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『人生で起こること すべて良きこと』田坂広志|成功は約束されない、成長だけが約束されている

健康・メンタル 田坂広志
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『人生で起こること すべて良きこと』
目次

「苦手な投手ですか」と聞かれて、その前提ごと質問を退けた打者がいます。相手はむしろ、自分の力を引き出してくれる投手だと言い切った。世界記録を打ち立てる前、抑え込まれ続けていた時期の発言です。

こういう受け止め方を、精神力や性格の問題として片づけない一冊があります。書名は『人生で起こること すべて良きこと 逆境を越える「こころの技法」』。

著者は田坂広志さんです。気合いではなく、訓練で身につけていく技術として扱っている点が本書の特徴です。もとは2015年刊行の単行本で、2017年に文庫化され、2025年にあらためて文庫として世に出直しました。

収録されているのは、人生の岐路で効いてくる五十の短い言葉です。

自己啓発の定番に、コップの水を半分と見るか半分しかないと見るか、という例え話があります。田坂さんはこの喩えを退けます。人生の切実さが抜け落ちた、安易な救いだからです。

本書が出発点に置くのはもっと手厳しい前提で、成功は誰にも約束されていない、という一文から始まります。会社員として毎日を回している側からすると、この手厳しさのほうがむしろ信用できます。

図解

こんな人におすすめ

逆に、沈んだ気分を今日中に回復させる即効薬を探しているなら、この本は期待に応えません。求められるのは年単位の続け方です。

「成功」は保証されない。保証されるのは「成長」だけだ

本書の骨格になっているのは、この一つの区別です。

「人生において、『成功』は約束されていない」

努力を尽くしても、相手の出方や環境の変化で成果は手からこぼれ落ちます。象徴として引かれるのが映画『ミリオンダラー・ベビー』です。貧しさから這い上がった女性ボクサーが猛特訓の末に勝利を積み重ね、大成功を目前にした試合で、相手の反則による事故で全身不随の重傷を負う。

努力すれば必ず報われるという思い込みへの、静かな反証として置かれています。

一方で、逆境から目を逸らさずにいる限り、職業人としても人間としても伸びていく。この「成長」だけは百パーセント保証されている、と田坂さんは言い切ります。

なぜこの区別がそこまで効くのか。成功だけを支えにすると、人生の出来事は「良いこと」と「悪いこと」に真っ二つに割れてしまうからです。失敗するたびに心が折れ、運に見放されて成功が途切れた瞬間、支えを失って虚無感に落ちる。

成長を目標に据え直せば、敗北も逆境もそのまま学びの材料になり、この分断は消えます。

実際、逆境そのものに学びの効用があるという話も出てきます。順調なときは心のどこかに慢心が忍び込み、何が効いたのかを正確に読み解けない。逆に躓いたときは原因が絞り込みやすく、人は自然に謙虚になる。

野球の世界でよく言う、勝ちには思いがけない勝ちもあるが負けにまぐれはない、という言い回しがそのまま当てはまります。

逆境と正面から向き合う「正対」と「解釈力」

わかっていても体が動かないとき、本書は心のエネルギーの配分に原因を求めます。逆境に直面すると、心は「なぜこうなったのか」という過去への後悔と、「これからどうなるのか」という未来への不安の両方に引っ張られる。

この二つが心のエネルギーの大半を奪い、目の前の現実に注ぐ分が残らなくなります。

本書が「正対」と呼ぶのは、この針を「いま、ここ」に戻す作業です。目を逸らさず、いまできることにエネルギーを集める。ただそれだけです。

本書はここで一つ逃げ道を作っています。苦しみの渦中にいる段階から無理にこの標題どおりに感じ切る必要はない、という断りです。田坂さん自身も、命に関わる病を患った直後はひどく思い悩んだと打ち明けており、この率直さのおかげで主張が空々しく響きません。

代わりに差し出されるのは、この出来事には何か深い意味があるのではないか、という判断を保留したままの問いです。

ここから先に進むのが「解釈力」です。出来事そのものはほとんどコントロールできないが、解釈は完全に自分の手の中にある。米国出張中の事故で左足を失い、病室で嘆いていた男性のもとに妻が駆けつけ、命は助かった、右足は残ったと抱きしめた場面が引かれます。

同じ出来事でも、何を残されたと数えるかで、そこから先の歳月が変わってしまう。会社員の日常に引き寄せるなら、意に沿わない異動の辞令をどう読むかも同じ構造です。

都落ちと受け取るか、新しい人脈と経験を広げる機会と受け取るかで、その先数年の過ごし方が変わってきます。

エゴは消さず、育てる

多くの精神論は「エゴを捨てよ」と説きますが、本書はここで一線を引きます。生身の人間である以上エゴは捨てられず、無理に抑え込むと嫉妬のような歪んだ形で漏れ出るというのです。

代わりに提示されるのが、いまの自分を守ろうとする小さなエゴと、もっと成熟したいと渇望する大きなエゴという二段構えです。エゴを削除するのではなく、暴れる先を付け替える。この転換だけで人は変われると、著者は自らの新人時代の失敗談で証言しています。

徹夜で仕上げた企画書を客先で突き返され、同僚の慰めに乗って相手を悪者にしかけた自分を押しとどめ、非をこちらで引き取ったところから、プロとしての評価が変わり始めた、という逸話です。

深い自己嫌悪も、本書は違う角度から読み直します。自己嫌悪が生まれるのは、自分の中に高い理想像があるからで、理想がなければギャップも生まれない。自己嫌悪をまったく感じない状態のほうが、むしろ理想を持てていないサインかもしれない、という見立てです。

嫉妬や他人の不幸を喜ぶ感情が動いたときの対処法にも、意外性があります。否定も肯定もせず、いま自分の小さなエゴが同僚の失敗を喜んでいるな、と実況中継のように眺めるだけでいい。エゴは光を当てられずにいるときほど狡猾に動き、見つめられると静まるからです。

原因を他人や環境に置き続ける限り、自分は被害者の位置から動けません。この出来事を通じて自分が磨くべき課題は何か、と問いを立て直す姿勢を、本書は引き受けと呼びます。

内省日記と、言葉が心を先導する技法

本書がもっとも手順化されているのが、内省日記です。SNSやブログの日記は他人の目を無意識に気にするため、自分を飾った綺麗ごとになりがちで、これでは自己対話になりません。前提として、誰にも読まれない場所に書くことが求められます。

手順は三段階です。腹立たしさや嫉妬をそのまま書き殴る感情の開示、一呼吸置いて他人の文章のように読み返すと当初の怒りとは違う感覚が浮かぶ感覚の浮上、その感覚と対話するうちに出来事の意味が輪郭を持ってくる意味の結晶。

この三段階を経て立ち上がってくる落ち着いた自分を、本書は誰の中にも眠っている最上のカウンセラー役だと位置づけます。

実例として、あるカウンセリングの逐語記録が紹介されています。厳格な父親に長く反発していた青年が、怒りを出し切った先で態度を変え、父の厳しさもまた不器用な愛情の形だったのではないか、と自分自身の言葉で結論を出したという記録です。

意味は他人に与えられるものではなく、感情を出し切った先で本人の内側から立ち上がる。内省日記は、この過程を一人で再現するための仕掛けです。

もう一つの技法が、心と言葉は一体だという考え方に基づく、言葉から心を動かす方法です。苦手な相手の顔を思い浮かべながら、感情が伴わなくても心の中で感謝の言葉を唱える。エゴは常に不満を探して感謝を拒むため、先に言葉を動かして後から心を追いつかせる、という逆転の発想です。

死を意識すると、なぜ集中力が上がるのか

本書の後半は死生観に進みます。田坂さんには34年前、命に関わる病と向き合った時期があり、頼るものがなくなって訪ねた禅寺で、禅師から強く一喝された経験を覚悟の転機として書いています。

「過去は無い、未来も無い、有るのは永遠に続く『いま』だけだ、いまを生き切れ!」

時間が無限にあるという甘えが消えると、いまこの瞬間に全部を投じるようになり、眠っていた集中力が引き出される、という理屈です。スティーブ・ジョブズ氏が毎朝鏡の前で、今日が人生最後の日だとしたら本当にこれをやりたいか、と自問し続けていた逸話も、この延長線上にあります。

本書はもう一歩踏み込みます。死を意識すると、限られた時間を人のために使おうという感覚が芽生え、損得を計算する私心が薄れていく。判断を鈍らせる正体が私心だとすれば、死生観を通じて私心の濁りが晴れた分だけ、物事の本質を捉える速度も上がる、という理屈が続きます。

正直に言うと、この技法にはどれも即効性がありません。内省日記で感覚の浮上が起きるようになるまでには時間がかかり、本書自身、こうした実践は少なくとも三年は続けるものだと書いています。今夜始めて明日変わる話ではなく、数日で効果を求める人とは噛み合わないでしょう。

もう一点だけ留保を添えると、すべては自分に原因があるという引き受けは、使い方を誤れば自罰に転びかねません。心が疲弊しきっているときにいきなり引き受けを試みるより、まず感情の開示を先に済ませておくほうが、個人的には安全に思えます。

それでも、この本が渡してくるのは逆境を消し去る処方箋ではありません。限られた心のエネルギーを、目の前のどこに割り振るか。本書が差し出すのは、その配分の作法だけです。地に足のついたこの誠実さこそ、読み終えたあとに一番残る手触りだと思います。

今日一日、心のエネルギーをどこに向けるか。決めるのは自分だけです。


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