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『新訳 弓と禅』オイゲン・ヘリゲル|狙うのをやめた矢だけが、的に中る

学習・インプット ✍ オイゲン・ヘリゲル
約7分で読めます

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『新訳 弓と禅』
目次

弓を引くのは筋力の勝負だと思っていたら、初日でつまずきます。

オイゲン・ヘリゲルというドイツ人哲学者が阿波研造という弓道の師に弟子入りしたとき、まさにこの誤解から出発しました。強い和弓を引き絞ると数秒で腕が震え、呼吸が乱れる。ならば腕の筋肉を鍛えるしかない、と考えたのは自然な発想です。

ところが師の返答は真逆でした。腕にも肩にも、まるで力など入れていないかのように、そのままにしておきなさい、と。

この禅問答のような指導に付き合わされた記録が『新訳 弓と禅』です。ヘリゲル氏は1924年から1929年まで東北帝国大学で哲学を教えたドイツ人で、阿波師範のもとに通い続けた期間はおよそ6年に及びます。

技術書ではなく、理屈で挑んだ哲学者が身体でつまずき続けた記録として読むと、いちばん面白い一冊です。

図解

こんな人におすすめ

結果を意識した瞬間に、なぜか手元が狂う。この感覚に思い当たる人ほど、本書との相性がいいはずです。

3つ目は、そのままヘリゲル氏自身の姿でもあります。哲学者が理屈で押し切ろうとし、6年かけて負け続ける。その過程を追体験するつもりで読むと、単なる精神修養本とは違う手触りが見えてきます。

弓道の的は、いつも自分の内側にあった

本書がまず突きつけるのは、弓道という競技の定義そのものです。目指すのは矢を的の中心に当てる技術ではなく、「精神的に中てる」ことにある。射手が本当に狙い、本当に打ち破るべき相手は、的の向こうではなく自分自身のうちにいる。

かつて弓が戦場の武器だった時代、対決の相手は敵でした。武器としての役目を終えたあとも弓道が「対決」という構造を捨てなかった理由を、本書はこう説明します。

対決の相手を、外の敵から自分自身へ丸ごと差し替えたのだ、と。だから的に矢が中たったかどうかは、技術の巧拙を証明する材料ではありません。あくまで、無心がどこまで深まったかを外側から確認できる、副次的な事実にすぎないのです。

この本がほかの禅の解説書と違うのは、思想として語らない点にあります。経典の解釈に向かう本が多いなか、本書は一人の哲学者が身体で失敗し続ける様子を、痙攣や息苦しさのレベルまで実況しています。

なぜここまで身体を張ったのか。ヘリゲル氏はもともとドイツ神秘主義、なかでもマイスター・エックハルトが説いた「執着からの離脱」を学生時代から研究していました。

ただし言葉と文献だけでは、その境地に手が届かない。日本には修行を通じて体感できる道があると聞いて来日し、西洋人がいきなり座禅に入るのは難しいという理由から、予備門として選んだのが射撃経験のあった弓道でした。

この回り道の動機があるからこそ、本書は単なる武道紹介から一段離れた位置に立っています。

「あなたの一番の欠点は、意志が強すぎることだ」

阿波師範がヘリゲル氏に投げた指摘が、本書でもっとも急所を突いています。

「あなたの一番の欠点は、まさにあなたがそのように立派な『意志』を持っていることです。」

強い意志で目標を狙い、集中して当てにいく。私たちはふつう、それを上達の道だと信じています。本書はここを正面から否定します。当てにいこうとする主観的な意志そのものが肩や腕をこわばらせ、正しい射を邪魔する最大の元凶になる、と。

師はさらに、成果そのものへの関心を手放せとまで求めます。中たりを気にしている限り、精神的に射ることは決して学べない、という理屈です。目的意識が強いほど、かえって目的から遠ざかる逆説がここにあります。

営業なら「今月中に契約を」と意識した日ほど、相手の話が耳に入らなくなる感覚に近いものです。

では力を抜いてどう強弓を引くのか。鍵になるのが丹田呼吸法です。胸のあたりで息を吸う浅い呼吸をやめ、下腹の奥まで沈めてそこに張りを保つ。力の重心が下がると、腕と肩にかかっていた負担が消え、脱力したまま強い弓を引けるようになります。

ヘリゲル氏が驚いたのは、強弓を引き絞っている最中の師の腕を触らせてもらったときでした。筋肉がまるで仕事をしていないかのように柔らかかった、と記しています。

ここでやっかいなのは、脱力しようと意識した時点で、それ自体がまた別の作為になってしまうことです。だから力を抜くことそのものは目標にせず、意識のすべてを呼吸一点へ注ぎ込む。遠回りに思えて、これが唯一実際に効く方法だと本書は言います。

小手先の工夫を、師は一瞬で見抜いた

矢を放つ瞬間、「離れ」にも同じ論理が貫かれます。「今だ」と考えて指を開けば、その作為が引き金になって身体にブレが生まれる。だから自分の意志で放してはいけません。

では、いつ放つのか。師が示したのは二つの比喩でした。笹の葉に積もった雪が、重みに耐えかねて音もなく滑り落ちるように。あるいは熟した果実の皮が、自然に弾けて中身がこぼれるように。

引き絞って保持したこの状態を「会」と呼び、機が熟して射のほうから生まれてくるのを、ただ迎えるのが無心の離れです。

何か月やってもこの離れができず、ヘリゲル氏は行き詰まります。そこで夏休みに独力で編み出したのが、親指にかかった指を少しずつ緩めていき、限界に達した瞬間に弦が自然に離れるという小銃の射撃に似た手法でした。

見た目にはきれいな無心の離れです。自信を持って休み明けの稽古で披露すると、師範は一瞬で見破りました。無言で弓を取り上げ、片隅に置いて座り込み、指導を打ち切ると告げます。

目先の的中のために本質をごまかす妥協は、人格をだめにする邪道だという理由でした。

ヘリゲル氏が率直に謝罪し、教えの精神に背かないと誓ったことで破門は解かれます。ただし条件は基本段階からのやり直しでした。本物の離れが訪れたのは、そこから約1年後です。

同じことは日本人の弟子、武田行雄氏にも起きています。手先の技巧で中てたとき、師範は同じように弓を取り上げ、的中だけを狙う弓ならやらないほうがいいと叱りました。

武田氏はその後、天候にかかわらず早朝から道場に通い続けます。

短期の数字を作るために、プロセスをハックする。それを見つけたときにどう反応するか。評価する側に立つ人ほど、この二つの逸話は刺さるはずです。

破門の一件を経て、ヘリゲル氏は師に問います。自分が完全に無我になるなら、いったい誰が射るのか。返ってきたのが本書でもっとも有名な答えでした。

「『それ』が射るのです。」

意識的な自我を超えたところで働く力、という説明です。師はその根拠を、もう一つの場面で示しました。電灯をすべて消し、的の前に線香を一本だけ立てた道場で、師は二本の矢を放ちます。

一本目は的の中心に、二本目は一本目の矢筈を割って並んで突き刺さっていました。師の言葉は短く、これは私が中てたのではなく「それ」が中てたのだ、というものでした。

長年の稽古による無意識の距離感覚だ、という合理的な説明も成り立ちますが、この場面を境に、ヘリゲル氏は疑うことをやめています。

説明せず、ただ繰り返させる稽古法

本書のもう一つの読みどころは、日本の教え方そのものへの観察です。西洋の教育が言葉による論理的な説明を重んじるのに対し、日本の「道」は師の型を模倣することを第一に置きます。師匠は長い説明を避け、簡潔な指示だけを与えて、あとは反復させる。

しかもその型には、一見むだに見える準備動作が大量に含まれます。墨絵で丁寧に墨を磨る、弓道で厳格な礼法を守る。ヘリゲル氏はこの所作自体が目的だと結論づけました。

手間のかかる準備そのものが、雑念を払って今この瞬間に入り込むための儀式として機能しているというのです。弟子が先に自分の知性で行き詰まり、限界にぶつかって初めて、師の教えを身体で受け取れるようになる。

この順序は、妻グステ氏が言葉の通じないまま華道と墨絵を学び続け、帰国後に師範資格を得た経緯にも重なります。

技術が上がった先で待つのは、快さにも不快さにも引きずられない心の状態です。うまく射られても浮かれず、外れても沈まない。にもかかわらず、一本ごとにすべてを懸ける「一射絶命」という覚悟も同時に求められます。

矛盾めいて見えますが、区別は単純です。全力を注ぐ対象は行為そのもの、距離を置く対象は結果のほう。この使い分けが、本書の言う平常心の正体です。

弓を離れた後半では、剣術の逸話も引かれます。剣術を一度も習ったことのない旗本が、長年「死を恐れない」という一点とだけ向き合った末に、剣の達人と同格だと柳生但馬守に認められた話です。生と死への執着を手放す態度が、武道全体の根にあるという整理につながります。

網羅性という点では限界もあります。射法八節の基礎技法はほとんど書かれておらず、弓道の教本にはなりません。師の阿波研造が興した「大射道教」も、当時の弓道界では特異な立場にありました。

本書の価値は正確な技術解説にではなく、近代的な自我が壊れていく過程を哲学者の精度で記録した点にあります。

今日からできること

本書が示す実践は多くありませんが、明日から動かせるものはあります。

まず、緊張する場面の直前に、胸で吸う浅い呼吸をやめて息を静かに下腹へ押し下げる。少し圧力を感じるところで一瞬止め、細く長く吐き切る。数回繰り返すだけで、上半身の余計な力が抜けていきます。

次に、本番前の準備動作を省略しないこと。資料を並べる、机を片づける。この地味な手順を丁寧に踏むほど、本番に雑念を持ち込まずに済みます。

最後に、行き詰まったときほど小手先のハックに手を伸ばしがちです。そこで一度、その執着を手放す余白を日程に残しておきます。答えを急がず、機が熟すのを待つという本書の姿勢は、成果主義的な働き方への静かな反論にもなっています。

腕を震わせたドイツ人が6年かけて掴んだ入口は、この一呼吸の中にありました。


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