物価が上がるのに、なぜ給料は上がらないのか
目次
卵も電気代も上がっているのに、給料明細の数字だけが動かない。
多くの人が抱えているこの違和感には、はっきりした理由があります。
数字で見ると、ねじれはもっと鮮明です。2024年、日本の主要企業の平均賃上げ率は5.33%で、33年ぶりの高さでした(厚生労働省)。名目賃金も33年ぶりの伸びです。
それでも実質賃金は、2025年に前年比マイナス1.3%。4年連続のマイナスでした(労働政策研究・研修機構)。賃上げが、物価の上昇に追いつかなかったのです。
給料は増えた。なのに生活は楽にならない。この矛盾は、気のせいではありません。
感情論で片づけずに、構造を一緒に見ていきます。補助線にするのは3冊の経済書です。
今回のインフレは「好景気の産物」ではない
まず、今の物価高がどういう種類のものかを押さえます。
渡辺努さんの『世界インフレの謎』が突き止めたのは、2021年以降の世界的なインフレが「景気が過熱して起きたのではない」という事実です。
主因はパンデミックとウクライナ侵攻による「供給ショック」でした。人々の行動が世界同時に変わり、モノが作れない、運べない状況が生まれた。だから値段が上がった。景気が良いから上がったわけではありません。
ここが従来のインフレと決定的に違います。
教科書的には、失業率が下がって景気が良くなると物価が上がります(フィリップス曲線)。景気拡大が人手不足を生み、賃上げを呼び、それが物価を押し上げる。この順番だから、物価と賃金は一緒に上がるはずでした。
でも供給ショック型は逆です。景気とほぼ関係なく、供給側の目詰まりで物価だけが先に走ります。
渡辺さんによれば、米欧のインフレ率は2022年初頭に8〜9%に達しました。需要の過熱だけでは説明できない急上昇です。中央銀行が頼ってきたフィリップス曲線は、失業率がわずかに改善する間に物価が垂直に立ち上がり、機能不全に陥りました。
だから私たちにどう関係するか。
「物価が上がった、つまり景気が良い、だからそのうち給料も上がる」という直感が、今回は当てになりません。物価と賃金をつなぐ回路が、そもそも別ものだったのです。
賃金は、物価に「遅れて」ついてくる
なぜ賃金は遅れるのか。長沼伸一郎さんの『現代経済学の直観的方法』が、その時間差を分かりやすく説明しています。
この本はインフレを「サンドイッチ」に例えます。
真ん中にいるのが、借金をして事業を回す企業。上下にいるのが、賃金で暮らす労働者と、貯蓄を持つ資産家です。物価が上がると、まず商品の値段が上がる。労働者が賃上げを勝ち取っても、賃金の上昇は物価の上昇より必ず遅れてやってきます。
たとえば、原材料費が上がった企業は、明日にでも商品の値札を書き換えられます。でも社員の給料は、年に一度の交渉や査定を経て、ようやく動く。
このタイムラグの間に生じた差額は、企業の側に残ります。長沼さんの言葉を借りれば、機動性の高い人が得をして、動きの鈍い人が損をする。
意地悪ではなく、仕組みの問題です。値段は毎日でも変えられるのに、給料は制度上そう簡単には動かせない。だから「物価が先、賃金が後」という順序が構造的に生まれます。
だからどう関係するか。
物価上昇の初期には、名目の給料が上がっていても、実質では目減りする局面が必ず出てきます。今の日本が、まさにそれです。名目賃金は33年ぶりに伸び、それでも実質賃金は4年連続のマイナス。額面が増えたのに生活が楽にならない感覚には、ちゃんと理由があったわけです。
「上がらないのが当たり前」という予想が染みついていた
遅れて上がるだけなら、時間が経てば追いつくはずです。ところが日本では、その追いつきが長年止まっていました。
渡辺さんがデータで示すのは、日本社会に染みついた「物価も賃金も動かないのが当たり前」という予想です。専門的にはソーシャル・ノルムと呼びます。
企業は値上げを避け、消費者は値上げを嫌い、その空気の中で賃金も据え置かれ続けた。約600品目のうち4割近くが前年比ほぼ0%に凍りついていた、という渡辺さんのデータが、その異常さを物語ります。
ここで直感を一つ壊しておきます。
「日本の給料が上がらないのは、生産性が低いからだ」とよく言われます。でも渡辺さんは、実質賃金の伸びがほぼゼロでも名目賃金はしっかり伸びている国(イタリアやベルギー)があると指摘します。
日本の名目賃金が動かないのは、生産性だけの問題ではない。「動かない」という予想が、みんなの行動を通じて自己実現していたからです。
たとえば、全員が「どうせ物価は上がらない」と思えば、企業は値上げできず、賃上げの原資も生まれません。逆に「これから上がる」と思えば、値上げも賃上げも通りやすくなる。予想が現実を作ってしまうのです。
こういう直感に反する経済の動きを、繰り返し見せてくれるのがバナジーとデュフロの『絶望を希望に変える経済学』です。
彼らは、移民が賃金を下げるとは限らない、減税が成長を約束するとは限らない、といった「常識」を実証データで次々に覆します。専門家の常識ですら、データの前ではあっさり崩れる。経済は、私たちの直感どおりには動きません。
たとえば「物価が上がれば給料も自然に上がる」も、崩れる直感の一つです。前提として、賃金と物価が手を取り合って上がる社会が要る。その手を取り合う関係が凍りついていたのが、日本でした。
構造がわかると、打てる手が変わる
自分ひとりで金融政策は動かせません。でも構造を知っていれば、生活者としての判断は変えられます。
誤解: 物価が上がったのだから、待っていればいずれ給料も同じだけ上がる。 → 供給ショック型では物価が先、賃金が後。待つほど実質の目減りが積み上がる。 正しいアプローチ: 名目ではなく「実質」で家計を見る。額面の増減ではなく、物価の伸びを引いた後の価値で判断する。
誤解: 値上げする店は良心的でない。安い店に乗り換えるのが賢い消費者だ。 → 全員が値上げを拒むと、企業は価格転嫁できず、賃上げの原資も消える。回り回って自分の給料を抑える。 正しいアプローチ: 適正な値上げは受け入れ、その代わり自分の労働にも正当な対価を求める。渡辺さんが「値上げ嫌いからの脱却」と呼ぶ発想の転換です。
誤解: 給料が上がらないのは、自分の能力が足りないからだ。 → 賃金が動きにくいのは、個人の努力より、社会の予想と仕組みの影響が大きい。 → たとえば、インフレに合わせて賃金を上げる会社と据え置く会社では、同じ働きでも数年後の手取りが変わる。 正しいアプローチ: 「給料は変わらないもの」という前提を疑う。賃上げを交渉する、あるいは物価に応じて賃金が動く場所へ移ることも選択肢に入れる。
おわりに
物価が上がるのに給料が上がらないのは、あなたの努力不足でも、日本人の我慢強さのせいでもありません。
景気の過熱ではなく供給側の目詰まりで物価が動き、賃金はそれに遅れてしか動けず、しかも「動かないのが当たり前」という予想が長く社会を縛ってきた。その構造の産物です。
構造が見えれば、値上げのニュースに感情で反応する前に、自分の家計と働き方をどう守るかを、落ち着いて選べます。
この記事で参考にした本
『世界インフレの謎』渡辺努 → 2021年以降のインフレは供給ショック型。日本の「動かないノルム」と賃金・物価スパイラルの構造を教えてくれる。
『現代経済学の直観的方法』長沼伸一郎 → インフレの「サンドイッチ構造」。賃金が物価に遅れる仕組みを、直感的に理解できる。
『絶望を希望に変える経済学』アビジット・V・バナジー、エステル・デュフロ → 経済は直感どおりに動かない。専門家の常識すらデータで覆るという姿勢を思い出させてくれる。
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