試合前、イギリスの大手ブックメーカーがはじき出したオッズは、日本が34倍、南アフリカが1倍だったといいます。
数字の意味ははっきりしています。世界中のほぼ全員が「日本は負ける」と読んでいた、ということです。ところがその一戦で、日本代表は勝ちました。2015年ラグビーワールドカップ、のちに「スポーツ史上最大の番狂わせ」と呼ばれる試合です。
このチームを率いたのがエディー・ジョーンズ氏。本書『ハードワーク 勝つためのマインド・セッティング』は、あの勝利が奇跡でも偶然でもなかったことを、順を追って言葉にしていく一冊です。
読みどころは、著者が最初に手をつけた場所にあります。戦術でも、体でも、技術でもない。彼がまず壊しにかかったのは、選手の頭に居座っていた「どうせ勝てるわけがない」という思い込みでした。
勝負は、心の中の敗北を消すところから始まる。この順番の意外さが、そのまま本書の背骨になっています。

この本が最初に壊すもの
著者の主張は、驚くほどはっきりしています。日本人が世界で勝てない最大の理由は、体格でも才能でもなく「自分たちは弱い」というマイナス思考だ、というものです。
勝てない選手の頭の中には、「体が小さいから勝てない」「農耕民族だからラグビーに向かない」といった固定観念が居座っている。能力を発揮する以前に、勝つ前から負けている。だからエディー・ジョーンズ氏は、指導の第一歩をこの思い込みの除去に置きました。
ここで面白いのは、彼が「では強豪国を真似よう」とは言わないところです。むしろ外国のやり方を模倣しても日本は強くならない、と突き放す。代わりに日本人の長所――勤勉さ、機敏さ、きめ細かな技術、連帯感――を極限まで研ぎ澄ます道を選びます。
著者はこれを「ジャパン・ウェイ」と呼びました。借り物ではなく、自分たちの条件のまま勝つための路線です。
外国人指導者が、外からの冷静な目と内側への愛情の両方で日本人を分析している。この二重の視点が、本書に独特の説得力を与えています。
目標は固定し、道は書き換え続ける
著者がまず求めるのは目標設定ですが、普通の目標ではありません。
手の届く現実的な目標では、自分の中に眠る力は出てこない。だから「そんなの無理だ」と思えるほど大きな目標を掲げろ、と言います。実際、就任時に彼が掲げたのは「世界トップ10入り、ワールドカップで勝つ」という、当時の日本にはあり得ない水準の目標でした。
対になるのがスケジュールの扱い方です。目標は絶対にぶらさず固定する。しかしそこへ至る計画のほうは、状況に応じてどんどん書き換える。1シーズンに50回近く予定表を作り直すこともある、と著者は明かします。
固定した予定を淡々とこなすやり方はマンネリを招くから有害だ、というのが理由です。
目標は北極星のように動かさず、道は天候に合わせて変える。ゴールと手段を混同しがちな私たちには、この切り分けだけでも効きます。
「100パーセント」でなければ努力ではない
タイトルにもある「ハードワーク」は、単に長時間頑張ることではありません。
著者の定義は厳しい。100パーセントの力に「今よりよくなろう」という意識が加わって、はじめて意味のある努力になる。80パーセントや50パーセントは、そもそも努力ではない、と言い切ります。
頑張っても報われない人は、この「今よりよくなろう」という向上心が抜け落ち、マイナス思考のまま量だけをこなしている、というわけです。
時間を区切るという簡単なことで、トレーニングは理に適った能率的なものになる。(本書より)
ここで著者が持ち出すのが「時間を区切る」発想です。練習は1日3回、時間で仕切って行う。だらだら続ければ緊張感が抜け、消化不良を起こすだけだから、あえて短く区切って集中させる。
日本の社会人選手が一流企業で1日3時間しか練習しない一方、高校の部活では毎日4時間やる、という指摘も出てきます。量ではなく、緊張感を伴った密度が問われているのです。
短所は嘆くものではなく「条件」である
日本人の体格の小ささは、ラグビーでは明白な不利です。南アフリカ代表の最も背の高い選手は205センチ、対する日本代表は196センチ。数字だけ見れば絶望的にも思えます。
ところが著者は、これを嘆くべき欠点とは見ません。「欠点とは、一つの条件にすぎない」と言い切るのです。体が小さいのは、裏返せば機敏に動けるということ。背の高い相手が嫌がる低い位置でのプレーを徹底すれば、それは立派な武器になります。
象徴的なのが、格闘家の髙阪剛氏をスポットコーチに招いた話です。当初はラグビーの人数さえ知らなかった髙阪氏が、大きな相手を倒す低いタックルの技術を論理的に叩き込み、それが南アフリカ戦の勝利に生きたといいます。
この発想の土台にあるのが、コントロールできることとできないことの仕分けです。身長、他人の評価、景気――自分で変えられないものは放っておく。準備の質や努力の量――自分で動かせるものだけにエネルギーを注ぐ。短所を悲観する時間を、長所を磨く時間に変える。ここに本書の核心があります。
言葉より、潜在意識に刷り込む
伝え方にも著者流があります。メッセージはひとつに絞り、徹底的にシンプルにする。そして同じことを、言い回しを変えながら繰り返す。ジャック・ウェルチ氏の「同じことを言い続ければ、部下はそれを信じるようになる」という方針や、政治スローガンの反復効果まで引きながら、反復の力を説きます。
さらに彼が使ったのは、言葉ではなく視覚でした。「ジャパン・ウェイ」を選手の潜在意識に刷り込むため、「忍者の体(機敏さとスピード)」と「侍の目(鋭い観察眼)」をあしらったシンボルマークを作り、あらゆるメモに印刷して見せ続けたのです。
口で言うより、無意識に訴えるほうが深く届く。この一手には、指導者としての執念がにじみます。
評価の場にも配慮があります。日本人は人前で褒められたり叱られたりするのを嫌うため、個人的な評価は一対一で行う。弱いマインドを変える最良の手段は、褒めることだ――そう著者は書いています。
勝負を分けるのは興奮ではなく準備
本書でいちばん強い断言が「成功は、準備がすべて」です。
ここで著者が明確に否定するのが、試合前に怒号や涙で感情を爆発させるやり方です。一時的な興奮は数分で消える。長丁場の勝負に必要なのは「冷静かつ知的な闘志」だ、と。
試合の翌日も、印象ではなくビデオとデータを冷静に見直し、そこから次の練習を組み立てます。準備の中身も独特で、本番より厳しい状況を訓練に持ち込む。
スピードを上げ、決断の時間を削り、あえて自分を追い込むことで、本番を楽に感じさせるのです。脱水時にまず血液の粘度が上がって判断力が落ちる、といった細部まで想定していたといいます。
現場の合言葉は「Having a Go!(とにかく挑戦してみよう)」。「リスクを負わなければ、進歩はない」。著者は「ミスをするな」という言葉そのものが人を縛ると考え、失敗のあとにどう動き何を学ぶかを問い続けました。
部下に決断させ、年功序列を捨てる
リーダーシップ論として読むと、本書の軸は「自律性を育てる」ことにあります。部下がミスをしたとき、すぐ答えを与えない。「今、何が起きた?」と問いかけ、自分で状況を読ませ、考えさせる。正解を先に渡せば、判断力そのものが育たなくなるからです。
評価も明快です。年齢や社歴に基づく年功序列は組織の結束と成長を妨げる。だから全員を公平に扱い、結果には年齢と無関係に報酬と称賛を与える。ヒディンク氏が韓国代表で年齢の偏りを正しベスト4に導いた例が引かれます。
そしてリーダー自身の感情。「怒る時は必ず演技で」。私情を組織の評価に持ち込まない。加えて「約束は、小さなものこそ守らなければなりません」。小さな約束を確実に守る積み重ねが、そのまま結束力に変わっていきます。
成功した直後こそ、ゼロに戻る
本書は最後に、成功の落とし穴へ踏み込みます。大きな成功の直後こそ気が緩む。スター扱いされて謙虚さを失い、努力を怠れば実力はたちまち削れていく。著者は活躍後に錯覚が芽生えた選手の例を挙げ、警鐘を鳴らします。
だからこそ「自分に満足するな。常にゼロから始めよ」。努力を怠って実力を維持できる人などいない、と。喜びはすぐに捨て、また白紙から始める。ここで本書は一周し、ふたたび「ハードワーク」へと帰ってきます。
読み終えて残るのは、あの勝利の前にあったのが奇跡ではなく、徹底した準備と、思い込みを壊す地道な作業だったという事実です。今日うまくいかないことの何割が、本当はコントロールできることなのか。まずはそこを紙の上で仕分けてみる。本書を閉じたあと、最初に試せる一手はそこにあります。
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