ユベール・ジョリー氏がベスト・バイのCEOに就いた初日、店頭に立った氏の胸には「研修中」の名札がついていた。
マッキンゼーでパートナーまで務めた経歴を持つ人物が、レジ係に向かって「小売のことは何も知らない、教えてほしい」と頭を下げて回る。当時のベスト・バイは、ウォール街から倒産は時間の問題と見なされ、株価は11ドル前後まで沈んでいた。
ネット通販の伸びで、実店舗はショールームと化しつつあった。
フランスの名門校を首席で卒業し、コンサルティングの世界で結果を出し続けてきた完璧主義者が、なぜ真っ先に「わかりません」から始めたのか。この一冊は、その転換の理由を追いかける本でもある。
『THE HEART OF BUSINESS』は、この危機からの7年間を振り返る一冊だ。ジョリー氏がCEOを務めた期間で、利益は3倍に増え、株価は2020年、110ドルの大台に乗った。大規模な閉店や解雇には頼っていない。
利益は企業の目的ではなく、正しい経営の結果として後からついてくるものにすぎない。本書が繰り返すのはこの一点であり、それを実際の再建劇で裏づけようとする。理想論ではなく、経営としての実証を試みた本だと言っていい。

利益を目的にすると、なぜ利益が逃げるのか
著者の立場は明快だ。企業の存在意義は金儲けではなく、公益への貢献とすべての関係者への奉仕にある。利益はそこに欠かせないが、あくまで結果であって目的ではない。本書はこう言い切る。
「不可欠ではあるものの、それは結果として得られるものであり、それ自体が目的ではない」
理由は身も蓋もない。株主価値というものは、朝ベッドから飛び起きたくなるような動機にはならないからだ。株主価値の最大化を掲げた企業は、短期のコスト削減に走りやすい。
人材投資を削り、店舗への投資を絞り、結果として顧客体験が痩せていく。破産寸前だったベスト・バイ自身がたどった道であり、シアーズもまた同じ道をたどった。
この見立てを補強する数字も本書は挙げる。ステークホルダー全員に奉仕する企業群は、15年間でS&P500の14倍の株価パフォーマンスを記録したという調査結果がある。パーパスへの投資は慈善ではなく、財務の話として語られている。
株式市場そのものへの疑いも面白い。スタンフォード大学の調査によれば、上場したばかりのテクノロジー企業は、市場からの短期の視線にさらされることで経営判断が慎重になり、新しい挑戦の速度がおよそ4割落ちるという。四半期ごとの成績表に見張られること自体が、企業から力を奪っている。
だからジョリー氏は、経営会議の議事の並べ方から変えた。月次のレビューも取締役会の報告も、まず従業員の状態、次に顧客の状態、最後に財務という順番に固定した。
かつて駆け出しのコンサルタントだった著者に、ある経営者が食事の席で「企業のパーパスは金儲けではない」と言い切ったことが、この順番の出発点だったという。
財務指標だけを追うのは、すでに起きた結果を眺めているにすぎない。従業員の熱意や顧客の満足度に、まず目を配る。
ただし、この再建劇を割り引いて読む必要もある。倒産寸前という危機は、経営陣にも投資家にも「今までのやり方を疑ってよい」という強い許可を与える。
業績が普通に良い会社が、同じ順番の入れ替えをいきなり提案しても、ここまでの合意は得にくいだろう。本書の実例は、追い詰められたからこそ通った改革だという側面を割り引いて読むほうが、実務には役立つ。
8割が「ただ職場にいるだけ」という現実
なぜここまでパーパスにこだわるのか。本書はまず、働くことそのものへの不信から説き起こす。
仕事にきちんと向き合えていると答えた人は、全体のわずか16%だった。19カ国、約1万9000人を対象にしたADPリサーチ・インスティテュートの調査結果である。
残る8割超は、ただ職場に籍を置いているだけということになる。この種の意欲低下による生産性損失は、世界全体で年間7兆ドルに上るという試算もある。
日本の数字はさらに厳しい。ギャラップ社の2022年調査で、日本の「熱意ある社員」の割合はわずか5%だった。米国35%、中国18%、韓国12%と並べると、際立って低い位置にいる。
本書はこの状態を「アダムの呪い」と呼ぶ。仕事を罰や苦役とみなす、古い仕事観のことだ。行動経済学者ダン・アリエリー氏の実験が、この呪いの正体をよく示している。
組み立てたレゴをそのまま置かれたグループと、目の前で解体されたグループを比べると、解体されたグループのほうがはるかに早く作業を投げ出した。意味を感じられない作業は、続ける理由そのものを失う。
逆の例として引かれるのが、ベスト・バイが買収した高齢者向け遠隔健康サービスの会社だ。コールセンターの離職率は業界平均で年100%を超えるが、この会社は2%に満たなかった。
給料が特別高いわけではない。自分の電話対応が高齢者の命を守っていると、スタッフ全員が知っていたからだという。同じ石を切る仕事でも、「石を切っている」と答える人と「大聖堂を建てている」と答える人がいる、という寓話を本書は重ねる。
作業の中身は同じでも、そこに見えている意味がまるで違う。
人は資源ではなく、湧き出る源泉だ
ではどうやって、この呪いを解くのか。本書の人間観がその出発点になる。人は消費され、管理され、減っていく「資源」ではなく、そこから何かが生まれ続ける「源泉」だという捉え方だ。人的資源という言葉づかい自体が、扱い方を先に決めてしまっているという指摘は鋭い。
この考え方を開く現場の実践として、本書はいくつものエピソードを紹介する。印象深いのが、ある店長がスタッフ一人ひとりに「あなたの夢は何か」と尋ね、答えを名前つきで休憩室に書き出したという話だ。
自立してアパートを借りたいと答えた若手店員には、そのために必要な昇進のステップを一緒に設計する。会社の目的に社員を合わせるのではなく、社員の夢を叶える場として会社を機能させる。
向きが逆になっている。
権限の委譲も徹底している。CEO自身が最終判断者として関わるのは、全社戦略、大型投資、幹部人事、価値観の方向づけという4つだけに絞られた。若手コンサルタント時代の著者が「現場マネジャーに責任を持たせるべきだ」と当時の上司に詰め寄ったとき、返ってきたのは牧場の例えだったという。
牝馬が蹄に石を挟んでいたら、それを取り除くのは牝馬自身にやらせなければならない。任せるとは、代わりに問題を解いてやることではない。
人を育てる力点も、弱点の穴埋めから強みの尖りへと移す。教室で聞くだけの研修は、実践を伴わなければ1か月以内に内容の8割が忘れられるという。ある地区の統括マネジャーは、部下ごとの販売データを見ながら毎週1時間の個別コーチングを続けた。
1年後、地域全体の時間あたり平均売上は1割ほど上がったという。全員を同じ型にはめる指導より、一人ひとりの得意を伸ばすコーチングのほうが、数字として跳ね返ってきている。
ここで気になるのは、これらを実行する店長やマネジャー側の負荷だ。部下の夢を聞き出し、週1時間の個別コーチングをこなし、任せながらも見捨てない。
どれも善い行いだが、同時にこなすには相応の時間と感情労働がいる。本書は制度の設計は詳しく描く一方で、それを担う中間管理職自身をどう支えるかには、あまり多くを割いていない。
現場に落とし込むときは、この負荷を誰がどう分担するかを、別途考える必要があるだろう。
アメとムチをやめたら、評価はどう変わったか
金銭的なインセンティブは、単純作業には効く。だが仕事が複雑で創造的になるほど視野を狭め、逆効果になることが行動科学の研究で示されているという。
本書が挙げる害は3つある。内発的な動機をそぐこと、目先の数字を追わせて不正やごまかしを誘発すること、そして状況が変わり続ける現場では、そもそも完璧なインセンティブ設計自体が成り立たないことだ。
評価の仕組みも作り替えられた。毎年ランクづけして下位を切る方式は、社内の信頼と協力を壊す。ベスト・バイでは上司が一方的に点数をつけるのをやめ、同僚からの多面的なフィードバックをもとに、社員自身が自己評価と成長プランを作る形に変えた。
1on1は査定の場ではなく、目標達成のために上司に何ができるかを話す場に変わったという。
相手の気分を害するのを恐れて核心を避ける態度と、深い敬意を持って厳しい真実を伝える態度は、まったく別物だ。本書はこの2つをはっきり区別する。前者を優しさと勘違いしている職場は、思いのほか多いのではないか。
弱さを見せられるリーダーほど強い
著者は元々、完璧主義者だったと明かす。自分がすべてを把握し、コントロールすべきだと思い込んでいた時期があったという。転機になったのは、パリで聖職者から受けたひと言と、社内パーティーで見せられた、すべての役職名が自分の名前で埋まったジョーク組織図だった。
業績は良かったが、直後に届いた部下のエンゲージメント調査の結果はひどいものだった。
リーダーが全知全能を装うと、周囲は「わからない」と言えなくなる。問題の芽は隠され、手遅れになってから表に出てくる。だから著者は、店頭で頭を下げることを選んだ。弱さは隠すものではなく、関係を築くための材料になる。
本書はリーダー像そのものも定義し直す。答えをすべて持つ英雄である必要はなく、部屋の温度を上げる温度調節機であればいい。誰に仕えているかを忘れなければ、地位は後からついてくる。
トップに上りつめるのではなく、周囲に押し上げられて、そこに立つ。チームについても同じ発想が貫かれていて、最強のチームとは優秀な選手の寄せ集めではなく、全員がAクラスとして機能する集団のことだと本書は言う。
本書の結びは、拍子抜けするほど短い。
「行動を変える方法は、行動を変えることだ」
パーパスも心理的安全性も、語っているだけでは何も起きない。実際にやってみせることでしか、伝わらない。
明日から変えられること
本書が示す変化のきっかけは、規模の大きい制度改革ではない。むしろ地味だ。
チームの定例会議の議事次第を、数字の話からではなく、メンバーの状況の話から始まる順番に並べ替える。1on1で「あなたの夢は何か」と尋ね、その答えを次の面談まで覚えておく。そして、いま抱えている案件について「わからない、力を貸してほしい」と一度口にしてみる。
承認も予算もいらない。必要なのは、順番を変える勇気と、それを最初にやってみせる側に自分が回る覚悟だけだ。
