自販機が2台、並んで置いてある。片方がキリン、もう片方がアサヒ。
売れる比率は、1対7でした。アサヒが7です。
1990年代後半の高知。長年シェア60%を守ってきたキリンビールが、アサヒの「スーパードライ」に王座を奪われていく。なかでも高知支店は社内で「お荷物」と呼ばれた最下位クラスでした。そこへ支店長として赴任したのが、本書の著者・田村潤さんです。
田村さんは元キリンビールの代表取締役副社長。けれどこの本に書かれているのは、副社長の華麗な経営論ではありません。地方の弱小支店で、泥臭く現場を歩いた記録です。
そしてこの高知での成功が四国、東海、やがて全国へと飛び火し、2009年、キリンは9年ぶりの首位奪回を果たします。一支店の立て直しが全社の逆転劇に化けていく——その縮図がこの一冊に詰まっています。

真面目に頑張っている人ほど刺さる本
この本を「やる気のない人を奮い立たせる話」だと思うと、たぶん読み違えます。むしろ逆で、真面目に頑張っているのに頑張りが空回りしている人にこそ効きます。
縮小市場や強い競合を前に打つ手が見えなくなっている営業リーダー。「どうせ無理」という空気と指示待ちが横行するチームを抱えた中間管理職。対策会議と資料づくりに追われて、肝心の顧客と話す時間が消えていると薄々気づいているビジネスパーソン。
心当たりがあるなら、本書の現場描写はかなり痛いところを突いてきます。
私が読んでいて何度もうなったのは、田村さんが「努力の量」ではなく「努力の向き」を問い直していく点でした。多くの人は十分に働いている。
ただ、そのエネルギーが社内に向いてしまっている。その構図を、机上の理論ではなく具体的な現場のエピソードで突きつけてくるのが、この本の怖さであり面白さです。
負けている理由は、会議室にはなかった
田村さんが赴任して最初にやったのは、データ分析ではなく現場の検証でした。営業マンや酒販店だけでなく、居酒屋で飲んでいる客にも直接声をかける。
自ら年間270回以上の宴会に出て、県民の生の声を集める。花見や宴会のゴミ箱を漁って、空き缶の銘柄比率まで確かめる。一貫しているのは「現場に本質がある」という信念です。
当時の高知支店は全12名。営業マン9名のうち高知市内担当は6名で、酒販店の訪問は1日10店ほど。一方で本社から降ってくる指示は月に20を超えていました。現場に向かうより本社の指示をこなすことで一日が終わる——そんな内向きの組織だったのです。
ここで田村さんは退路を断ちます。市場の25%しかない料飲店、つまり居酒屋やレストランにあえてターゲットを絞り込んだ。残り75%の家庭用市場を捨てて、わざわざ小さいほうへ向かったわけです。
理由は明快でした。量販店は売上と利益が最優先で、人間関係も情も通用しにくい。でも居酒屋は、足繁く通って頭を下げ続ければ、店主との信頼が生まれて銘柄を変えてもらえる。
要するに「営業力が効く市場」だったからです。弱者が強者の土俵を避け、自分の武器が活きる場所だけで戦う——ランチェスター的な選択を、田村さんは理屈ではなく現場の肌感覚から導いています。
施策はとことんシンプルにしました。壁に貼り出した方針が「バカでもわかる単純明快」。100人いたら100人がすぐ理解できる言葉でなければ、現場では実行されない。
複雑な戦略は絵に描いた餅で終わる。だから「料飲店は全部とれ。しかし、金は使うな」とまで言い切りました。予算という逃げ道を封じれば、現場は知恵を絞るしかなくなる。
お金で解決できない分、足と工夫で勝負する。この強制が、後の躍進の土台になりました。
「ビールは情報で飲まれている」という発見
現場を歩き倒した田村さんは、消費の核心にたどり着きます。それが、
ビールは情報で飲まれている
という一文でした(田村潤『キリンビール高知支店の奇跡』)。多くの消費者は、ビールの味にそれほど差を感じていない。では何で選ぶのか。
「目立つ場所にたくさん置いてある」「売れている」「元気がある」という情報です。味の勝負だと思っていたものが、実は印象の勝負だった。
私はここで一度本を閉じて考え込みました。作り手はつい「味で勝とう」とします。でも買う側は、味の前に「売れてる感」を見ている。これはビールに限らず、自分が売っているサービスにもそのまま刺さる、耳の痛い指摘です。
この発見が独自の広告戦略を生みます。電通の岡山支社と高知放送からの提案を受け、全国一律のCMをやめて地元のラジオと新聞に切り替えた。種になったのは一つのデータでした。
高知は20歳以上ひとりあたりのラガー瓶消費量が年30本で全国1位、全国平均の1.5倍だったのです。この事実を土佐弁のラジオCMと新聞広告で、感謝とともに伝え続けたのが「高知が、いちばん。」
キャンペーン。残り予算300万円で打ったこの一手は、県民の「いちばんが好き」という気質にまっすぐ刺さり、対前年比を全国平均より3〜4%押し上げました。
広告単独ではなく、営業マンが料飲店を地道に回る活動と店頭露出が連動したからこそ、シェアが反転したのです。
本書はここでもう一つ、定番ブランド特有の戦い方を語ります。シェアを奪われると、つい他社の客を「攻めて奪う」方向に走りがちです。けれど田村さんの方針は逆で、今キリンを飲んでくれている客をひとりも逃さない「守り」。
ただし現状維持ではなく、既存客の満足を徹底的に高める「攻撃的な守り」でした。水が高いところから低いところへ流れるように、まず自社の足元を固めてから波及させる。
この発想は、有名なラガー味覚変更の失敗とも地続きです。1996年、キリンは若者や女性を取り込もうとラガーの味を変え、長年のファンを失望させました。
安芸市では抗議した客が「ラガーの葬式」と称し、一人で旧ラガーを10ケース2000本も注文したほど。「ブランドはメーカーのものではなく、お客様のもの」という本書の一行が、なぜあの変更が「罪」だったのかを言い当てています。
ノルマを配るのをやめたら、人が動き出した
戦略を絞っても、実際に動くのは現場の人です。では人をどう動かしたのか。ここが本書の最も実務的なパートだと思います。
田村さんが導入したのは「結果のコミュニケーション」でした。ノルマを上から押し付けるのではなく、メンバー自身に目標を宣言させる。本人が決めた約束だから、責任が自分ごとになる。ある入社2年目の営業マンは「1カ月に料飲店を200軒訪問する」と自ら宣言しました。
それまで月30〜50軒だった訪問を一気に4倍以上に引き上げる宣言です。当然、最初は門前払いの連続でした。
面白いのは、成果が出るまでに一定の「時差」があると本書がはっきり言い切っている点です。正しい行動でも結果が出るには時間がかかる。だが我慢して続けると、ある時点から潮目が変わる——その目安を本書は「4カ月の法則」と呼びます。
4カ月目あたりで「キリンのセールスはよく来る」と評判になり、店主が新店オープンの情報を先に教えてくれるようになった。量をこなすうちに、質の高い情報が向こうから集まってくる。
この「いつ変わるのか」の具体的な目安は、心が折れそうな現場のモチベーション設計にそのまま使える知恵です。
毎月の振り返りは膝詰めで、「できたか、なぜできなかったか」を納得いくまで突き詰める。本書の言葉では「やったつもりが許されない。見てないことは罪、やっていないことは悪」。
逃げも逃がしもしない環境です。ただしこれは詰問ではない。プロセスの言い訳を許さない厳しさと、人を責めることは別物だと線を引いている点に、私はこのリーダーの誠実さを感じました。
馴れ合いではなく、自立した個がお互いを認め合う——本書のチームワークの定義は、ここだけ切り出しても一読の価値があります。
「会議は禁止」という一手の本気度
高知での成功は四国、そして400人近い部下を抱える東海地区本部へと舞台を移します。組織が大きくなっても基本は変わらず、そこで本書最大の名言が放たれます。「会議でビールは売れないのだから、明日から会議は禁止」。
業績が悪くなると、企業はふつう会議を増やします。原因を分析し、対策を練るためです。でも田村さんの目には、それが「内向きの言い訳づくりの場」に映った。
会議の準備、資料作成、報告。エネルギーが社内に向かい、顧客との接点を奪っている。当時の東海地区本部では、外勤営業マンの正味の外勤時間比率はわずか30%程度、社員の4割が内勤者でした。
会議を禁じれば外勤時間が増え、資料づくりに割いていた人手を現場へ回せる。内勤の女性社員が営業に出て、企画部門までもが自ら現場へ足を運ぶようになった。
組織全体が、社内向きから顧客向きへと向き直ったのです。本書はこれを「自分の立場を守るためのエネルギーを、顧客を増やすエネルギーへ」と表現します。
結果は数字に出ました。愛知万博では協賛金の競争を諦め、名古屋駅前の会議室を面接会場として貸すといった知恵で勝負し、会期中のシェアは3割超。中部国際空港では58店中44店が専売店でシェア76%。
徳島では深夜0時から明け方4時までコンビニを一斉に回り、県全体の売上を5%押し上げました。金ではなく知恵で勝つ。東海では広告費と営業費が3年で20%減ったうえに、企業ブランドの好感度は12項目で5〜10%上昇しています。
転勤先の静岡では若手のM君が「何も考えないで行動する」を略した「NKK活動」を始め、1時間で25軒、1店あたり約10秒というむちゃくちゃな数を回った。
よく考える効率営業の常識とは正反対なのに、1年で「いちばん元気なビールメーカー」の認知が18%から40%へ跳ね上がり、料飲店トップシェアを奪回しました。
考えすぎて足が止まるより、まず量。その量がやがて市場理解という質に変わる——本書が繰り返す逆説です。
すべては「心の置き場」から始まる
ではなぜ、現場の一人ひとりがそこまで主体的に動けたのか。本書の答えは「理念」と「ビジョン」、そして最後に行き着く「心の置き場」です。
目先の売上目標を追うだけでは、人は受け身になります。本書が掲げたのは「お客様本位」「品質本位」という理念と、「キリンビールがどこにでも置いてある状態をつくる」というビジョンでした。
これが腹落ちすると、現場から戦術が勝手に湧き出す。ある営業マンは「農家のビニールハウスの冷蔵庫を、すべてキリンにする」と発案して農家を回り始めました。
誰の指示でもありません。戦略を絞り込めば、戦術は個人が自由に工夫するダイナミズムが生まれる。象徴的なのが「上司を見るな、ビジョンを見ろ」という言葉です。
上司の顔色をうかがうのをやめ、共有された目的の達成だけに集中する。社内評価から顧客への価値提供へ、視線の向きが変わる。実際、高知の客が望む「昔のラガーの味」を本社にぶつけ続けた現場の執念が実り、翌年ラガーの味は元に戻りました。
これこそ「上司を見るな、ビジョンを見ろ」を現場が体現した瞬間です。
そして本書を貫く最後の概念が「心の置き場」。自分は何のために働くのか、組織は何のために存在するのか。この根っこが変わらない限り、表面的なテクニックは機能しない。
田村さん自身、もとは安売りに反対して本社と対立し「左遷」と言われて高知へ来た人でした。その人物が最下位支店を立て直し、全社の首位奪回まで導く。
著者が言う「イノベーション」とは画期的な新戦略のことではなく、「当たり前の基本活動を、非凡なレベルまで徹底すること」でした。
魔法はなかった。あったのは、理念のもとで泥臭い活動を圧倒的な熱量で続けた、ただそれだけです。
どんな人にどう効くか
正直に言えば、この本は即効性のあるフレームワーク集ではありません。読んで明日すぐ売上が上がる類でもない。体系的な経営理論や再現性のあるメソッドを求める人には、物足りなく映るかもしれません。
中身はあくまで一人のリーダーの泥臭い現場の記録で、属人性の塊だからです。仕組みで組織を変えたい人は、後述の『無印良品は、仕組みが9割』や『とにかく仕組み化』と併読したほうが、再現性の補助線が引けるはずです。
それでも、自分のチームの空気が淀んでいる、努力が結果に結びつかないと感じている人が読むと、視線の向きを一段変えてくれます。とりわけ効くのは、プレイヤーからマネジメントに移って戸惑っている人でしょう。
「上司を見るな、ビジョンを見ろ」という言葉は、部下に媚びることでも管理で縛ることでもない、第三の道を示してくれます。きれいなフレームワークが取りこぼしてきた「人はどうすれば本気で動くのか」という問いに、この本は正面から答えています。
最後に、本書の問いをそのまま借りてこの記事を閉じます。今日のあなたの予定表で、「ビールを売っていない時間」は、どれくらいありますか。
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『営業』冨田和成さん 野村證券の伝説の営業マンが説く仮説思考の営業術。本書の「現場で事実を拾う」泥臭さと、仮説で動く論理が補い合い、現場営業の解像度が一段上がります。
『とにかく仕組み化』安藤広大さん 「人を責めるな、仕組みを責めよう」で組織を変える本。本書の「結果のコミュニケーション」を、属人的なリーダーシップから仕組みへ翻訳したいときの補助線になります。
