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『リッツ・カールトンが大切にするサービスを超える瞬間』高野登|「満足」の先に、まだ二段ある

リーダーシップ・組織 ✍ 高野登
約7分で読めます

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目次

バーテンダーがカクテルを客の前に置く。多くの店では、そこで一連の動作は完結する。だが本書の入り口には、そこから先の話がある。

ニューヨークのリッツ・カールトンで働いていたノーマンというバーテンダーは、グラスをカウンターに置いたあと、もう6インチ——約15センチだけ、客の方へすっと近づけた。

そして満面の笑みで「Enjoy!」と声をかける。なぜその6インチが必要なのかと著者が尋ねると、彼は、この距離は客の心に触れるためのプロセスであり、自分のLOVEを送り込む行為なのだと答えたという。

『リッツ・カールトンが大切にするサービスを超える瞬間』は、この「6インチの差」を一人の名人芸で終わらせず、組織全体で再現する仕組みにまで落とし込んだ一冊だ。著者の高野登さんはリッツ・カールトンの日本支社長を務めた人物で、世界中のホテルで実際に起きた感動の逸話——本書でいう「ワオ・ストーリー」——を軸に、サービスとホスピタリティの違いを解きほぐしていく。

編集部として先に断っておきたいのは、これは単なる感動秘話集ではない、ということだ。実話の面白さに引き込まれて読み進めるうち、その一つひとつの裏に、冷徹なまでに設計された仕組みが埋め込まれていることに気づく。

感性の話と科学的なマネジメントが同じ土俵で語られる、その二枚腰こそが本書の骨格である。

サービスとホスピタリティを分ける「6インチ」

冒頭のノーマンの逸話が、本書全体の見取り図になっている。

カクテルをテーブルに置くまでが「サービス」。そこから6インチ近づけて笑うところが「ホスピタリティ」。高野さんは、この二つを分けるのはほんの6インチの差だと言う。

サービスは業務だ。手順を守れば誰がやっても一定の結果が出る。衛生的で、効率的で、間違いがない。ただし、それだけでは心は動かない。あと一歩、相手の心に近づくプロセスが加わったとき、業務がおもてなしへと変わる。

ホスピタリティの本質を、高野さんは「お客様への愛情を示すこと」と言い切る。眠りにつく瞬間に「このホテルに来て良かった」と思ってもらえたかどうか。目を閉じれば豪華な調度品は視界から消え、残るのは一日の幸せな思い出だけ——それが本当の通信簿だ、と。

ここで一つ留保を挟みたい。「愛情」や「心」という言葉は、ともすれば精神論に流れる。気持ちを込めろ、で終わってしまう職場は多い。本書の価値は、この情緒的な目標を掲げたうえで、それを個人の資質や運任せにしない仕組みへと接続していく点にある。以下はその接続の話だ。

「紳士淑女が紳士淑女にお仕えする」——内部顧客という順番

リッツ・カールトンのモットーは、有名な一文に凝縮されている。原文では「We are Ladies and Gentlemen serving Ladies and Gentlemen」。仕える従業員もまた紳士淑女である、と宣言する言葉だ。

従来のホテルでは、従業員はへりくだって仕える給仕であり、客が上・従業員が下という関係が常識だった。リッツ・カールトンは、この上下関係からは本物の信頼は生まれないと考える。従業員も客と同じ紳士淑女であり、対等な目線で互いを尊敬し合う。

そしてこの発想は社内にも向かう。共に働く仲間を「内部顧客」と呼び、客と同じように尊重し、満足させるべき相手として扱うのだ。従業員が大切にされて初めて、客にも心からのサービスができる——順番が逆ではない、というのが要点だと思う。

象徴的なのが、著者がボストンで修業していた頃のエピソードだ。裏方の社員食堂の入り口に立つスタッフですら、満面の笑みで「Welcome to my dining room!」と迎えてくれたという。

裏方の食堂でこの温度なら、表舞台は推して知るべし、というわけだ。

ただし、対等であることは楽をしていいという意味ではない。紳士淑女にふさわしい振る舞い、豊かな感性、成熟した人格を日々磨き続ける。それはプロとしての重い責任と裏表になっている。ここは読み違えやすいところだ。

クレドと2000ドル——感性を仕組みで支える

理念を血肉に変えるための装置が、本書には二つ登場する。

一つは「クレド」。従業員が常に携帯する四つ折りのカードで、理念や使命、サービス哲学が凝縮されている。普通の社訓と何が違うのか。高野さんはマニュアルとクレドを対比させる。

マニュアルは頭で理解して守るルールで、誰もが一定の結果を出すための土台。クレドはその上に立つ「感性の羅針盤」であり、予想外の場面で一人ひとりが自発的に最善の行動を選ぶための基準になる。

だからクレドは、額に飾って終わりにしない。創業社長のホルスト・シュルツ氏は、開業準備の会議のたびにこれを読み上げ、相手に「あなたにとってどういう意味か」と問い、理解が浅いと見れば40分かけて全文を読み直したという。

日常でこれを担うのが、毎日の朝礼「ラインナップ」だ。上司の訓示ではなくディスカッション方式で、「紳士淑女とはどういう人か」を世界中の3万人が毎日一斉に考える。

理念を規則から習慣へと変えていく、地道な反復である。

もう一つが「エンパワーメント」。従業員は上司の判断を仰がず、自分の裁量で1日最大2000ドル(約20万円)を客のために使える。なぜこれほど高額なのか。

基準は「人を運ぶコスト」にあるという。大阪で講演した大学教授が資料と老眼鏡を客室に忘れて新幹線に乗ってしまったとき、連絡を受けたハウスキーパーは、ためらわずに次の新幹線に飛び乗り、東京駅のホームで直接手渡した。

人が動く往復運賃が、決裁の目安になっている。大事なのは、客のニーズが最高潮に達したその瞬間に、スピードを持って解決することだ。時間が経ってから完璧に対応しても、感動はもう生まれない。

スマトラ沖地震のエピソードも忘れがたい。津波に遭い、深夜に泥だらけのスーツケースで香港のリッツ・カールトンに着いた家族が、汚れた服の洗濯を頼んだ。

フロントマネージャーとコンシェルジュ、ランドリースタッフは約100点の衣服を徹夜で洗い上げ、アイロンをかける。通常なら1000ドルを超える料金を、マネージャーは自分の判断で600ドルまで割り引いた。

翌朝、家族は見違えるようにきれいになった服を着て出かけていったという。裁量とは、こういう瞬間のために現場へ預けておくものだ、と本書は教える。

不満・満足・感動・感謝——先読みが差を生む

本書が描く客との関係は、四つの段階で整理される。

不満は、ニーズが満たされていない状態。満足は、言葉にされた要望が満たされた状態だ。頼んだ通りのことが、頼んだ通りに叶う。だが高野さんは、ここはまだ「約束を果たした」だけで差別化にはならないと言い切る。この線引きは厳しいが、正しいと思う。多くの現場は「満足」で足を止め、それを最高到達点だと勘違いしているからだ。

差がつくのはその先だ。感動は、客自身も気づいていない、言葉にされない願望を先読みして満たした状態。本書はこれを「ミスティーク(神秘性)」と呼ぶ。

フロリダのビーチで起きたプロポーズの逸話が典型で、「チェアを一脚だけ残してほしい」と頼んだ男性客に対し、スタッフは椅子を残すだけでなく、白いクロスに花とシャンパンを飾り、ひざまずくとき砂で汚れないようタオルを敷き、自分もタキシードに着替えて二人を迎えた。

そして最後が感謝。その感動が続き、生涯の関係になる段階だ。毎年、記念日にスタッフから手紙が届くような結びつき。満足を超えて感動と感謝に至って初めて、「ブランド=客との約束」が確立される、というのが本書のブランド観である。

この先読みを支えるのは、意外にも積極的なコミュニケーションだ。従来の日本の接客には、自分から話しかけては失礼だという遠慮があった。リッツ・カールトンは逆で、節度ある距離を保ちつつ、スタッフの側から積極的に話しかける。

会話から「ゴルフが好き」といった感性を拾い、先回りのサービスへ翻訳していく。情報を情緒に変える作業、と言い換えてもいい。

人柄で採り、マニュアルの先で即興する

では、この水準を担う人はどう集めるのか。リッツ・カールトンの採用面接は、スキルや実績をほとんど聞かない。土台にあるのは「技術は訓練できても、パーソナリティは教育できない」という信念だ。

ベッドメイクも接客のノウハウも入社後に身につく。だが感受性や倫理観、人と接することが本当に好きかどうかは、会社が後から変えるのは難しい。だから面接では「最近どんな本に感動したか」「先月、家族を喜ばせるために何をしたか」を問い、人間性を掘り下げる。

採用の段階で価値観を合わせ、不幸なミスマッチを避けるという発想である。

創業者ホルスト・シュルツ氏は「サービスは科学だ」と言ったという。感動を個人のカリスマや偶然に頼らず、仕組みとプロセスで再現する、という意味だ。

その道具の一つが「SQI(サービス・クオリティ・インジケーター)」で、日々の失敗を点数化して集計する。電話に誰も出ない、部屋タイプを間違えるといったミスは15点、浴室に髪の毛が落ちていれば20点、という具合に。

感動を科学するとは、裏を返せば失敗も科学することであり、ミスを謝罪で終わらせず業務フローまで遡って潰す営みだ。

育て方の話で一つ、印象に残る考え方を紹介したい。自己投資について、本書のメンターは「今の年収」ではなく「目標とする年収の5%」を、今から自分に投じよと説く。

年収500万円の人が1000万円を目指すなら、現状維持のための投資ではなく、なりたい自分の基準に合わせて50万円を質の高い体験や学びに使う。

基準の置き場所を未来にずらすだけで、日々の選択の質そのものが変わっていく。個人にも応用が利く発想だ。

そして本書が最後に描くのは、マニュアルを完璧にマスターした者だけが立てる場所である。高野さんはそれをジャズのジャムセッションにたとえる。基礎を徹底的に体に入れたミュージシャンだからこそ、その場の空気に合わせて即興ができる。

サービスも同じで、マニュアルという土台があるからこそ規定を超えられる。マニュアルを否定するのではなく、マニュアルを超えるために完璧にする——本書の逆説はここに尽きる。

読み終えて残るのは、豪華なホテルの情景ではない。目を閉じたとき、その日どんな思い出が残ったか、という問いだ。派手な一発ではなく、6インチの積み重ね。明日、誰か一人に、頼まれる前の6インチを足せるか。試すのは、そこからでいい。


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