「もっとがんばらなければ」「努力が足りないから結果が出ないのだ」。そう自分を追い込む発想を、認知科学者の苫米地英人は根っこから疑う。足りないのは努力の量ではなく、向かっている方向のほうだ、と。
必死にがんばっているという感覚こそ、コンフォートゾーン(脳が居心地よく感じる範囲)が現状に貼りついている証拠だと著者は言う。
方向が現状維持に固定されているから、いくら力を注いでも同じ場所を回り続ける。
本書が繰り返す一文は「心が変われば環境は勝手に変わっていく」。行動を変えて心を追いつかせるのではなく、心(自己イメージ)を先に書き換えれば、行動はあとから自動的についてくる。多くの自己啓発がこの順番を取り違えているから、努力が空回りする。それが本書の出発点だ。
そもそも著者は、コーチングを「部下を動かす管理術」から切り離す。効率化や人事評価の道具として語られがちだが、本来は人生を豊かにし、本人の自己実現を後押しするシステムだという。
クライアントが自分では気づけない盲点を外し、自分で決めたゴールへ向かわせる。だから、すべての変化は外側の行動や環境ではなく、内側の心から始まる。
以下の五本の柱は、この一点を別の角度から具体化したものと読める。
土台にあるのは、アメリカのコーチングの権威ルー・タイスが築いたプログラムである。タイスの教育機関TPIのメソッドはフォーチュン500企業の六割以上に採用され、世界で年間二百万人以上が学んできた。
著者はそこに最新の脳機能科学を接ぎ木し、次世代版として「苫米地式コーチング」を共同開発した。骨格は、現状の外へのゴール設定、コンフォートゾーンの移動、アファメーション、抽象度の高い思考、そして「教えない」コーチングという五本の柱だ。
順に見ていく。

既存の選択肢から「選んだ」ゴールでは、潜在能力は開かない
最初の柱はゴール設定で、ここで本書は「目標は現実的に立てるべき」という常識を壊す。社会が用意した職業一覧や会社の役職の中からゴールを選んでいる限り、その人の潜在能力は開かない、と著者は断じる。既存のゴールは所詮、他人がつくった枠だからだ。
引き合いに出されるのがGoogleである。創業者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンが当時のトップ企業を目標にしていたら、誰も儲かると思っていなかった検索エンジンのビジネスは生まれなかった。
一九九八年の創業からわずか十年で従業員一万三千人超、売上百六億ドルへ育ったのは、「今ここにないもの」をゼロから描いたからだ、と本書は読む。
ここで鍵になるのが「スコトーマ(盲点)」だ。知識や思い込み、コンフォートゾーンのせいで、目の前にあるのに見えなくなっている情報を指す。厄介なのは、人は学べば学ぶほど盲点が増えるという逆説である。
過去の成功体験が豊富な人ほど、そのやり方の外側が見えなくなる。著者がタイガー・ウッズを「父親によってすべての可能性を奪われた、かわいそうな人間かもしれない」と評するのも同じ論理だ。
世界一のゴルファーになった裏で、他の道はすべて閉ざされた。他者が設定したゴールの怖さである。
では処方箋は何か。「達成方法が今の自分には見当もつかないほど大きなゴール」を、必ず期限つきで掲げること。やり方がわからないゴールだからこそ、脳は盲点を外し、これまで見えなかった道筋を探し始める。
裏を返せば、期限のない大言壮語はただの空想に終わる。ここは読者が取り違えやすい一線だと補っておきたい。自分で成長の限界を決めた瞬間に、成長はそこで止まる。
本書の警句がもっとも鋭く響くのが、このゴール論だ。
コンフォートゾーンを未来へずらせば、無意識が勝手に動き出す
二本目の柱は、そのコンフォートゾーンの操作だ。年収五百万円の人が五百万円前後の暮らしを保ち続けるのは、そこが脳にとって居心地のいい範囲だから。頭で「変わりたい」と願っても、無意識がこの範囲へ引き戻す。
著者の提案は、この居心地のいい範囲を「現状」から「ゴールを達成した後の自分」へ意図的にずらすことだ。「年収三千万円の自分」が当たり前になれば、五百万円の現状のほうに違和感が生まれる。その違和感が行動の燃料になり、本人は努力している自覚すらないまま、必要なことを淡々とやり出す。
移動を支えるのが「臨場感」である。達成後の自分を、今まさに体験しているかのように感じ切る。象徴として引かれるのがイチローの小学六年生の作文だ。
契約金一億円以上、プロ野球選手になる、と数字まで書き込み、小学三年から一年の三百六十日を練習に充てた。それを「努力」ではなく「当たり前」としてこなせたのは、幼い頃から高いコンフォートゾーンが敷かれていたからだ、と読み解く。
なぜ人は枠を抜けにくいのか。著者は社会の側にも目を向け、哲学者フーコーの「バイオパワー」を持ち出す。社会システムが特定の価値観を無自覚に植えつけ、行動を縛る見えない力のことだ。
破綻後のリーマン・ブラザーズの元幹部を引き、休みなく競争に勝ち続ける「勝ち組」を著者は「奴隷の幸せ」と呼ぶ。社会論としてはやや思弁的だが、自分で自分を規制していることに気づけという警告としては十分に効く。
「なりたい」と言った瞬間に、ゴールは遠ざかる
三本目は、ゴールへ自分を運ぶ言語ツール「アファメーション」だ。自分への肯定的な宣言を指すが、巷のポジティブシンキングとは似て非なるものだと著者は線を引く。
たとえば「社長になりたい」は禁句である。「なりたい」という願望は、その裏で「今は社長ではない」という現状を脳に確認させてしまうからだ。
正しくは「私は社長として充実した日々を送り、清々しい」と、現実がどうあれ現在形で言い切る。組み立てのルールは、一人称で書く、否定形を避ける(「遅刻しない」ではなく「朝早く出社して快適だ」)、現在形で断言する、他人と比較しない、嬉しい・清々しいといった情動の言葉を混ぜる、という具合だ。
もう一つ、内容は誰にも言わない。否定的な言葉を投げてくる「ドリームキラー」を招かないためだ。ここは「宣言して退路を断つ」という近年の流儀と真逆で賛否が分かれるところだが、脳の自己イメージを守るという理屈では筋が通っている。
著者はこの信念の体系を「ブリーフシステム」と呼び、低い自己評価のまま努力しても実らない、まず書き換えるべきは自己イメージのほうだ、と説く。
否定の害を示すのが北島康介のエピソードだ。アテネ五輪の五十日前に風邪で焦る北島に、平井伯昌コーチは「いつもこうなんだよな」とだけ返した。過去に逆境を越えた記憶と結び直し、マイナスをプラスの自己イメージへ反転させたのだ。
逆に「ダメだ」と叱れば、「ダメな自分」が居心地のいい範囲として脳に刻まれ、同じ失敗を繰り返す。否定こそ最悪のコーチングだ、という主張がここに立つ。
「最高の自分」は、抽象度の高い視点にしか見えない
四本目の柱は、思考の視座の高さ「抽象度」だ。抽象度を上げるとは、「チワワ→犬→哺乳類→生物」と、対象を包み込む視点へ一段二段のぼることを指す。著者は、思考の抽象度の高さがその人の能力を決めるとまで言い切る。
面白いのはIQの定義である。知識量や処理速度ではなく、「抽象度の高い空間を、身体感覚をともなって操作できる力」だとする。目の前に無いものを、あたかもそこにあるかのような臨場感で扱える脳のことだ。
試合全体を上空から俯瞰するサッカー選手のように、視座が高いほど多くの情報を捌き、臨機応変に動ける。
なぜこれが要になるのか。著者いわく、最高の自分は抽象度の高いところでしか見つからない。目の前の事象に張りついている限り、本当のゴールも自分の役割も見えてこない。
第一の柱「現状の外のゴール」と、この抽象度の話がここで一本につながる。訓練法も具体的だ。たとえばパソコン一つを歴史・メーカー・機能・素材と言葉で細かく解釈し、目を閉じてから開いた瞬間に全情報が一気に立ち上がるようイメージを反復する。
地味だが、視座を上げる筋トレのようなものだ。定義そのものは独特で検証しにくいが、視点を意識的に引き上げる実践として受け取れば十分に使える。
教えるのをやめると、相手は伸びる
最後の柱は、この理論を他者に向ける場面だ。ここでも常識がひっくり返る。過去に実績を上げた「すごい人」が優れたコーチとは限らない。むしろ成功体験が盲点を生み、自分のやり方を押しつけて相手を潰しかねない。
裏を返せば、その分野で無名でも、コーチングの理論さえ持てば本物のコーチになれる。
著者が掲げるのは「教えないコーチング」だ。手取り足取り指示すると、相手は「ああしよう、こうしなきゃ」と考えすぎて力み、自然な動きを失う。あるプロ野球のコーチはフォーム指導をやめ、「ボールの縫い目を見る」「バットの位置を感じる」ことだけを意識させた。
すると選手はほぐれ、フォームがひとりでに整って打てるようになったという。教え込むほど壊れる、という逆説である。
ただし大前提がある。「ラポール」、すなわち信頼関係だ。表面的な同調ではなく、直観に訴える深い一体感を指す。上下関係がありながら強い信頼で結ばれた状態を「ハイパーラポール」と呼び、これが無ければどんな技法も効かない。
作り方はシンプルで、相手が見て感じている世界を言葉にして返すだけ。そして教える代わりに使うのが「質問」だ。外資系と日本企業の合併会議で対立が続いたとき、ある人の「合併で何を実現したいのか」という問いが、双方が抱えていた「営業現場へのサポートが疎かになる不安」という共通項をあぶり出し、対立を解いた例が引かれる。
質問が効くのは「オートクライン」、つまり自分の発した言葉が自分の耳から脳へ戻り、思考を整えて気づきを生む働きがあるからだ。答えはコーチが授けるのではなく、相手自身の口から引き出される。
放任と紙一重に見えるが、ラポールと問いという二つの支柱があってこそ成り立つ。がんばりを増やすのではなく、脳の仕組みを味方につける。本書が一貫して指し示すのは、その一点である。
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『頭のいい人が話す前に考えていること』安達裕哉|知性の見せ方 「教えないコーチング」で質問を投げかける前に、何を考えるべきか。抽象度の高い思考を実際の対話で使うための設計方法が学べます。
『超一流の会話力』西任暁子|「感じのいい人」が無意識にやっていること コーチングの大前提である「ラポール(信頼関係)」を日常の会話から構築する方法論。本書の「相手の臨場感空間を共有する」を実践レベルに落とし込めます。
