「最近の若手はやる気がない」「昔は背中を見て覚えたものだ」。職場に流れるこの手の小言は、たいてい古臭い精神論として片づけられます。ところが雇用ジャーナリストの海老原嗣生は、本書でその評価を丸ごとひっくり返します。
これらの多くは1950〜60年代の日本の経営者が世界水準のマネジメント理論を咀嚼して計画的に導入したものの名残であり、親父の小言に見える慣行の裏には、半世紀たっても錆びない基礎理論が眠っている、と。
算数を教えないまま微積分を解かせても人は伸びません。多くの企業は目標管理(MBO)という制度の器だけを導入し、現場のマネージャーに「人の動かし方」という算数を授けてこなかった。
だから仕組みは整っているのに現場は疲弊する。本書はその欠けた算数を、日本の実務シーンに翻訳して手渡す一冊です。ファーストフードのケチャップの塗り方から大企業の営業アサインまで、理論がすぐ現場語に変換される点が、読んだ翌日から試せる強みになっています。
やる気を引き出すのは人情ではなく、最も割のいい経営投資
本書の背骨は一文に凝縮できます。部下のやる気を高めることは親心でも人情でもなく、会社が儲けるための最も合理的な経営手段だ、という一点です。知的労働が主役になった時代には、部下が自分で工夫し臨機応変に動いてくれないと企業は伸びない。
だからやる気の喚起は、費用対効果のきわめて高い投資行動になる。感情論に流れがちなモチベーション論を、著者はこの「情ではなく計算」という出発点で科学の側へ引き戻します。
その足場になるのがハーズバーグの二要因理論です。給与や快適なオフィス、残業の少なさは「衛生要因」で、欠ければ不満は募るものの、いくら満たしてもやる気そのものは上がらない。
人を突き動かすのは達成・承認・責任・成長といった「満足要因」、つまり仕事そのものがもたらす手応えのほうだと整理します。著者はこの手応えを連鎖させる回路を「モチベーションサイクル」と呼びます。
機会を与え、支援し、評価し、承認し、報酬へつなぐ。この輪が回り続けると、人は放っておいても走り出す、という設計思想です。
編集部として補助線を引くなら、見落とされがちなのは衛生要因の扱いです。満足要因が主役だからといって給与や労働環境を軽んじてよいわけではありません。
衛生要因はいわば土俵際の防波堤で、水準が低ければやる気の話に入る前に人は辞めていく。満足要因が効くのは、衛生要因が一定ラインを満たした後だという順序は、本書を実務に移すうえで押さえておきたい前提です。
ちょうどいい「階段」を刻み、登れたら「踊り場」で試させる
本書最大の目玉が、部下指導のフレーム「2W2R」です。心理学者で経営者でもあった大沢武志の発想を継いだもので、部下の成熟度に応じて手綱の握り方を変える設計になっています。
実力が足りない部下には、What(何をするか)とWay(どうやるか)の2Wを手取り足取り教える。これが「登れる歩幅の階段」です。ハンバーガー店のたとえが鮮やかで、「ケチャップを塗れ」だけでなく「真ん中に丸く落とせ」まで示し、さらに「どこから齧っても同じ味にするためだ」と理由(Reason)を添える。
すると部下は「ピクルスを重ねない」といった工夫を自分から始める。実力がついたら、Reason(理由)とRange(裁量の範囲)の2Rを渡す段階へ移り、「この枠内なら自分で決めていい」という踊り場で腕試しをさせる。
ここで著者がとりわけ痛烈なのが「自由の押し売り」批判です。上司が良かれと思って言う「思う存分やれ」「何でも自由に考えろ」を、目標設定理論の観点から最悪の丸投げだと断じる。
エドウィン・ロックの研究では、人を最も動機づけるのは「できるかできないか、ぎりぎりの線」にある具体的な目標であって、「何でもいいから思い切りやれ」は何をすべきか分からなくさせ、かえって成果を下げる。
本当の自律は、しっかりした枠を用意して初めて生まれるという逆説が、本書の核心にあります。遠足で「柵のなかでなら遊んでいい、先生の目が届くから」と示すのと同じ理屈です。
加えてハックマンとオルダムの職務特性理論を引き、自分の仕事が全体のどこに位置し誰の役に立つのかが見えると、人はやりがいを感じると補います。
目標を固定しない、という指摘も実務的です。松井賚夫の「随時メンテ目標管理」では、進捗に応じて目標を分岐させる。順調すぎる人には再加速の高い目標を、遅れている人には行動そのものを評価する救済目標を出し直し、全員を「ぎりぎりの線」に置き続ける。
自動車ディーラーの営業がまさにそれで、上位には特別ボーナス、下位には行動点で、誰のやる気も切らさない。制度をいじるのではなく、目標の与え方を毎週チューニングし続ける発想です。
上司は「骨太」だけ示し、部下が「肉付け」で応える
組織がフラット化した今、上司が部下の一挙手一投足を管理するのは不可能です。そこで本書が説くのが「骨太の方針」。誤解の余地がないほど簡明なWhat(目的)だけを示し、やり方は現場のプロに委ねる。
多人数の伝言ゲームでノイズを防ぐには、指示はシンプルなほどいい。その代わり部下は判断の根拠を返す。これが「アカウンタビリティ(説明責任)」で、上司と部下はこの根拠のやり取りを通じて信頼と納得を保ちます。
著者が引くのは戦場の極限例です。中隊長は「10時間踏ん張る」「全員で帰る」という骨太なWhatだけを示し、個々の兵士の動きは小隊長に任せる。
小隊長は自分の判断の根拠を上へ明確に返す。この分業を平時の組織に持ち込め、というわけです。部下に根拠と理由を語らせる習慣をつけると、思いつきの発言が減り、論理的思考が日々のやり取りのなかで鍛えられる、という副次効果も見逃せません。
もう一つの組織論のキーが「バイパス管理」です。背景にあるのはエルトン・メイヨーのホーソン実験で、生産性は物理環境や外的な誘因よりも、職場の人間関係や非公式な集団の規範に左右される、という発見でした。
部や課とは別に、社員の感情や信頼で自然発生する「インフォーマルグループ」——同期会や仲良し派閥のようなもの——が、じつは働く人の心理を裏で強く支配している。
これを敵視せず、陰のリーダーから本音を吸い上げ、上司の意図を水面下で伝えてもらう。俗にいう根回しを、理論として位置づけ直したのがバイパス管理です。
営業目標を上げたいとき、公式のリーダーだけでなく、情に厚いA、頭脳明晰なB、ベテランのCに事前に相談しておくと組織が前向きに動く、という具合です。
すべての指示は「本当の強み」に根を張る
骨太な指示や経営判断は、いったい何に根ざすべきか。本書の答えは自社の「コア・コンピタンス」です。ハメルとプラハラードのこの概念は、単なる技術力や開発力といった表層のスキルではなく、模倣が難しく、希少で、別の領域にも転用できる、その会社ならではの本質的な強みを指します。
眼鏡チェーンのJINSの例が示唆的です。一時は「安売り」という表層の強みに頼って赤字に沈み、そこから「メガネの常識破壊」という本質へ立ち返る。
レンズの追加料金を無料にし、度なしのPC用や花粉用メガネを開発してV字回復を遂げた。コンビニの日米比較も鮮やかで、アメリカは「24時間いつでも便利」を突き詰めた結果、深夜が犯罪の温床になり殺風景な店から人が離れた。
対して日本は「いつでも便利」に「+何か楽しい」を足した。立ち読み、トイレの開放、地域限定コラボ。人が集まるから犯罪も減る。この好循環を生む「+何か楽しい」こそ日本のコンビニのコア・コンピタンスだ、と著者は読み解きます。
マイケル・ポーターのポジショニング戦略とも重なる話です。裏を返せば、自社の本質的な強みを見失ったまま発する骨太の指示は、方向を誤った号令にすぎない、ということでもあります。
「日本型雇用」は最強の育成エンジンだった——ただし賞味期限つき
最終章で著者は、近年もてはやされる欧米のジョブ型に対し、日本のメンバーシップ型を思い切って高く買います。ジョブ型は「ポストに人を張り付ける」仕組みで、一握りの優秀層には向くが、大多数の一般社員の育成を放棄しがちで、若者の失業率を押し上げる弱点がある。
一方のメンバーシップ型は「人に仕事をアサインする」仕組みで、未経験者を受け入れ、習熟に応じて次々と難しい仕事を与え、組織全体をボトムアップで育てる。
都市銀行の年次育成がその典型です。新入社員は簿記の資格取得と並行して個人向けローンを担当し、20代半ばで中小企業融資、30代手前で大手向けの社債や協調融資へと進む。
「少し手が空けばすぐ一格上の仕事を与える」この計画的な階段設計が、じつは無駄のない強力な育成機能を果たしていた。人事制度そのものが「自動的に回るモチベーションの階段」になっていた、というわけです。
その原型は1950年代に折井日向が構想した「青空が見える労務管理」——学歴や出自に関係なく、現場で実力を磨けば資格が上がり幹部への道が見える仕組み——にあると著者は跡づけます。
ただし、ここは編集部として留保を置きたいところです。本書の議論は2015年の執筆時点に立っており、終身雇用の崩壊や雇用の流動化、若手の早期離職が進んだ今、銀行のような長期育成モデルがどこまで通用するかへの言及は物足りない。
バイパス管理も、陰のリーダーが私心で動く人物だったり、非公式グループが不平の吐き口になっている場合の処方は抽象的なままです。本書は、日本の組織心理学の礎を築いた大沢武志の「心理学的経営」の真髄を継ぐために書かれた、いわば直系の一冊。
基礎理論の強さは疑いようがない一方、それを流動化した現代の雇用にどう接ぎ木するかは、読み手側に残された宿題だと受け取ったほうがいい。それでも、明日ひとつ部下に指示を出すとき、Wayまで口を出しているか、それともReasonとRangeで踊り場を用意できているか——その一点を確かめるだけで、あなたの職場から「無理・無意味」がひとつ消えるはずです。
