良いものを作った。品質にも自信がある。それでも埋もれる——。SNSを開けば似た商品とサービスが際限なく並び、機能でも価格でも大差がつかない。
インターネットとテクノロジーが製品の平均品質を一気に底上げした結果、「完成品のクオリティで差をつける」という王道が、そもそも成り立ちにくくなっています。
この行き詰まりに対して、IT批評家の尾原和啓氏が本書『プロセスエコノミー』で差し出す答えは明快です。差別化すべきは完成品(アウトプット)ではなく、それを生み出す過程(プロセス)そのものである。
完成品はいくらでも模倣できるが、そこへ至る過程だけは誰にも複製できないからです。「プロセスエコノミー」という言葉自体は起業家のけんすう氏が名づけたもので、尾原氏はそれを世代の価値観・テクノロジー・脳科学という複数の補助線から捉え直し、ビジネスの話を超えて生き方の話にまで押し広げています。

「役に立つ」より「意味がある」が選ばれる理由
議論の出発点は、消費者の価値観が静かに反転したという観察です。尾原氏は、生まれたときからモノに囲まれてきた世代を「乾けない世代」と呼びます。
上の世代が「達成」や「快楽」、つまり何かを手に入れることに喜びを見いだしたのに対し、この世代が重んじるのは「良好な人間関係」「意味合い」「没頭」といった内面の充足だといいます。
心理学者マーティン・セリグマンが挙げた幸福の要素のうち、内向きの三つがせり上がってきた、という見立てです。
ここから消費の逆転が起きます。「役に立つ」ものは一つあれば足りるので最も安い一点に収束するが、「意味がある」ものは物語が代替不可能なので何種類でも並び立てる。
コンビニのハサミがほぼ一種類なのに、タバコは二百種類以上が棚を占める。移動の道具としては割に合わないランボルギーニに数千万円が付くのも、「それに乗る意味」が売られているからです。
山口周氏が『ニュータイプの時代』で説いた「役に立つ/意味がある」の二極化と、きれいに重なる構図といっていいでしょう。ここで押さえておきたいのは、これが「機能を軽んじてよい」という話ではないことです。
役に立つことは前提であり、そのうえで意味の層をどう積むかが勝負になる——本書を読み違えると、品質を捨ててストーリーだけを飾る危うい方向へ滑りかねません。
追い打ちをかけるのがテクノロジーです。尾原氏は、技術が指数関数的に進むという「6D」(デジタル化に始まり、やがて非収益化・非物質化・民主化へ至る段階論)を引き、あらゆるアウトプットの限界コストがゼロに近づくと指摘します。
成果物がタダ同然になれば、人は成果物ではなく、それが生まれる過程のほうへ財布を開く。プロセスエコノミーは一過性の気分ではなく、技術的な必然として立ち上がってくる、という読みです。
プロセスだけはコピーされない——シャオミと西野の実装
では、その「意味」はどこに宿るのか。尾原氏の答えがプロセスです。完成した機能はすぐ真似される。新しいアプリも数カ月で類似品に囲まれる。けれど、そこへたどり着くまでの試行錯誤、つまずいた記憶、そもそもなぜ作りたかったのかという原体験は、誰にも書き写せません。
実装例として本書が挙げるのが中国のシャオミです。開発の途中経過を毎週公開し、「ミファン(米粉)」と呼ばれる数千万人規模のファンの声を製品へ流し込む——尾原氏が「鉄の三角」と呼ぶ仕組みで、ファンは自ら広告塔になり、批判には自分たちで反論するまでになりました。
キングコング西野亮廣氏のオンラインサロンも同型です。月千円弱の会費で七万人規模を束ね、その資金で個人には不可能な規模の制作や建設を実現していく。
ここでファンは「金を払った消費者」から「一緒に作る共犯者」へと立場を変えます。応援が宣伝に、宣伝が次の応援に転がっていく回路が生まれるわけです。
差別化の源泉は結局「Why」にしかない
ただし、過程を垂れ流せばいいわけではありません。尾原氏が繰り返すのは「Why(なぜやるのか)」です。ビジネスを「心・技・体」になぞらえれば、What(何を)は体、How(どう作るか)は技、Why(なぜ)は心にあたる。
体と技はすぐ模倣される以上、差別化の余地はいちばん内側の心=Whyにしか残りません。倒産寸前の1997年にAppleが掲げた「Think Different」が、スペックではなく「情熱ある者が世界を変える」という信条でブランドを甦らせたのは、その象徴です。
サイモン・シネックがTEDで語った「人はWhatではなくWhyに金を払う」という一言も、同じ核を突いています。
なぜWhyが効くのか。尾原氏はダニエル・カーネマンを引き、人は熟慮の「システム2」ではなく直感の「システム1」で動くからだと説明します。Whyのこもっていないプロセスは、ただの作業風景にすぎない。
個の物語を集団の熱狂へ広げる型として本書が紹介するのが、オバマ陣営が用い政治学者マーシャル・ガンツが理論化した「Self Us Now」です。
自分の来歴を語り(Self)、あなたと私は地続きだと連帯を結び(Us)、だから今動こうと促す(Now)。堀江貴文氏が自著『ゼロ』で幼少期の苦労まで開示し、従来の読者層を超えて共感を広げたのは、この型の実践といえます。
そしてこの回路のエンジンは利他の心だと尾原氏は言う。他者のためという動機を見聞きするだけで、脳内には信頼のホルモンとされるオキシトシンが滲む、と。
ファンを「共犯者」に変えるバーベキュー型の設計
プロセスの共有には二つの型がある、と尾原氏は分けます。船長の冒険を安全な岸から眺める「ジャングルクルーズ型」と、火をおこし食材を切り、皆で作り上げる「バーベキュー型」。
彼が推すのは後者で、理由は単純です——人は自分の役割となる余白があるとき、最も深くコミットするから。箕輪厚介氏のサロンでは、報酬がなくてもメンバーが動画編集やバナー制作を「遊び」として担う「セカンドクリエイター」が生まれます。
楽天の繁盛店が実践する「弱さの自己開示」も相似形です。「実は今月は苦しい」と正直に明かすことで、店と客の関係は「同じ過程を歩む同志」へと組み替わる。
完璧さより、人間味のある弱さのほうが、かえって強い信頼を連れてくるという逆説です。
音楽グループBTSがブレイク前、最も売上を伸ばした地域が中東のUAEだった、というエピソードも示唆に富みます。スタッフが現地に住み込み、ファンと肩を並べて市場を耕していった。
完成した楽曲を一方的に届けるより先に、立ち上げの過程を共に歩んだことが、後の熱狂の核になったという読み方です。裏を返せば、余白の設計とは「顧客を巻き込む仕掛け」であると同時に、作り手が観客に向けてどれだけ自分を開けるかという覚悟の問題でもある。
器用に見せる人よりも、不器用でも正直な人のまわりに共犯者が集まる——本書のこの指摘は、発信のテクニック論に回収されがちなコミュニティ論に、一本芯を通しています。
正解主義から修正主義へ——ジャズのように進める
過程を晒しながら進むには、頭の切り替えが要ります。教育者・藤原和博氏の言葉を借りれば「正解主義から修正主義へ」。唯一の正解を密室で探すのではなく、未完成のまま出してフィードバックで軌道を直していく。
尾原氏はこれを、譜面どおりに奏でるオーケストラではなく、その場で応じ合うジャズにたとえます。裏づけとして引かれるのが経営学の「エフェクチュエーション」で、手持ちの資源から始める・致命傷は避ける・失敗そのものを価値に変える、といった原則で不確実さを渡っていく発想です。
起点も逆になります。顧客の課題から逆算する「アウトサイド・イン」より、自分の「好き」から旗を立てる「インサイド・アウト」のほうが、成熟社会では熱狂を生みやすいという。
Whyが最初から見えなくてもかまいません。本書が勧める順序は「Must→Can→Will」——目の前の務めに全力を注ぎ、できることを増やすうちに、やりたいことが自然と輪郭を結ぶ、という道筋です。
応援が呪いに変わるとき——プロセスエコノミーの影
ここまでが光の面ですが、本書の誠実さはむしろ後半にあります。尾原氏はメリットだけを謳わず、丸ごと一章を弊害に割く。注目を集めることに慣れると、人はWhyを見失う。
フォロワーの期待に合わせて走るうち、「いつの間にか観客が主体になり、自分の人生のハンドルを握られた状態に陥ってしまう」と尾原氏は警告します。
象徴が登山家・栗城史多氏です。単独無酸素登頂の過程をSNSで実況して資金と注目を集めたものの、期待が膨らむほど無謀から降りられなくなり、最終的に滑落死してしまった——過程が目的を呑み込む「肥大化」の極端な帰結です。
ビジョンばかりが先行して足元の成果を欠けば、それは虚像にすぎない。都合のいい声だけが返ってくるSNSの反響室も、判断を鈍らせます。
編集部として一つ留保を付けるなら、プロセス公開は誰にでも効く万能薬ではない、ということです。舞台裏を見せられない事情もあれば、過程が地味でWhyの語りにくい仕事もある。
本書の処方が最もよく効くのは、強い動機を抱えながら完成主義に縛られて動けずにいる作り手でしょう。だからこそ尾原氏は、完成図の決まったジグソーパズルではなく、手元の得意を組み替えて何が立ち上がるかを楽しむレゴのような生き方を勧めます。
片付けそのものを楽しみ続けた近藤麻理恵氏が世界的なムーブメントを起こしたように、コピーできない価値は、不器用でも過程を分かち合う人のところに積み上がっていく。
手を動かす前に、まずは「なぜ自分はこれをやるのか」を一文だけ書き出してみることから始めたいところです。