7500万ドル。日本円にして100億円を超える資産を、一人の男が手に入れました。スタンフォードの脳神経外科医という肩書き、海辺の豪邸、ポルシェ。願ったものは、ほぼすべて手元にそろったのです。
ところが彼は、そのあと全財産を失います。結婚は壊れ、独りになりました。
著者ジェームズ・ドゥティ氏の実話です。不思議なのは、彼が最初から「願いを叶える魔法」を知っていたという点でした。その魔法で医者になり、富を築き、そして同じ魔法のせいで、すべてを失った。
本書は「引き寄せの法則」に脳科学の裏づけを与えながら、同時にその手法が抱える危険にまで踏み込みます。願えば叶うを語る成功本は山ほどありますが、「願いが叶うこと自体が人を壊しうる」とまで言い切る本は、そう多くありません。そこに私はまず惹かれました。

願いを叶える力と、人を幸せにする力は別物
本書の主張は、一行に圧縮できます。「望むものを手に入れる脳の力」だけでは足りない。「他者を思いやる心の力」がそろって初めて、人は本当に満たされる。
著者はこれを「頭は人間を区別し、心は人をつなげる」と表現します。頭は競争を生み、勝ち負けで世界を切り分ける。心は分かち合いを生み、人と人を結ぶ。どちらか一方だけでは片輪走行になり、いずれ転ぶ。そういう構図です。
ここが本書のいちばん面白いところだと思います。多くの成功哲学は「強く願え、そうすれば手に入る」で話を終えます。しかし本書は、その先に潜む落とし穴を指摘するのです。
「本当に欲しいものを知らずに、欲しいと思い込んでいるものを手に入れたら、欲しくないものが手に入ってしまうの」
この一文が、物語を貫く糸になっています。脳の力で何でも手にした著者が、まさにその通りに「欲しくないもの」を手に入れてしまう。その実話が、このあと展開されていきます。
手品店で教わった「4つのマジック」
物語は彼が12歳の夏に始まります。家賃も払えない貧しい家庭、アルコール依存の父、うつを抱えた母。孤独だった少年ジムは、町の手品用品店でルースという中年女性に出会います。
彼女が授けたのは手品ではなく、脳と心を整える4つの技法でした。順番に意味があり、とくに3番目を飛ばすと壊れる。これが本書の肝です。
1つ目は、からだを緩める。 深呼吸をしながら、つま先から順に全身の筋肉を弛緩させていく。いわゆるボディースキャンです。「からだを思いどおりにできれば、心も思いどおりになる」とルースは言います。怒りや不安は心拍の上昇や貧乏ゆすりとして体に出る。だから逆に体をほどけば、ストレス反応そのものを抑えられる。心を整える土台は、意外にも体の側にあるという発想です。
2つ目は、頭の中の声を止める。 私たちの頭の中では、朝から晩まで誰かがしゃべり続けています。「どうせ無理」「また失敗する」。ルースはこれを「DJ」と呼びました。ラジオのDJのように勝手に流れる声、というわけです。止め方はシンプルで、呼吸やろうそくの炎、意味のある言葉に意識を向けるだけ。雑念が浮かんでも責めず、「あ、考えていたな」と気づいて呼吸に戻る。ここで効くのが神経可塑性で、意識を向け続けた方向に、脳は物理的に回路を組み替えていきます。
3つ目は、心を開く。 本書の心臓部です。自分に無条件の愛を向け、次に大切な人へ、最後は「嫌いな人」にまで同じ愛を送る。「彼らも自分と同じ。望みは一つ、幸せでいることだ」と念じる。ルースの言葉が刺さります。「他人を傷つける人こそ、いちばん深く傷ついている」。攻撃の裏には痛みがある。そう見えた瞬間、こちらの怒りも溶ける。そしてルースは強く釘を刺します。この3番目を飛ばして4番目に進んではならない、と。
4つ目は、なりたい自分を描く。 叶えたい目標を鮮明に思い描き、それが叶った喜びを感情ごと先取りして味わう。ここにも科学があって、脳は強烈な想像と現実の経験を区別しないのだそうです。成功した自分を繰り返しイメージすると、脳がそれを「既知のもの」として扱い始め、現実がその方向に引っぱられていく。
ルースは条件も添えました。この魔法を誰かに教えること。そしてその人にも、また別の誰かに教えると約束させること。教えることが、技法の一部に組み込まれているわけです。
評定2.5の少年が、本当に脳外科医になった
4つ目のマジックの効き目は、著者自身が生きた証拠でした。
高校時代の彼の評定平均は2.5。当時メディカルスクールに入るには3.8が要るとされていました。数字だけ見れば、医者など絶望的です。それでも彼は「自分は医者になる」と毎日描き続け、成績が足りず面接を断られても、面接官に直談判して推薦状を勝ち取り、本当に脳神経外科医になります。
ただし著者は、これを「願えば叶う」だけの話にはしません。本書には「欲しいものをなんでも生み出せる。もちろん必死にがんばらなくちゃならない。一貫した努力と意志が必要だ」とあります。
魔法は努力を消すものではなく、努力の向きを定めるもの。ここを読み違えると、本書はただの精神論に堕ちてしまう。私はこの一節が、本書の良心だと感じました。
医者になった彼はビジネスにも進出し、破綻寸前のアキュレイ社のCEOに就任します。社員が60人から6人にまで減っていた会社を、18ヶ月で企業価値1億ドルへ再建。ドットコムバブルの波に乗り、資産は7500万ドルを超えました。願いは、ことごとく叶ったのです。
全部叶えた男が、全部失った理由
ここから物語は暗転します。理由はシンプルでした。4つのうち、3番目の「心を開く」を、彼はすっかり忘れていたのです。
富と権力に執着し、自己中心的になり、人との本当のつながりを軽んじていく。そしてバブルが崩壊したとき、全財産も結婚も失い、独りになりました。ルースの警告した通り、「欲しいと思い込んでいたもの」を完璧に手に入れた結果、本当に欲しかったものを取りこぼしたのです。
私はこの章を読んで、少しぞっとしました。願いを叶える技術が高かったからこそ、間違った願いを精密に実現してしまった。技術が高いほど、向きを誤ったときの代償も大きくなる。これは脳の話に限らず、有能な人ほど身に覚えがあるのではないでしょうか。
富が幸せをもたらす、たったひとつの方法
どん底で、彼はルースの教えを思い出し、長く忘れていた「心を開く」瞑想を再開します。
すると不思議なことが起きます。破産処理の途中、弁護士の手続きミスで数千万ドル規模の株式が手元に残っていたことが判明する。もう一度大富豪に戻れる金額です。ところが彼は迷わずそれを慈善信託に寄付しました。後にその信託は3000万ドルの価値を持ちます。
なぜ手放せたのか。彼の答えがこれです。
「富が幸せをもたらす方法は、たったひとつだとわかった。それは人に与えることだ」
お金が幸せをくれるのは、貯めたときでも使ったときでもなく、与えたときだけ。100億円を得て、失って、ようやく彼はそこに行き着きました。
著者はダーウィンの「適者生存」も読み替えます。生き残るのは「情け容赦ない最強の者」ではなく、「いちばん親切で、いちばん協調的な者」だ、と。そして忘れがたい一行を残します。
「自分の傷を癒やしたいなら、他人の傷を癒やせばいい」。落ち込んだとき、孤独なときほど、誰かを助けることが巡って自分を救う。理屈ではなく、彼が身銭で確かめた結論として読むと、重みが違います。
「心」は比喩ではない──脳と心臓の科学
利他や共感が大事という話は昔からあります。本書が並の精神論と違うのは、それを生理学で裏づける点です。
著者は「心のコンパス」という言葉を使います。道に迷ったとき正しい方向へ導く内なる知性のことで、ルースは「いちばん大切な贈り物」と呼びました。
これが比喩で終わらない。脳と心臓は迷走神経でつながっていて、しかも心臓は脳から指示を受けるだけの臓器ではなく、脳に送るよりはるかに多くの信号を逆に脳へ送り返しているのです。
数字も具体的です。心臓は1日に約10万回鼓動し、血管を延ばせば6万マイル、地球を2周以上する長さになる。脳は心臓からの血流の15%を使う。心拍変動の話も反直感的でした。
リラックス時こそ心拍は一定になると思いがちですが、実は逆で、ストレス下では変動が減ってなめらかになり、安らいでいるときほど大きく揺らぐのだそうです。
瞑想の効果にもデータがあります。2013年のUCサンタバーバラの実験では、2週間の集中瞑想でGREのスコアや記憶・集中力テストの成績が向上しました。
心を整える練習が、頭の働きまで底上げするわけです。なお著者は科学一辺倒ではなく、臨死体験のように「どうやってもきちんと説明できない」領域は正直にそう書く。
この抑制が、かえって信頼を生んでいます。
毎朝の羅針盤と、今日からの一歩
著者が毎朝の瞑想で唱えるのが「心のアルファベット」、CからLまでの10の価値観です。共感(Compassion)、尊厳(Dignity)、平静(Equanimity)、ゆるし(Forgiveness)、感謝(Gratitude)、謙虚さ(Humility)、誠実さ(Integrity)、正義(Justice)、思いやり(Kindness)、無償の愛(Love)。
毎朝これを唱え、その日の指針となる一文字を選ぶのだといいます。
なかでも平静(E)の説明が印象に残りました。平静とは悪いときだけでなく、良いときにも気分を一定に保つこと。私たちは好調のとき高揚を保とうとしますが、その波に飲まれないことで頭と意志が澄みわたる、という発想です。
実践として持ち帰りやすいのは三つ。1日10分、つま先から筋肉を緩める。否定的な声に気づいたら、責めずに呼吸へ戻す。そして嫌いな人を一人思い浮かべ、「この人も自分と同じだ」と念じる。最後の一つは、100億円を失った男が最後に取り戻した、一番大事な習慣です。
結局この本が教えてくれるのは、順番でした。願いを描く前に、まず心を開く。著者はその順番を取り違えて、すべてを手に入れ、すべてを失った。明日、苦手な誰か一人を思い浮かべて一度だけ念じてみる。たぶん、それが扉を開く最初の鍵になります。
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