絶対音感は、生まれつき配られる才能だと長く信じられてきました。1万人に1人という、選ばれた人だけが持つ資質だとされてきたのです。
心理学者の榊原彩子氏は、この通説に実験で挑みました。2歳から6歳の幼児24人に和音の聞き分け訓練を課したところ、最後までやり遂げた22人全員が絶対音感を身につけたのです。途中で脱落した2人も、訓練の出来とは無関係の理由でやめています。
こうした事例を積み重ねて、才能という言葉の意味を書き換えていく。それが『超一流になるのは才能か努力か?』という本です。書いたのは、心理学者のアンダース・エリクソン氏です。
「限界的練習」という言葉を1990年代に定義し、以来30年にわたってこの研究領域を主導してきました。共著者はロバート・プール氏です。
読み進めるうちに、才能とは生まれつき配られた容量だという前提のほうが揺らいでいきます。

こんな人におすすめ
- 練習量を減らしていないのに、数年前から成果が頭打ちになっている人
- 部下の研修を企画していて、座学だけでは現場が変わらないと感じている人
- 「センスがない」と自分で判断して途中でやめた分野がある人
精神論で背中を押してほしい人には向きません。この本が渡してくるのは、訓練の設計図です。
なぜ「なんとなくの反復」は実力を止めるのか
本書はまず、練習を3段階に分けます。目標も工夫もなくただ繰り返す愚直な練習。具体的な目標、全神経を注ぐ集中、即時のフィードバック、コンフォートゾーンからの逸脱という4条件を満たす目的のある練習。
そして訓練法と指導者がすでに確立した分野で、その4条件を満たしながら行う限界的練習です。3つは階層になっていて、下にいくほど条件が厳しくなります。
この分類は、経験年数が実力を保証しない理由も説明します。人はある作業が「そこそこできる」段階に達すると、身体と脳の動きが自動化されます。自動化された動きに脳は負荷を感じなくなるため、そこで伸びが止まる。
厄介なのはその後です。意識的な改善をやめると、自動化された技能はゆっくり劣化していきます。同じ場所にとどまっているつもりが、実際には後退している。
ベテランが若手に追い抜かれる現象の正体は、ここにあります。
超一流の脳に起きている変化
脳の変化を裏づける研究もあります。ロンドンのタクシー運転手志望者は、市内の通りとルートを丸ごと暗記する試験に合格するため、3〜4年をかけて訓練します。
神経科学者エレナー・マグワイア氏の調査では、合格者だけ空間記憶を司る海馬の一部が物理的に大きくなっていました。不合格者と訓練を受けなかった対照群には変化がなく、努力の量ではなく到達水準が脳を変えていたことになります。
努力の量が同じでも、脳内に作る構造の違いが到達点を分けることを示す実験もあります。カーネギーメロン大学の学生スティーブ・ファルーンは、7〜8桁だった数字の暗記力を独自の記憶術で鍛え、2年間で200回を超えるセッションを重ねて82桁まで伸ばしました。
同じ実験に参加した別の学生は、一貫性のない暗記法を使ったために20桁手前で完全に停滞しています。一方、ファルーン氏の手法をそのまま教わった知人は、数年の訓練で100桁を超えました。
同じ努力量でも、使う方法によって行き先がまるで変わるのです。
脳内に何ができるのかを、本書は「心的イメージ」と呼びます。チェスのグランドマスターは実戦の盤面を数秒見ただけで駒をすべて再現できますが、駒をでたらめに配置すると優位性は消え、アマチュアと変わらなくなります。
個々の駒ではなく、意味のあるパターンの塊として盤面を記憶しているからです。この心的イメージは瞬時の判断だけでなく、自分の実演が理想からどうずれているかを検知する基準にもなります。
良い手本を脳に持つことは、自分専用のフィードバック装置を持つことに近い。
「1万時間の法則」に欠けていた視点
マルコム・グラッドウェル氏が広めた1万時間の法則を、当のエリクソン氏は否定します。数字そのものに魔力はない、というのがその理由です。
誤りは2つあります。ひとつは水準の取り違えです。ベルリン芸術大学の調査では、世界的ソリスト候補の累積練習時間が18歳時点で平均7,400時間に達していましたが、国際コンクールで勝つにはさらに2万時間規模が必要だとされています。
逆に、数字記憶のように数百時間で世界一に届く分野もある。もうひとつは質の無視です。時間を費やしただけの練習と、負荷とフィードバックを設計した練習は別物であり、両者を数字上で同じに扱った点が誤りだったと本書は指摘します。
量が不要という話ではありません。量は必要条件であって十分条件ではない、という順番を取り違えると、時間だけが溶けていきます。
教え方の設計にも同じ理屈が当てはまります。物理学のノーベル賞受賞者カール・ワイマン氏が、大学の講義を一方通行の説明から少人数の議論とその場のフィードバックへ組み替えたところ、学生の正答率は24%から66%まで伸びました。教える側の設計そのものが、練習の質を左右するわけです。
経験年数と実力の関係も、疑ってかかるべきだと本書は言います。医師の診療経験と治療の質を調べた臨床研究62本のうち、経験を積むほど質が上がっていたのはわずか2本でした。
残りの大半は、勤続年数とともに技術が劣化するか横ばいだったのです。ワイン品評会の目隠しテイスティングで同じ審査員に同じワインを繰り返し評価させた実験でも、点数は91点から83点まで揺れています。
年数は、実力の証明にはなりません。
指導者がいないときの3つのF
指導者を雇えない場合の手本として、本書はベンジャミン・フランクリン氏の若き日の文章修行を挙げます。彼は愛読誌の記事を要点メモだけ残して数日後に自力で書き直し、原文と突き合わせて弱い語彙や構成を洗い出すという訓練を自分に課しました。
ここから抽出されるのが、集中、フィードバック、修正という3つのFです。
職場でも応用できます。プレゼン担当者が「今日は資料を見ずに話す」のように的を絞った目標をひとつ掲げて臨み、聞き手はその場で具体的な感想を返す。これを会議のルールにするだけで、特別な研修時間を新たに確保しなくても訓練の場に変わります。
本番の環境そのものが失敗のコストが高すぎて、練習に向かないケースもあります。米海軍の戦闘機操縦士を育てる訓練プログラムや、医療現場で使われるデジタル症例集は、実戦から切り離した場を用意し、そこで繰り返し失敗させてからすぐに厳しく振り返らせる作りになっています。
いきなり本番で鍛えようとするより、先にこうした模擬の場を作るほうが近道です。
停滞への対処も具体的です。本書はこう言い切ります。
壁を乗り越える方法は、もっと頑張ることではなく、別の方法を試すことだ。
ジャーナリストのジョシュア・フォア氏も、この壁にぶつかった一人です。記憶力選手権を取材するうちに自分でも出場を志し、カードを記憶するスピードが伸び悩んでいました。
エリクソン氏の助言で、メトロノームを使って強制的にペースを上げ、あえてミスを誘発してほころびの箇所を特定するという設計変更を試したところ、翌年の全米選手権で優勝しています。
越えられない限界に本当に突き当たる例は稀で、多くの場合は挑戦者が諦めているだけだと、エリクソン氏は書いています。
続けるための工夫も、精神論に頼りません。練習時間を毎日固定してスマートフォンを別室に置く、達成可能な小さな目標を刻んで達成感を切らさない、同じ目標を持つ仲間の輪に属する。
限界的練習を楽しいと言う超一流は1人もいない、と本書は書いています。だからこそ、意志ではなく仕組みで続ける工夫が要るわけです。
才能という物差しを疑う
天才の扱いにも容赦がありません。モーツァルトは4歳から、当代随一の音楽教育者だった父の下で厳格な訓練を受けており、幼少期の「作曲」とされる楽譜の多くは他人の作品の焼き直しでした。
IQも決定打にはなりません。チェスクラブの生徒57人を追った調査では、初期のIQが低かった子のほうが練習量を増やし、最終的な実力で上回っていました。
物理学者リチャード・ファインマン氏のIQは126で、メンサの入会基準とされる132にすら届いていません。
年齢や出発点も、思われているほど絶対的な壁ではありません。30歳までゴルフ経験がなかったダン・マクローリン氏は、パッティングなど基礎動作の反復から始め、6,000時間の練習でハンディキャップ3〜4という上位数%の水準に届きました。
ただし例外もあります。バレエの股関節の可動域のように、骨格が固まる前の10代前半までに始めないと届かない技術は、確かに存在します。
こうした才能の思い込みが持つ副作用にも、本書は注意を促します。「才能がない」と周囲が早々に判断すると、教育の機会そのものが失われ、本当に伸びない人が結果として作られてしまう。
NBAのレイ・アレン氏が、自分のシュートを天賦の才と呼ばれるたびに苛立っていたという逸話は、この副作用の裏返しです。
ただし、本書の射程には限界もあります。限界的練習の枠組みは、クラシック音楽やチェス、スポーツのように評価基準と訓練体系が確立した分野を前提にしており、マネジメントのように評価が曖昧な領域には、そのまま持ち込めません。練習メニューを自分で設計する余地が、なお大きく残ります。
エリクソン氏が本書の終盤で残した一文を引いておきます。
学習は自分の潜在能力を引き出す手段ではなく、むしろ新たに創りだす手段なのだ。
生まれつき配られた器をどこまで満たせるかではなく、器そのものを作れるという主張です。同じ練習を同じやり方で続けているだけなら、その限界は本当の限界ではないかもしれません。
