試食会で「このジャムは酸味の効かせ方が絶妙だ」と力説する参加者がいました。渡された小皿の中身は、実は本人が最初に選んだものとは別の瓶にすり替えられていたにもかかわらず、です。
ルンド大学の心理学者ペター・ヨハンソンらが仕掛けたこの実験では、参加者の大半がすり替えに気づかないまま、選んでもいない商品を選んだ理由をその場ででっち上げました。この現象は選択盲(チョイス・ブラインドネス)と呼ばれます。
鈴木祐さんの『ヒトが持つ8つの本能に刺さる 進化論マーケティング』は、この実験から出発します。顧客に「なぜ買ったか」を聞いても、返ってくるのは本当の理由ではなく、その場で組み立てられた後付けの説明にすぎない。
ではリサーチをやめて、何を頼りに商品をつくればいいのか。本書が差し出す答えが「8つの基礎本能」です。

こんな人におすすめ
顧客インタビューを何十本重ねても、出てくる結論がいつも似たり寄ったりで手応えがない。そんな停滞を感じている人に、まず薦めたい一冊です。
- アンケートを分析しても、当たり障りのない属性論(「中年男性は◯◯に悩んでいる」)しか導けない人
- 自社の商品が地味で、心理学の知見なんて関係ないと思い込んでいる人
- 消費者の心理につけ込む手法にうっすら抵抗を感じながらも、代わりの拠り所を持たない人
本書に出てくる成功例の多くは、海苔用のハサミや作業服といった、およそ華のない商材から始まっているのも心強いところです。
顧客が言葉にできるのは、欲望のごく一部でしかない
ハーバード大学のジェラルド・ザルトマンの研究によれば、購買の意思決定の大半は意識の外側で下されており、顧客が言語化できる部分はごくわずかしか残っていません。
先のジャムの実験も、同じ構造を裏づけます。人は自分がなぜその選択をしたのかを正確には把握しておらず、聞かれれば理由を即興で組み立てる。アンケートの自由記述欄に並ぶのは、多くの場合その場しのぎの説明だという指摘は、いちマーケターとして耳が痛いところです。
スティーブ・ジョブズも似た趣旨のことを語っています。人に望むものを尋ねてそのまま形にする設計は、実際にはとても難しい。なぜなら本人自身、自分が何を欲しているかを言語化できていないことが多いからだ、と。
だからといって本書は、顧客調査そのものを否定しているわけではありません。仮説を持たずに調査すること、つまり「とりあえず聞いてみる」姿勢を戒めているだけです。この線引きは細かいようで、リサーチの設計そのものを変える指摘だと思います。
顧客の生活に潜り込む、現場の3つのワーク
言葉を鵜呑みにしない代わりに、本書が薦めるのは顧客の生活そのものへ潜り込む調べ方です。もっとも手軽なのが共感マップで、狙いたい人物を1人だけ決め、その人の24時間を「見ているもの」「口にしている言葉」「耳に入る言葉」「頭の中の思考と感情」の4象限に書き出します。
とくにイライラとワクワクの瞬間を拾うと、その裏で動いている本能を推測しやすくなるそうです。
もう一段深いのが没入ジャーナルで、顧客と同じ生活を自ら疑似体験しながら感情の動きを記録する手法です。インダストリアルデザイナーのパトリシア・ムーアは、プロのメイクと装具で高齢者の外見をつくり、数年間その生活を体験しました。
そこから、いま日常的に使われているパッケージデザインや医療機器が生まれています。レゴ社も、経営危機の際に調査チームを一般家庭へ送り込み、親子と数カ月を過ごしました。
見えてきたのは、子どもは簡単に完成することよりも、組み立ての腕前が少しずつ伸びていく実感を求めているという発見でした。本書はこれを進める本能の表れとして説明しています。
設計を切り替えたレゴは、その後10年以上にわたる成長を取り戻しています。
ただし、この種の共感リサーチには落とし穴もあります。M&C Saatchiの分析では、企業が掲げる約束と実際の顧客体験とのズレによる損失が、1ブランドあたり年間で相当な規模にのぼると試算され、別の調査会社が行った共感力テストでは、広告業界で働く人の平均点が一般の消費者より低く出たと報告されています。
データを扱うプロほど、顧客の実感から遠ざかりやすい。この皮肉は覚えておいて損はありません。
サバンナが書き込んだ8つの本能というOS
本書の骨格は、約600万年の進化史のなかで人類の脳に刻まれてきた本能を、購買行動の源として扱う視点です。欲望の起点は生存と生殖の2つに集約され、そこから8つの基礎本能——安らぐ、進める、決する、有する、属する、高める、伝える、物語る——が枝分かれします。
いくつか印象に残った例を挙げます。ハーバード・ビジネススクールのテレーサ・アマビールらが数万時間分の業務記録を分析した調査では、人のやる気を最も強く支えていたのは昇給でも昇進でもなく、「わずかでも前進している」という感覚でした(進める本能)。
決する本能の例も鮮やかです。潤沢な資金とプロの執筆陣を投じたマイクロソフトのオンライン百科事典は、匿名の有志が自由に書き込むWikipediaに市場を奪われ、設立からほどなく姿を消しました。
専門家より素人が勝った理由を、著者は「自分で決めたい」という本能への訴求力の差に求めます。
伝える本能では、自分について語っているとき、脳内では食事やセックスと同種の快楽領域が反応するという神経科学の知見が紹介されます。日常会話やSNSの投稿の大部分が自分語りで占められているという指摘は、そのまま裏づけになっています。
ここで一点、留保をつけたいのが本能どうしの絡み合いです。高級車を選ぶ人のなかでは、モテたい欲求と地位を誇示したい欲求と安全性への安心感が同時に働いている、というのが本書の立場です。きれいに1つの本能へ切り分けられる購買行動のほうが、むしろ少数派なのだと理解しておく必要があります。
なお、企業が長らく頼ってきたマズローの欲求段階説について、本書は明確な科学的根拠に乏しい仮説だと切り捨てます。世界規模の調査でも、欲求に上下の階層はなく、それぞれが独立して作用するという結果が出ているそうです。
定番フレームワークへの評価としては手厳しいものの、拠り所にしてきた実務家は少なくないはずで、ここは賛否が分かれそうです。
「穴を売れ」を、さらに一段掘り下げる
マーケティングの定番に「ドリルではなく穴を売れ」という格言があります。本書はこの格言を否定せず、その先へ進めと言います。
なぜその穴が欲しいのか、まで遡るのです。棚をつくって部屋を整えたいなら安らぐ本能が、家族写真を飾りたいなら有する本能や物語る本能が働いています。同じ「穴」でも、奥にある本能が違えば、届けるべきメッセージは変わってくるという理屈です。
この奥の本能を1つ足すためのツールが、7つの問いから成るフレームワークです。視点をずらせないか、作り方や届け方を変えられないか、使う時間や場所をずらせないか、他の何かと結びつけられないか、といった具合に、後半へ進むほど発想の制約が外れていく設計になっています。
わかりやすい例が、売れ行きに苦しんでいた海苔用のハサミです。「海苔を切る道具」という用途を手放し、「平べったいものを細かく刻む機能」まで抽象化した結果、個人情報を処分するシュレッダーハサミとして再生し、売上を伸ばしました。
溶接作業服の耐火素材をキャンプ用アパレルに転用したワークマンも、同じ発想の応用と言えます。
結びつけるという発想も効果的です。普通のメガネにブルーライトカット機能を足したJINS PCは新しいアイウェア市場をつくり、社員食堂のレシピを本にしたタニタは半年で30万部を超える異例のヒットになりました。
Adobeが実施した、加工画像か本物かを当てさせるクイズ企画も一例で、短期間でユーザーの一定割合がチュートリアルを見て購入ボタンを押す結果を残しています。
ここで本書は釘を刺します。強い感情さえ動かせば拡散する、という思い込みは危険だという指摘です。ペンシルバニア大学のジョナ・バーガーらがニューヨーク・タイムズの記事群を分析した研究では、感情の要因だけで説明できる拡散率はごく一部にとどまり、残りの大半は実用性や表示位置、書き手への信頼度など別の要因が占めていました。
派手な感情訴求に頼るのではなく、複数の仕掛けを重ねる設計が要る、という話です。
効果を裏づける数字も並んでいます。ベイン・アンド・カンパニーの調査では、4つ以上の欲求を満たしていると評価された企業は、そうでない企業より売上の伸び率が大きく上回っていました。
1つの強みしか持たない商品は、より強い競合が現れた瞬間に足元をすくわれる、という警句は覚えておいて損はありません。
操ろうとした瞬間、いちばん強い本能を敵に回す
本書の終盤は、倫理ではなく仕組みの話として展開されます。1920年代、広報の父と呼ばれるエドワード・バーネイズは、情報の非対称性を武器に世論を動かしました。当時は成立した手法です。
同じやり方は、いまは通用しません。顧客を強引に動かそうとする働きかけは、自分のことは自分で決めたいという本能そのものを刺激し、反発を招きます。しかも、企業の姿勢が誠実かどうかを消費者が瞬時に見抜く環境が整っているからです。
本書はこう言い切ります。
「企業が消費者をコントロールできたのは、情報の少なさを武器にできた大昔の話。すべてがつながる世界では、『誠実さ』こそが最大の武器になるのです。」
複数の国際調査の数字もこれを裏づけていて、消費者がブランド選びで最も重視する要素として「誠実さ」を挙げる割合は、有益性やブランドの人気を大きく上回っています。
一方で、この本には正直に付き合うべき負荷もあります。用意されているワークシートは5枚あり、1枚あたり1〜3カ月の検証を要すると本書自身が書いています。
週末に読んで月曜から使える軽さの本ではなく、根気のいる実装が前提です。加えて、根底の本能ばかりに寄りすぎると、目の前の使いやすさやデザインという現実的な理由を見失う危険もあります。
両方を往復する姿勢が要る、という但し書きは実務上重要です。
顧客の発言録を、そのまま企画書に貼らない。その言葉の裏でどの本能が動いていたのかを1行書き足してから、次の判断に進む。それだけで、集めるデータの種類も、読み方も変わってきます。
まず動かせるのは、今日のインタビューメモの読み方です。次の1件からでも、試す価値があります。
