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『ブッダが教える愉快な生き方』藤田一照|頑張るほど、苦しくなる理由

健康・メンタル ✍ 藤田一照
約10分で読めます

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『ブッダが教える愉快な生き方』
目次

問題にぶつかったとき、人の反応は驚くほど単純な二択に収束します。立ち向かって叩き潰すか、その場から逃げ出すか。闘争か逃走か、と言い換えてもいい。

ところが本書は、そこに第三の道があると言います。闘わず、逃げもせず、ただその問題に「触れて、よく観る」。たったそれだけで苦しみが薄まっていく、という道です。

最初は拍子抜けするかもしれません。でも読み進めるほど、この消極的にも見える選択肢こそ仏教二千五百年の核心なのだと分かってきます。

『ブッダが教える愉快な生き方』は、禅僧の藤田一照さんが、仏教を宗教でも哲学でもなく「愉快に生きるための学び方」として語り直した一冊です。NHK出版「学びのきほん」シリーズの薄い本でありながら、扱う射程は深い。難しいお経も死後の世界も出てきません。

仏教と聞くと、難解な教義や歯を食いしばる修行を思い浮かべる人が多いはずです。編集部もそうでした。けれど本書が描くブッダは、生老病死に悩んだ一人の探究者であり、その試行錯誤のプロセスは、現代の私たちの空回りに驚くほど似ています。

図解

核心は「コントロールを手放す」こと

本書が手を変え品を変え繰り返すのは、意志の力で心や体や状況をねじ伏せようとするほど、人はかえって行き詰まる、というシンプルな逆説です。

藤田さんはこの努力至上主義を「ガンバリズム」と名づけます。「No pain, No gain(痛みなくして得るものなし)」という標語への、静かで、しかし根本的な反論です。頑張れば報われる、足りないのは努力だ──そう信じて自分を追い込む発想そのものに、本書は疑いの目を向けます。

その証拠が、ほかでもないブッダの生涯です。裕福な王子だったシッダールタは、まず瞑想の達人に弟子入りし、当時の最高峰とされた精神の境地を短期間でマスターしました。次に向かったのは、六年に及ぶ激しい苦行。断食中は一日にナツメや米を一粒だけ、というほど自分の体をいじめ抜きます。

ところが、瞑想も苦行も、生老病死という根本問題を一ミリも解決しませんでした。どちらも結局は「意志で心身を操作する技術」にすぎなかったからです。ブッダはそれを見限り、菩提樹の下にただ坐ります。そして覚りを開いた、と伝えられています。

最高度の「頑張り」を極め尽くした末に、頑張ることそのものを手放した。この逆説のドラマこそ、本書全体の出発点です。努力を否定しているのではありません。努力で届く領域と、努力では絶対に届かない領域がある、と線を引いているのです。

オーガニック・ラーニング――学校の勉強とは違う学び

第1章のテーマは「学び」の再定義です。これがなかなか効いてきます。

藤田さんは学びを二種類に分けます。一つは学校的な学び。教科書があり、先生がいて、テストと卒業がある。知識を頭にインストールしていく、ゴール設定型・目標達成型の学習です。私たちが「勉強」と呼んでイメージするのは、ほぼこれです。

もう一つが「オーガニック・ラーニング」。赤ちゃんが言葉や歩き方を、誰に習うでもなく日々の生活そのものから身につけていく、あの学び方です。年齢に関係なく生涯続き、ゴールも卒業もありません。むしろ「できるようになって終わり」がない。

仏教の学びは後者だ、と本書は言います。「行(ぎょう)」、つまり身心まるごとで行う修行は、坐禅だけを指しません。掃除も食事も歩くことも、すべてが学びの現場になる。

ありふれた日常を聖なる道場へと変える工夫、それが仏教だという見立てです。ここには、修行を特別な場所に隔離しないという独特の発想があります。

面白いのは、ブッダの覚り自体が、このオーガニックな学びへの「回帰」だった点です。テクニックとしての瞑想や苦行に絶望したブッダが最後にたどり着いたのは、幼い頃に経験した、何も求めずただ坐っているときの純粋な感覚でした。

前へ進んで掴むのではなく、いったん振り出しに戻って取りこぼしていたものを拾い直す。学びの方向が逆向きなのです。

学ぶこととは、変わること

第2章は「学んだ証しとは何か」という問いを立てます。

藤田さんの答えは拍子抜けするほど明快です。学んだことの証しは、ただ一つ、何かが変わること。テストで点が取れることでも、本を読み終えることでもなく、自分自身が根本から変容すること。本書はこれを「学得(がくとく)」と「体得(たいとく)」という言葉で切り分けます。

学得は、借り物の言葉で頭だけ理解した状態。体得は、全身で直接学び取り、自分という存在が変わってしまった状態です。

この違いを物語るのが、徳山宣鑑(とくさんせんかん)という学僧の逸話です。彼は『金剛経』の研究を究めたと自負していました。ところが禅の道場へ向かう道中、茶屋のおばあさんのちょっとした問いに答えられず、絶句してしまう。

知識として「知っている」ことと、身をもって「分かっている」ことは別物だ──徳山はそれを思い知り、持参した分厚い経典を焼き払って禅に入門した、と伝わります。

読書家ほどギクリとさせられる話です。

ここで本書が差し出す根本ビジョンが「縁起(えんぎ)」です。すべての存在は互いに支え合っていて、単独で成り立つものは何一つない。私たちはこの巨大なネットワークの中で、いわば生かされている。

だからこそ、物事が思い通りにならないのは当たり前なんです。自分一人の意志で世界を動かせるなら苦労はいりませんが、すべては無数の縁の絡まりで決まる。

生老病死をはじめ、人生には「どうやっても思い通りにならない絶対事実」がある。これをパーリ語で「ドゥッカ」と呼びます。仏教の出発点である「苦」とは、痛みそのものというより、この思い通りにならなさのことなのです。

doingからbeingへ――頑張らない坐禅

第3章は、学びを実践する型としての坐禅を扱います。

鍵になるのが「doing(すること)」と「being(在ること)」という対比です。doingは、あるべき状態に向けて意志で自分を操作するモード。beingは、いま起きている現象にただ親しみ、ありのままに留まるモードです。

坐禅は後者だ、と本書は言い切ります。何か特別な境地に達しようと力むのは、まだdoingの発想にとらわれている。坐禅は「習禅には非ず、唯是れ安楽の法門なり」、つまり何かを獲得するための訓練ではなく、安らかさを味わうこと自体が目的だ、と説きます。

道元の「修証一等(しゅしょういっとう)」も同じ思想です。修行という手段の先に覚りという目的が待っているのではなく、修行している姿それ自体がすでに覚りなのだ、という考え方。手段と目的が一致している。ここは現代の生産性思考といちばん遠い場所かもしれません。

藤田さんは、余計な「すること」を一枚ずつ剥がしていく態度を「アン・ドゥーイング(undoing)」と呼びます。そしてそれを支えるのが、詩人キーツに由来する「ネガティブ・ケイパビリティ」です。

これは「しない能力」と訳されます。不確実さや不可解さの中にいても、答えや理由を焦って求めず、その状態に耐えて留まる力のこと。すぐ解決しようとしない。モヤモヤを抱えたまま、ただ観察し続ける。問題解決能力の真逆に見えるこの力こそ、本書のいう「成熟」につながります。

青虫が蝶になる比喩が印象的です。蝶になった後に広がる景色は、青虫の次元ではどう説明されても理解できません。言葉で分かるものではなく、自分が蝶へと変容するしかない。覚りもそれと同じだ、というわけです。

苦しみ=痛み×抵抗――愉快に生きるための式

第4章が、本書のいちばん実用的なパートです。ここだけでも読む価値があります。

藤田さんは「苦しみ=痛み×抵抗」という式を提示します。痛みそのものは避けられません。病気も、別れも、失敗も来るときは来る。けれど、その痛みに「嫌だ」「どうして自分が」と心理的にも身体的にも抵抗することで、痛みが掛け算され、苦しみへと膨れ上がる。

逆に読めば、痛みは変えられなくても、抵抗を減らせば苦しみは減らせるということです。仏教でいう「第二の矢を受けない」とはこのこと。最初の矢(痛み)は避けられないが、自分で自分に向けて放つ二本目の矢(抵抗)は手放せる。

私たちは一本目の痛みより、自作の二本目で深く傷ついていることが多い、という指摘は鋭い。

では、どうやって抵抗を減らすのか。本書のキーワードが「受けたもう」です。

藤田さんは出羽三山で山伏修行を体験しました。二泊三日のあいだ、何を言われても、どんな理不尽な指示にも、ただ「受けたもう」とだけ声に出して応じる。

すると不思議なことに、自分の中の抵抗値が下がり、本来キツいはずの修行が愉快に乗り切れたといいます。「自発的に浴びれば、風邪をひかない」。やらされていると思えば苦痛になることも、自ら引き受けると質が変わる。

同じ冷水を、被害として浴びるか、こちらから飛び込むか。その差です。

この抵抗を生み出す元が「吾我(ごが)」です。自他のあいだに防護壁を張り、内に閉じて自分を守ろうとする小さな自我のこと。常に不平不満をこぼし、何でも損得で判断する。「受けたもう」は、この吾我という防衛装置を一つずつ解除していく実践でもあります。

ビギナーズ・マインドと、覚りの意外な正体

本書を貫くもう一つの態度が「初学者の心(ビギナーズ・マインド)」です。

藤田さんは、米国に禅を広めた鈴木俊隆の有名な言葉を引きます。

初心者の心には多くの可能性があります。しかし専門家といわれる人の心には、それはほとんどありません。

ここから藤田さんは、「もう知っている」という思い込みを捨てる、つまりアンラーン(学びほぐし)の大切さを説きます。図鑑で見たから知っている、ではなく、五感を総動員して世界に初めて触れるように向き合う。知識は時に、その対象を本当に見ることを邪魔します。

そして本書がひっくり返す最大の常識が、覚りのイメージです。覚りとは、煩悩を消し去った無敵の超人になることではありません。ブッダは覚った後も、何度も悪魔(煩悩)に付きまとわれました。違うのは、それを「お前が悪魔だと、ちゃんと知っているよ」と見破れるようになったこと。

藤田さんによれば、仏とは「自分が煩悩を抱えた存在であることに気づいている人」です。煩悩がゼロになるのではなく、煩悩に気づけるようになる。だから覚った後も、生きることのすべてが学びとして果てしなく続いていく。

完成して終わり、ではないのです。この覚りの定義は、私たちのハードルをぐっと下げてくれます。

もう一つの式――幸せ=快感÷執着

苦しみの式とペアになる、もう一つの式があります。「幸せ=快感÷執着」です。

快感をたくさん積み上げれば幸せになれる、と私たちはつい思います。けれど本書はそれを足し算ではなく割り算で表します。快感を独り占めしよう、手放すまいと執着するほど、分母が膨らみ、幸せの値はかえって目減りしていく。同じ喜びでも、しがみつくほど薄まるのです。

ここに本書の独特の手触りがあります。藤田さんは、仏教の瞑想(ヴィパッサナー)で磨かれる「解像度の高い眼」を、この二つの式で説明します。酔いから覚めた素面の状態で、自分の内側の体験をありのままに観測できる感受性のこと。

この眼を持つと、苦しみが「痛み×抵抗」でできていることも、幸せが「快感÷執着」で目減りしていることも、自分の中で見えてくる

難解な教義としてではなく、自分で観察できる現象として仏教を語る。説教ではなく実験のように手渡してくれるのが、この本のいちばんの美点です。

今日からできる3つの実践

本書の教えは、三つの行動に落とせます。

1. 嫌なことが起きたら、心の中で「受けたもう」と唱える 面倒な仕事や思い通りにならない出来事に直面したら、反発する前に一度「受けたもう」と引き受けてみる。抵抗(第二の矢)を手放したとき、苦痛がどう軽くなるかを観察します。

2. 痛みを感じたら「抵抗」のほうに気づく 身体的・精神的な痛みを感じたとき、それに伴って肩がこわばったり「どうして自分が」という反発が湧いていないかを観る。苦しみが「痛み×抵抗」でできていることを、その場で確かめます。

3. 「もう知っている」を一度捨てて、味わい直す 日常の景色、食事の味、人の話を、初めて出会うように向き合ってみる。歯磨きや掃除など無意識でこなす動作を、あえて丁寧にやってみる。生活そのものを学びの場に変える練習です。

なお本書は、坐禅の組み方や呼吸法といった具体的なハウツーをあえて書いていません。マニュアル化された「学得」に逃げ込ませないためです。完全な初心者には次の一歩が曖昧に感じられるかもしれませんが、それも著者の確信犯だと知っておくと、読み方が変わります。

おわりに

ブッダは八十歳で亡くなるまで、覚りを開いてからの四十五年間、学びと修行を続けたといいます。覚りはゴールテープではなく、そこからまた学びが始まる地点でした。

頑張ることをやめるのは、努力を放棄することではありません。意志でコントロールしようと握りしめていた手を一度ゆるめて、いま起きていることに触れ直すこと。その先に、思い通りにならない人生を「愉快に」生き抜く道がある、と本書は教えてくれます。

次に思い通りにならないことが起きたら、闘うのでも逃げるのでもなく、ひとこと「受けたもう」とつぶやいてみる。そこから自分の中で何が変わるか、観てみてください。


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『究極のマインドフルネス』メンタリストDaiGo 不安を消すのではなく、不安とどう付き合うかを扱う点が本書と響き合います。ブッダのbeingモードを、現代の科学的なマインドフルネスの言葉で読み直したい人に。

「考えない時間」が最高の答えを出す 本書のネガティブ・ケイパビリティ(すぐ答えを出さない力)と直結するコラム。手放した瞬間に脳が働くという話は、坐禅の「しない能力」を別角度から裏づけてくれます。


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