「競争は善である」。私たちは子どもの頃から、そう教え込まれてきました。
ところが本書は、その常識を真正面から否定します。競争は美徳ではなく、利益を食いつぶす罠だ、と。著者はペイパルの共同創業者で、フェイスブックの最初の外部投資家でもあるピーター・ティール氏。シリコンバレーで「ペイパル・マフィアのドン」と呼ばれる人物です。
『ゼロ・トゥ・ワン』は、成功法則を並べたマニュアルではありません。新しい未来を創るために、自分の頭で何を問うべきかを鍛える、思考の訓練書です。読み終えたあとに残るのは「やり方」ではなく、「ものの見方が一段ずれた感覚」なのだと思います。
進歩には二つの形がある――「1からn」と「ゼロから1」
ティール氏はまず、進歩を二種類に切り分けます。
ひとつは、すでに成功したものをコピーして広げる水平的進歩(1からn)。グローバリゼーションがこれにあたります。もうひとつは、これまで誰もやったことのない何かを生み出す垂直的進歩(ゼロから1)で、一言で言えばテクノロジーです。
タイプライターを真似て同じものを100台作るのが「1からn」、そのタイプライターからまったく新しいワープロを発明するのが「ゼロから1」だ、というわけです。
新しい何かを生み出すたびに、ゼロは1になる。この一行が本書のタイトルそのものになっています。
世界の人口は増え、資源は限られている。模倣を広げるだけではいずれ立ち行かなくなる。だから新しいものを生む「ゼロから1」が要る、というのが本書の出発点です。
興味深いのは、ティール氏が「未来は進歩する」という楽観を当然視しない点です。グローバリゼーションだけが進んでテクノロジーが止まれば、世界はむしろ資源の奪い合いに向かう。
だからこそ、誰かが垂直方向に新しいものを生まなければならない、と本書は危機感をもって語ります。この発想は起業に限りません。仕事でも人生でも、私たちは無意識に「先行事例のn番目」をやろうとする。
本書は、その安全に見える道がじつは消耗戦の入り口かもしれない、と気づかせてくれます。
なぜ「競争」ではなく「独占」を目指すのか
ここで多くの人がつまずきます。独占って悪いことじゃないの、と。
ティール氏の言う独占は、不正に他社を妨害する企業ではありません。他の誰にも真似できないほど、圧倒的に優れた価値を提供する企業のことです。経済学が理想とする「完全競争」では、差別化がないため利益はゼロに近づいていく。
一方、独占企業は自由に価格を決め、利益を出し、その余力で未来に投資できる。生き残りに追われないから、長期で物事を考えられる。
数字が雄弁です。アメリカの航空会社は2012年に1600億ドルを売り上げたのに、片道平均運賃178ドルのうち自社の取り分はわずか37セント。
競争が利益を削り尽くしている。対してGoogleは同じ年に500億ドルを売り上げ、その2割超を利益として残し、時価総額は航空会社全社の合計の3倍に達した。
検索を独占しているからこそ、自動運転のような野心的な研究に金を回せる。この落差が、競争と独占の違いを一撃で物語ります。
「幸福な企業はみな違っている。それぞれが独自の問題を解決することで、独占を勝ち取っている。不幸な企業はみな同じだ。彼らは競争から抜け出せずにいる。」
トルストイの一節を見事にひっくり返した一文です。私がこの本を「自分のことだ」と感じたのもここでした。同じ土俵で誰かと張り合っているとき、人はその土俵自体が正しいかを問わなくなる。
競争に勝とうと必死になるほど、競争相手と似てくる。勝つことではなく、降りて別の土俵を作ることを本書は勧めます。
なお、永続する独占には共通する四つの特徴があるとティール氏は整理します。(1)機能・使いやすさ・デザインのどれかで「10倍優れている」と言える独自技術、(2)使う人が増えるほど価値が上がるネットワーク効果、(3)規模が大きくなるほどコストが下がる規模の経済、(4)中身を伴った強いブランド。
すべてを兼ねる必要はなく、「自社はどれを持っているか」と問う行為そのものが、独占に値するかの点検になります。なかでも私に刺さったのは「10倍」という閾値でした。
2割の改善では宣伝の海に埋もれて終わる。改善ではなく断絶を作れ、と「ちょっと良い」の発想を根こそぎ否定してくるからです。
小さく始めて支配する――ラストムーバーの戦略
巨大市場に最初から挑むのは、いちばん危険な賭けです。すぐに過酷な競争へ飲み込まれる。狙うべきは、自分の解決策を喉から手が出るほど欲しがる少数のユーザーが密集した、小さな市場。そこを完全に支配してから周辺へ少しずつ広げていく。
アマゾンがまさにこれをやりました。ジェフ・ベゾス氏は「すべてをオンラインで売る」というビジョンを掲げながら、最初は書籍という一点に絞った。カタログ化しやすく発送しやすいからです。
そこを押さえてからCD、ビデオへと広げ、最後は世界一の小売へ。本書はこれを「ラストムーバー・アドバンテージ」と呼びます。先に動くより、最後にある市場を支配しその後何年もキャッシュフローを独占し続けるほうが、はるかに価値があるという逆説です。
「市場の1%を取る」という発想を捨てよ、というのが裏側のメッセージでしょう。
べき乗則――一握りが、すべてを持っていく
ティール氏は、世界が「べき乗則」に支配されていると言います。ごく少数が、その他すべての合計をはるかに上回る結果を出すという偏りです。
ベンチャー投資が典型です。最も成功した1社のリターンが、ファンド内の他すべての投資の合計を超えることがある。アンドリーセン・ホロウィッツがインスタグラムへ25万ドルを投じ、2年後に7800万ドルで回収した話を本書は引きます。
312倍。それでも15億ドル規模のファンド全体から見れば、この1件ですら足りなかったというのだから、世界の偏りは凄まじい。
この法則は個人のキャリアにも効きます。「何が起きても大丈夫なように」と選択肢を分散させるのは、一見賢く見えて、実は何も突き抜けない道。本当に価値を生むと信じられる「ただ一つ」に、時間を集中して賭けるべきだとティール氏は説きます。
ポートフォリオを組んでリスクを散らすという投資の常識を、彼は個人の人生設計にまで持ち込むことを拒みます。べき乗則の世界では、薄く広く張るほどリターンの裾野にとどまり続けるからです。
私たちが「とりあえず経験を広げておく」と言うとき、それは賢明さではなく、賭けから逃げているだけかもしれない――その問いは、起業を考えていない人の胸にも刺さるはずです。
もっとも、誰もが一点賭けに耐えられるわけではない、という留保は要るでしょう。本書の強さは断定にありますが、その断定をどこまで自分の状況に引き受けるかは、読者に委ねられています。
「隠れた真実」を探せ、そして「売る」に投資せよ
本書でいちばん有名なのは、ティール氏が採用面接で必ず投げるという、たった一行の問いです。
「賛成する人がほとんどいない、大切な真実はなんだろう?」
学校では誰もが賛成する常識しか教わりません。だからこの問いに答えるのは知的にも心理的にもきつい。でも、その答えの中にこそ「隠れた真実」がある。
重要なのに、まだ多くの人が気づいていない真実です。ティール氏はこれを「自然が語らない真実」(科学や数学の未解決領域)と「人が語ろうとしない真実」(社会のタブーや見過ごされた領域)に分けます。
エアビーアンドビーが良い例です。ホテルしか選択肢のない旅行者と、空き部屋を貸したい所有者を結べば巨大な需要が眠っている――いま思えば誰でも思いつきそうなこの真実を、創業者は先に見つけた。
当たり前の風景の中に、お金の鉱脈が隠れていたのです。誰もが「いいね」と即答するアイデアは、もう常識であり競争が激しい。本当の機会は、人が見ていない場所に隠れています。
そして最後に、技術者が陥りがちな落とし穴を本書は突きます。「良いものを作れば人は勝手にやってくる」というシリコンバレーの信仰は幻想だ、と。どんなに優れた製品でも、届ける仕組みがなければビジネスは失敗する。
エンジニアが営業を見下しがちなのは、営業の巧みさが「見えない」ように設計されているからだ、というティール氏の指摘は痛烈です。判断基準はシンプルで、ひとりの顧客から得られる生涯利益(CLV)が、その顧客の獲得コスト(CAC)を上回ること。
バイラルから対人営業まで、自社に合う販売チャネルを一つでも確立できれば、ビジネスは回り出します。さらにティール氏は、コンピュータを人間の代替ではなく補完と捉えよと言う。
AIが仕事を奪うという恐怖が語られがちな今こそ、データ処理は機械に、複雑な判断は人間にという分業観は示唆に富みます。両者を競わせるのではなく組み合わせたとき、最も価値あるビジネスが生まれる――この一節は、本書が単なる起業論を超えて、技術と人間の関係をめぐる思想書でもあることを教えてくれます。
正直に言えば、本書は再現性のある起業マニュアルを期待する人を裏切ります。法則集ではなく思考の訓練書だからです。今ある事業の改善や効率化だけが目的なら相性は良くないかもしれません。
けれど、同じ土俵で競うことに疲れた人、分散させて何も突き抜けなかった人には、視点を一段ずらす強い処方箋になります。本書を貫くのは「人生は宝クジじゃない」という一行――未来は運ではなく意志でつくれるという信念です。
明日できる小さな一歩は、たぶんこれです。みんなが正しいと言うことを一つ選び、本当にそうかと自分の頭で疑ってみる。そこからしか、ゼロは1になりません。
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『ピーター・ティール』トーマス・ラッポルト氏 本書の著者ティール氏の半生と思想を、評伝の形で描いた一冊です。「競争は負け犬のすること」という哲学がどう形成されたのか、人物の側から理解したい人に。
「ゼロから1を生み出す」という思考法 同じくティール氏の起業家マインドに焦点を当てた記事です。本書の網羅版に入る前に、ゼロイチ思考の輪郭をコンパクトにつかみたい人に向いています。
「良いアイデア」で起業した人が、だいたい失敗する理由 本書が「誰もが称賛するアイデアほど競争が激しい」と説いたのと響き合う一本です。隠れた真実から始めることの大切さを、起業の失敗パターンから逆照射したい人に。
