詰み筋の一歩手前で、人間の棋士は無意識に手が止まります。負ければ終わりという恐怖が、危険な選択肢を意識に上げる前に排除してしまうからです。
ところがAIにその足踏みはありません。羽生善治さんが世界のAI開発現場を歩いて掴んだ答えは、意外とシンプルでした。AIの強さの正体は、計算力の差ではなく、死ぬことを知らない点にある。
この記録を書いたのは、将棋界のトップ棋士でありながら、NHKスペシャルの取材班と組んで、Google DeepMindやソフトバンク、UCバークレー、シンガポール政府まで、世界のAI開発現場を渡り歩いた羽生さん本人です。
それが『人工知能の核心』という一冊になりました。技術者でも評論家でもなく、アルファ碁に自分の土俵を直接崩された当事者が書いている点が、数あるAI本の中でこの本を際立たせています。
刊行は2017年。大規模言語モデルが世に出る前の本なので、「言葉の意味をAIは理解できない」といった一部の前提は、いまの技術水準に照らすと見直しが必要です。
それでも、人間の認知のクセを解剖した部分は少しも古びていません。AIがなめらかに喋るようになった今のほうが、かえって刺さる指摘が多いくらいです。

引き算で強くなったAI、足し算で押し切った旧世代
将棋は一局面あたり平均80通りほどの指し手があるといわれます。数手先まで読もうとすれば、検討すべき枝はあっという間に膨れ上がります。
かつてのコンピュータは、この膨張を物量でねじ伏せていました。1997年、チェスの世界王者を破ったのは「ディープ・ブルー」でした。100万局分の棋譜データを詰め込み、1秒間に2億通りの局面を計算する、力ずくで押し切るタイプのマシンです。
流れを変えたのがアルファ碁です。「Policy Network」という仕組みは、深く読み始める前に、まず有望そうな手だけへあらかじめ見当をつけ、それ以外を検討の対象から外します。
人間の直観がやっていることに、かなり近い処理です。ニューラルネットワークの学習を支える誤差逆伝播法も同じ発想で、間違った出力につながった回路の重みを機械的に下げ、信頼できない経路を間引いていきます。
つまりアルファ碁が獲得したのは、より多く読み込む力ではなく、読む前に候補を削ぎ落とす力でした。本書が繰り返す「引き算の思考」という言葉は、この転換をそのまま指しています。
膨大な学習データ、GPUによる計算速度の向上、そしてこの引き算を担うニューラルネットワーク。3つの要素が噛み合ったことで、AIは自分自身で特徴を見つけ出せるようになったと本書は整理しています。
直観と大局観は、盤面を見ないことで動く
第二章の主役は、AIではなく棋士の頭の中に移ります。羽生さんが分解する思考には、3つの段階があります。
まず、無数にある指し手からほぼ一瞬で候補を数手に絞り込む働き。次に、絞った候補を実際に何手も先まで具体的に計算していく作業。そして最後に、目先の一手ではなく、局面全体としてどちら側に進むべきかを見定める、いわば羅針盤の役割です。
棋士自身の言葉では、それぞれ直観、読み、大局観と呼ばれています。
ここで興味深いのは、計算を担う読み以外の2つ、直観と大局観が、どちらも情報を見ないことで機能している点です。大局観はとくに象徴的で、細部の計算に沈み込む前に、そもそもどちらへ進む勝負なのかを先に決めてしまいます。読む前に、読まなくていい方向をあらかじめ切り捨てているわけです。
だとすれば、一つ疑問が残ります。何を基準に、その切り捨てをしているのか。
「美意識」の正体は、恐怖から身を守る仕組みだった
羽生さんの答えは「美意識」です。ただし本書がこの言葉に込めた意味は、好みや感性とは違います。
裏付けとして本書が挙げるのが、駒の記憶実験です。将棋の駒40枚をでたらめな位置に並べると、トップ棋士であっても配置を再現できません。ところが、実際の対局から取った局面なら、ものの5秒で盤面をそっくり覚えてしまう。
差が生まれるのは記憶力ではなく、認識の仕方です。棋士は一つひとつの駒の座標を覚えているのではなく、駒同士がつくる意味のあるパターンを塊として捉えています。
定跡に近い自然な形には「心地よさ」を感じ、そこから外れた形には違和感が立つ。これが美意識の正体です。
ではその感覚は、どこから生まれるのか。羽生さんの推論はこうです。危険な選択肢を、意識に上る前の段階で無意識に締め出す防衛反応が、安定した基本形を好む感覚として現れている。
つまり人間の思考は、そもそも美意識というフィルターを通過した後の、限られた選択肢からしか始まっていない、という見立てです。
ここでAIの強さの理由が、丸ごとひっくり返ります。AIには守るべき命がない。だから恐怖という絞り込みの装置そのものを持たず、人間が生存本能によって無意識に除外している「破滅リスクを伴う手」を、平然と選び取れてしまう。完璧な合理性でAIが優位に立っているのではなく、恐怖抜きの無機質さのおかげで優位に立っている。
本書でいちばん鮮やかな逆転がここにあります。
機械にしか学べない領域と、AIが苦手な「先送り」
AIには、人間には原理的に手が届かない領域もあります。将棋AIの形勢判断を支える「三駒関係」がその代表です。盤上の任意の3駒がつくる位置関係を、過去の膨大な対局から自動で点数化する指標で、実戦での的中率は高い。
ところが、なぜその点数になるのか、人間側には筋道が見えません。人工知能研究者の松原仁さんいわく、たとえ人間がこの三駒関係のパターンを1万通り丸暗記したところで、将棋の実力は上がらないだろうとのことです。
機械には習得できて、人間には原理的に習得できない知識が、確かに存在します。
この構図は盤外でも繰り返されています。医療知識をまったく持たない開発者が作った画像診断AIが、専門医の目をすり抜ける1ミリ未満のがんを検出した例。
治安の厳しい地域でパトロール先を決めさせたAIが、20年選手のベテラン警官の勘を上回る場所を指定し、実際に犯罪率を押し下げた例。理由は説明できないのに、結果だけは出る。
私たちはすでに、そういうブラックボックスと日常的に付き合い始めています。
とはいえAIにも弱点はあります。代表格が「水平線効果」です。読みの深さには限界があるので、その限界のすぐ外側に危険が潜んでいると、プログラムは危険そのものを見ないまま「今のところ悪くない手」を選んでしまいます。
問題を解決したのではなく、視界の外へ押し出しただけなのに、それに気づけない。これを繰り返すと、じわじわ形勢を損ねていきます。人間の棋士はここで踏ん張れます。
目先で追い詰められる可能性を承知のうえで、わずかでも逆転の芽がある道を選べる。盤面を一枚の静止画としてしか評価できないAIには、この腹の括り方が構造的にできません。
全員が同じ近道を選ぶと、そこで渋滞が起きる
終盤で羽生さんが語るのは、学習効率が上がりすぎることの逆説です。名づけて「学習の高速道路」。ネットとAIのおかげで、今は誰もが遠回りせずにプロ級の一歩手前まで駆け上がれます。全体のレベルを底上げする効果は間違いなくあります。
厄介なのはその先です。整備された道が一本しかないと、そこを使える人は皆同じルートを走ることになり、たどり着く先の発想までそっくりになっていく。
羽生さんはこの状態を「大渋滞」と表現します。将棋界ではすでに実例があります。長く定跡とされてきた戦法「矢倉」は、AIが提示した対策によって崩され、多くの棋士が一斉にその評価値を追いかけた結果、指す人がほとんどいなくなりました。
効率を極めた先に、個性の均質化が待っていたわけです。
見過ごせないのは、この便利さが招く副作用です。整備された道を走ることに慣れきると、自分の頭を粘り強く使う機会そのものが減り、前例のない局面に出くわしたときに踏ん張れなくなります。
羽生さんが対抗策として挙げる習慣は、あえて効率を捨てたものです。江戸時代の詰将棋集『将棋図巧』。全100題のうち、1問を解くのに1ヶ月を要することもあるという難物です。
時間対効果だけを見れば無駄そのものですが、ふだん使わない部分の頭を酷使する経験を挟まなければ、他人と違う発想の筋道は育たない、というのが羽生さんの考えです。
AIはセカンドオピニオン、正解より「失敗」を引き受ける
AIとの距離感について、本書が置く答えは「セカンドオピニオン」です。医療で意見をもう一人の医師に確認するのと同じ発想で、AIの出す答えを唯一絶対の正解としてではなく、もう一つの選択肢として横に並べておく。
大事なのは、AIの答えをそのまま採用することではありません。自分の見立てとAIの見立てがズレたとき、そのズレ自体を材料にすることです。自分ならAを選ぶところを、AIはなぜBを選んだのか。その理由を考える過程で、自分では気づけなかった検討漏れが見えてきます。
裏付けとなる数字もあります。将棋ソフトの評価値は、形勢が接戦のときほどソフトごとに数百点単位でばらつき、逆に大差がついた局面では各ソフトの数字がそろってきます。
つまり評価がぶれる場面こそ、まだ答えが一つに定まっていない領域だということです。そこにこそ、人間が自分の頭で判断を下す余地が残っています。
本書がいちばん背中を押してくる一節は、この先にあります。将棋が強くなる一番の近道を聞かれると、羽生さんは「悪手が一瞬でわかるようになること」だと答えるそうです。
理由は単純です。うまくいく方法をひたすら学ぶタイプの最適化なら、いまやビッグデータとAIの独壇場で、誰でも同じ答えにたどり着けてしまう。差がつくとしたら逆側、つまり「これはやってはいけない」を骨身にしみて知っている量のほうです。
そしてその感覚は、痛い思いをした本人にしか蓄積できません。
AIがあらゆる正解を即座に差し出してくる時代に、人間の側に残る役割があるとすれば、それは正解探しではなく、失敗を引き受けて自分の中に貯めていくことなのかもしれません。次に何かを判断するとき、AIやツールに聞く前に、自分の仮説を一行だけ書いてみてください。答えを見たあと、そのズレの理由を考える5分間が、羽生さんの言う美意識を磨く、いちばん手軽な方法です。
