「文章は話すように書けばいい」——書くことに詰まったとき、たいてい誰かが差し出してくるこの助言を、本多勝一の『日本語の作文技術』は冒頭できっぱり退ける。
話すときと書くときでは、そもそも使っている頭の部位が別だと考えたほうがいい。だから文章には「技術」が要る。読点をどこで打つか、修飾語をどんな順で並べるか、「は」と「が」をどう分けるか。
多くの人が感覚まかせに処理してきたこれらの問いに、著者は一つずつ客観的な原則を与えていく。ジャーナリストとして無数の悪文と向き合ってきた人の、徹底して実戦的な一冊である。
初版は半世紀近く前だが、扱うのは流行の書き方ではなく日本語という言語の構造そのものなので、驚くほど古びていない。むしろ文章術が「わかりやすく」「短く」といったスローガンに流れがちな今こそ、原則から積み上げる本書の手つきは効いてくる。
「わかりやすさ」は才能ではなく技術である
本書の背骨を一文に圧縮するなら、わかりやすい文章は生まれつきのセンスではなく手順で書ける、という確信になる。著者は「事実的・実用的な文章の目的は、読者にとってわかりやすいこと、これだけだ」と言い切る。
書き手が伝えたい中身が、読んだ瞬間すっと頭に入り、曖昧さや二通りの読み方が残らない。それを実現するための具体的な作法が、本書には隅々まで詰め込まれている。
逆にいえば、名文である必要はまったくない。誤解なく届くこと、それ以外の飾りは実用文には要らないと割り切る潔さが、本書を今も読める道具にしている。
興味深いのは、著者が引く清水幾太郎の助言だ。「文章を書くというには、日本語を外国語として取扱わなければいけない」。母語だからこそ私たちは無意識に言葉を流してしまう。
その慣れをいったん手放し、日本語を他人事のように突き放して眺めよ、というわけである。個人的にはこの一点が本書で最も実用的だと思う。上達の第一歩は新しい知識の習得ではなく、自分の書いた文を「よその言語」として疑ってかかる姿勢の獲得にあるからだ。
日本語に「主語」はなく、文の核は述語にある
技術論に入る前に、著者独特の言語観を押さえておきたい。本多は言語学者・三上章の説を引き、日本語に「主語」は存在せず、あるのは「主格」だけだと主張する。ここが本書の土台であり、同時に賛否の分かれる論点でもある。
英語では主語が述語を強く支配する。時制まで主語が決め、意味上は不要でも “It rains.” のように形式的な主語を立てねばならない。著者はこれを、英語という言語があげている一種の悲鳴だと見る。
対して日本語では、「大人が」「子供に」「銭を」の三つが「与えた」という述語に対して対等に並ぶ。どれか一つが偉いのではなく、文の中心はあくまで述語で、他はすべてそこに掛かる補足語にすぎない。
日本語の文章術とは、突きつめれば「何が何に掛かっているか」を読者に誤解させないための技術にほかならない。この一点を腑に落とすと、以降の細かな作法がひとつの筋でつながって見えてくる。
主語探しをやめ、述語を核に文を組み直す——その視点の転換だけでも、本書を読む価値はある。学校文法に慣れた身には抵抗のある主張だが、少なくとも実務の文章を点検する道具としては、この「述語中心」の見方はよく働く。
ねじれた一文を前にしたとき、まず述語を一つ定め、他の語がすべてそこへ掛かるかを確かめる。それだけで、どの補足語が宙に浮いているかが浮かび上がってくる。
修飾語は長い順・直結で並べれば誤解が消える
「何が何に掛かるか」を最も大きく左右するのが、修飾語の順序だ。本多は四つの原則を挙げる。第一に、節(長い修飾語)を先に、句(短い修飾語)をあとに。
第二に、長い修飾語ほど前へ、短いものほどうしろへ。第三に、大きな状況や重要な情報ほど先に置く。第四に、意味的に結びつきの強い語どうしは近くに寄せる。
最初の二つはほぼ同じ重みを持ち、四つ全体の土台には「直結の原則」——掛かる言葉と受ける言葉をできるだけ近づけよ——が横たわる。
著者が引く新聞記事の一節がわかりやすい。「32人が飛び散ったガラスの破片などでけがをした」。原文のままだと、飛び散ったのが32人なのか破片なのか、一瞬つまずく。
これを「飛び散ったガラスの破片などで、32人がけがをした」と並べ替えるだけで、迷う余地は消える。修飾語と受ける言葉が離れすぎていること、それこそが読みにくさの最大の原因なのだ。語順という、学校ではほとんど教わらない要素に文章の生死が懸かっている、という指摘は今読んでも新鮮である。
単語を難しくするのでも文を短くするのでもなく、置く順番を変えるだけで通じ方が変わる。この安上がりさが、修飾の原則を実務で真っ先に使いたい理由だ。
ちなみに残る二つの原則、大きな情報を先に置くことと、なじみの深い語どうしを近づけることは、最初の二つほど機械的ではない。書き手の判断が入る余地があり、だからこそ最初に長短で骨組みを決め、そのうえで意味の重みで微調整する、という順で使うと迷いにくい。
読点は二大原則で八割が自動的に決まる
本書がもっとも多くの紙幅を割くのが読点、著者のいう「テン」の打ち方だ。息継ぎの位置で打つという通説を、本多は二つの原則へ整理し直す。第一原則は、長い修飾語が二つ以上並ぶとき、その境界に打つこと。
重文の切れ目も同じ扱いで、長い修飾語がn個あれば読点はn−1個という具合に一般化できる。第二原則は、本来の語順が逆転した倒置の箇所に打つこと。
短い修飾語はそもそも逆順になりにくいので、読点は要らない。
この二つを当てはめるだけで、語順にまつわる読みにくさの約八割は解消すると著者は言う。当時の教科書が示した十三カ条の句読法案を一つずつ検証し、その大半はこの二大原則で説明がつくか、そもそも不要だと切り捨てていく手つきは痛快だ。
ではルールに合わない読点は禁じ手なのかというと、そうではない。強調や間合いのために書き手の判断で打つ「思想のテン」は許される。「父は死んだ。」
と「父は、死んだ。」は論理上は同義でも、後者には確かに別の呼吸がある。ただし乱発すれば一つひとつの読点の意味が薄れ、かえって論理が濁る、という但し書きも忘れない。
原則で八割を機械的に片づけ、残り二割にだけ書き手の意図を込める——この配分の設計こそ、感覚論に終わらない本書の強みだと思う。実際、自分の文章を見直すときは、まず二大原則に当てはまらない読点をいったん全部消してみるといい。
それでも読みにくい箇所にだけ、意味を込めて打ち直す。この引き算の手順を踏むと、なんとなく置いていた読点がいかに多かったかに気づかされる。
助詞一字とリズムが文章の論理を静かに左右する
助詞は日本語でもっとも重要な品詞であり、一字の扱いを誤ると論理そのものがずれる。本多はそう位置づける。たとえば「は」。「蛙の腹にはヘソがない」は蛙の腹を主題にした素直な報告だが、「蛙は腹にはヘソがない」に変えると、「腹にはないが他のどこかにはある」という対照のニュアンスが紛れ込む。
位置ひとつで意味が動くのだ。「まで」と「までに」も同じで、締め切りを伝えたい掲示が「12月24日までご投函下さい」となれば、継続の意味に化けてしまう。
便利さゆえに多用される接続助詞の「が」も、逆接以外で無色に文をつなぐと関係が曖昧になる。必要かを吟味し、不要なら句点で切れというのが著者の提案だ。
そして文章の最終的な質を決めるのは「リズム(内旋律)」だと本多は言う。助詞を一つ足し引きするだけで、論理的な意味は変わらなくても調子が狂う。
声に出して読めばその差はすぐわかる。細部の作法も同じ発想でつながっている。漢字と仮名は英語の単語間スペース、いわば「わかち書き」の役割を果たし、語のまとまりを目に見える形にする。
段落は思想のまとまりを示す関節であり、関節でない場所で無理に折れば骨が折れる。さらに、実感のこもらない紋切型や独りよがりな表現を戒める文章論の白眉が、「自分が笑っていてはいけない」という一句だ。
書き手が感情を前面に出すのではなく、素材を客観的に描いて読者の側に感情を起こさせよ、という抑制の美学である。技術の話が最後は品位の話へ着地するあたりに、著者の一貫した姿勢がにじむ。
「家畜語」批判——日本語は非論理的ではない
本書は後半、技術論を超えて言語文化への批評へと広がる。象徴が「家畜語」という造語だ。対応する日本語がちゃんとあるのに安易に借りてくる外来語を指し、「トラブル」は「いざこざ」や「故障」で足りるし、「ミーティング」も本当に要るのかと問う。
著者はこうした言い換え可能な外来語の濫用を、日本語の「植民地化」と厳しく呼ぶ。同じ視点から、方言を下等、標準語を高級とみなす価値観も、言葉による差別を生むものとして退けられる。
日本語を「非論理的」「特殊」と評する一部の知識人を、本多は借り物の尺度で母語を裁く「植民地型」だと切り捨てる。この論調はやや過激に響くし、外来語をすべて悪者にする必要はないと私は思うが、書く前に一拍おいて母語を探す習慣そのものは、今でも十分に有効だ。
この批評の底にあるのは、日本語は非論理的でも特殊でもない、という一貫した擁護である。あらゆる言語は自分を組織する法則を内側に備えている。非論理的なのは言語ではなく、それをうまく扱えない使い手のほうだ——この確信こそが、細かな技術論のすべてを貫く一本の芯になっている。
技術と文化論が地続きで語られる構成には賛否あろうが、根っこにこの一貫した言語観があるからこそ、個々の作法が単なる小手先の作法に見えないのだと思う。
AIが文章を大量に生成する時代にあって、「何が何に掛かるか」を自分の手で組み立て直せる力は、むしろ価値を増している。まずは今日書いた一通のメールを、述語から読み直すところから始めたい。
それだけで、読点を打つ手が少し変わるはずだ。
