なことに、それが仕事も看取りも子育ても、そして生きることそのものを楽にするという。以下、その全体像を編集部の視点でたどっていく。

答えを出さない力が、なぜ「能力」と呼べるのか

私たちは幼い頃から、問題を速く正確に解く訓練を積み重ねてきた。本書はこの能力を「ポジティブ・ケイパビリティ」と名づける。状況を的確に処理し、最短で解決へ運ぶ力だ。学校でもビジネスでも称賛される、まっとうな武器である。

ところが人生には、この武器がまるで歯の立たない領域が広がっている。愛する人の死、治らない病、こじれてほどけない関係。ここで解決力だけを握りしめると、人は二つの失敗に追い込まれる。

表面的な答えに飛びついて本質を見失うか、無力さに耐えられず現場から逃げ出すか、のどちらかに追い詰められてしまう

そこで要請されるのが裏返しの力、ネガティブ・ケイパビリティである。負の能力、陰性能力とも訳される。この言葉を最初に口にしたのは、19世紀イギリスの詩人ジョン・キーツだ。

両親と弟を病で失い、自らも結核と貧困のなか25歳で世を去った人である。彼は兄弟に宛てた手紙のなかで、この力を「性急に証明や理由を求めず、不確実さや不思議さ、懐疑のなかにいられる能力」と書き残した。

キーツが手紙に一度だけ記したこの概念は、その後170年ものあいだ忘れ去られていた。それを掘り起こしたのが、英国の精神科医ウィルフレッド・ビオンである。

第一次大戦で戦車隊を率い、のちにノーベル文学賞を受けるサミュエル・ベケットを患者に持った人だ。ビオンは分析医に対し、記憶も欲望も理解もいったん手放して患者に向き合えと説いた。

理論を頭に詰め込み、それを当てはめて「わかったつもり」になった瞬間、目の前の生身の相手との新鮮な対話は死ぬ。ベケットの治療で味わったその痛みが、彼の出発点にあったという。

ここで編集部が唸ったのは、著者が精神科医と小説家という二つの顔を持つ点だ。診察室の患者の苦悩と、シェイクスピアや紫式部の創作とを、著者は一本の線で無理なく結んでみせる。

医療、脳科学、文学、教育、そして戦争の歴史までもが、この一つの概念で数珠つなぎになっていく。専門書ではまず起きない越境が、本書の射程を独特なものにしている。

脳は「わからない」に耐えられないようにできている

ネガティブ・ケイパビリティが厄介なのは、それが脳の本能に真っ向から逆らうからだ。

正体のわからないものが目の前に放置されると、脳はそわそわと落ち着きを失い、不安になる。この居心地の悪さから逃れようと、脳はとりあえず何かしらの意味を貼りつけ、「わかった」ことにして安心しようとする。

世にハウツー本や接客マニュアルがあふれ、歓迎されるのはこのためだと著者は見る。手っ取り早い「わかった感」ほど、脳にとって甘い蜜はない。

冒頭のピロリ菌が、まさにこの落とし穴の実例だった。1950年代にアメリカの病理学の権威が「胃酸のなかに細菌はいない」と断じ、以後30年、その説は疑われることなく信じ込まれた。

細菌を現に見ていた医師たちも、権威の記憶と「早く片づけたい」欲望に負け、探究をやめてしまう。ピロリ菌がようやく認められたのは1983年、オーストラリアの二人の医師の粘りによってである。

「わかったつもり」の理解はいつも低い次元にとどまり、マニュアルの想定外が起きた瞬間、慣れきった脳はあっけなく思考停止に陥る。速さを求めれば求めるほど、深いところには届かなくなる。この逆説こそが本書の背骨だと編集部は読む。効率と正解を至上とする現代への、静かで根本的な異議申し立てなのだ。

治せなくても手入れはできる——医療現場の「日薬」と「目薬」

本書がもっとも温かい光を放つのが、医療をめぐる章である。

現代の医学教育は、症状から素早く問題を割り出し治療計画を立てる、解決型の思考を徹底して叩き込む。だが死を目前にした終末期の患者を前に、この鋭利なナイフは急に用をなさなくなる。

死への不安は病でも異常でもなく、まっとうな反応であり、マニュアルも薬も効かないからだ。解決力しか持たない医師は、何もできない自分の無力に耐えかね、いつしか病室から足が遠のいてしまう。

発想の転換のきっかけは、インドネシアの精神科病院の教授の一言だった。設備も薬も乏しい病棟を見て「これで治せるのか」と問うた著者に、教授は「治せないかもしれませんが、トリートメントはできます」と答えたという。

美容室のトリートメントが傷んだ髪を元通りにするのではなく、これ以上傷まないように手入れするのと同じことだ。傷ついた心に寄り添い、めげないよう支え続ける。

それが著者の臨床の軸になった。

このトリートメントを支えるのが、二つの「薬」である。ひとつは「日薬」。どんな苦悩も、時間をかけて関わるうちに少しずつ何とかなっていく。自然治癒力を信じ、回復を待つ時間そのものが薬になるという発想だ。

もうひとつは「目薬」で、これは点眼薬のことではない。「あなたの苦しむ姿を、私はこの目でちゃんと見ている」という眼差しを指す。人は誰にも見られていない苦しみには耐えられないが、わかって見守る眼が一つあるだけで、不思議と持ちこたえられる。

小児科医ウィニコットのいう「ホールディング(抱えること)」も、答えを急がず苦悩を共に抱え続ける、同じ姿勢を言い当てた言葉だ。

ここに、脳のもう一つの顔が関わってくる。「分かりたがる脳」と裏表の関係にある「希望する脳」だ。人が死を免れないと知りながら絶望せずにいられるのは、脳が明るい未来を描くバイアスを備えているからだと本書は言う。

その治癒力の典型がプラセボ効果である。成分のない偽薬でも「効く」と信じて飲めば、前頭前野が働いてエンドルフィンが分泌され、現に痛みが和らぐ。

膝の関節症では、軟骨を削る本物の手術と、皮膚を小さく切っただけの偽の手術とで、改善率がどちらも50%で一致したという実験まで紹介される。治療という「儀式」そのものが期待を生み、体の治癒力を引き出す。

答えを急がず、逃げずに夜明けを待つ。その時間を確保することが、希望する脳を働かせる土台になるわけだ。

名作も、遅咲きの職人も、宙吊りに耐えた先に残る

耐える力は、創造と教育の現場でも決定的な意味を持つ。

すぐれた表現は、対立する感情や思想を安易に和解させず、宙吊りのまま耐え抜いた先にしか生まれない、と本書は説く。象徴的なのが作家・池波正太郎さんの逸話だ。

連載小説で、主人公が夜道で背後から斬られる場面を書いて回を閉じたとき、編集者が「斬ったのは誰か」と尋ねた。池波さんは、自分にもまだわからない、来週になれば大方の見当がつくだろう、と答えたという。

小説を書くとは、暗闇を懐中電灯で照らしながら一歩ずつ進むようなものだ。結末まで段取りの決まった物語は、リアリティを欠いて退屈になる。先の見えなさに耐え、登場人物が自ら道を見つけるのを待つ力が、創造を根底で支えている。

キーツが敬愛したシェイクスピア、原稿用紙2500枚におよぶ『源氏物語』を書いた紫式部、その紫式部を50年かけて師と仰いだフランスの作家ユルスナール。

耐える力の系譜は、国境も時代も越えて伸びていく。

教育の章は、多くの読者の胸を刺すはずだ。現代の学校は、決められた目標に速く正解を出す力の育成に全力を注ぐ。だがこの「早く早く」が問題を過度にやさしくならし、学習速度の個人差を無視して落ちこぼれを生む。

答えの出ない問いにじっくり付き合う力は、そこでは育ちようがない。著者はさらに不登校を、まったく別の角度から捉え直す。それは落伍ではなく、理不尽な環境から自分を守るために本人が選び取った「避難所」なのだ、と。

だとすれば大人がすべきは、登校を急かして追い立てることではなく、子どもが自分で折り合いをつける時が来るまで、不安に駆られず見守ることになる。

もう一つ、あるフランス料理店のシェフの話が効いている。料理学校で覚えは早かったかと問われたシェフは、覚えの早い優秀な者はさっさと別の世界へ去り、いま店を構えて残っているのは覚えの悪かった者ばかりだ、と答えたという。

歩みの遅い「鈍才」こそ理不尽な修行にじっと耐え、最後に道を極める。速さが取りこぼすものを、遅さが黙って拾っていくのだ

研究に要るのも「運・鈍・根」だと著者は言う。効率一辺倒の物差しでは決して測れない価値が、ここにはある。

「ええいままよ」の一言が、社会を不寛容へ突き落とす

本書の射程は個人にとどまらず、社会と歴史にまで及んでいく。

16世紀の宗教戦争のただなか、エラスムスやモンテーニュといった人文主義者は、どちらの原理主義にも与せず、互いの立場を尊重する寛容を静かに説き続けた。

この「どっちつかず」のグレーゾーンに踏みとどまる態度こそ、ネガティブ・ケイパビリティに支えられている。逆の例が、破滅へ向かった日本の戦争だ。

国際連盟脱退を主導した松岡洋右のように、難局に耐えきれず「ええいままよ」と白黒をつけて強硬策へ飛び込む。その耐える力の欠如が、破局への扉を開いたと著者は鋭く指摘する。

現代でも、二者択一で熱狂を煽る強気の言説はわかりやすい。だがその本質は不寛容であり、戦争や虐殺へと転げ落ちる危うさをはらんでいる。対照的に置かれるのが、ギリシャ財政危機や難民の受け入れで即断も排除も避け、理性を信じて反対派を粘り強く説得し続けたドイツのメルケル元首相だ。

その姿に著者は、人道主義と耐える力の分かちがたい結びつきを見ている。安易な結論へ走らず、不確実さのなかで異なる意見を抱え続ける力は、社会を不寛容の罠から守る知的な土台にもなるのである。

読み終えて残るのは、「決められない自分」への見方の反転だ。白黒つかずにモヤモヤしているとき、私たちはそれを弱さと決めつけてしまう。だが本書に従えば、その宙ぶらりんに耐えていること自体が、すでに一つの立派な力なのだ。

著者はセネガルの言い伝え「人の病の最良の薬は、人である」を引く。最新の技術よりも、自分をわかって見守ってくれる誰かの存在がいちばん効く、という含意である。

答えの出ない問いを一つ、今夜は急いで片づけず、抱えたまま眠ってみる。その一晩が、底の浅い答えよりもずっと豊かな何かを、あなたの内側で育て始めるかもしれない。


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