「認知症になったら、もう何もわからなくなる」。
その言葉を、私たちはほとんど反射のように口にする。本人は何も感じない、別人になってしまう、だから接し方を考えても無駄だ——そんな前提が、知らないうちに社会の空気に溶け込んでいる。本書はその前提を、いちばん覆しにくい人物が覆していく一冊だ。
著者の長谷川和夫さんは、医療現場で半世紀以上使われてきた認知機能検査「長谷川式簡易知能評価スケール」の開発者である。認知症医療を牽引してきた精神科医、いわば「診断する側」の頂点にいた人だ。その人が88歳で、自らも認知症であることを公表した。
診断する側から、される側へ。立場が反転して初めて見えた景色を綴ったのが本書である。タイトルの「やっと、わかった」には、半世紀その病と向き合ってきた専門家ですら、当事者になるまでわからなかったことがある、という静かな衝撃が込められている。

なぜいま、当事者の言葉が必要なのか
本書を「高齢者と介護者だけの本」と読むのは、たぶん間違っている。
2025年には高齢者の5人に1人が認知症になると推計されている。長生きが当たり前になった社会では、これは特別な誰かの話ではなく、自分か、自分の親か、配偶者か、いずれにせよ高い確率で向き合う未来の話だ。
しかも本書は医学書ではない。専門用語で病態を説明する本ではなく、当事者から家族や介護者へ宛てた「接し方の手紙」に近い。検査をしていた人間が検査される側に回って何を感じたか——これは現場のマニュアルには絶対に載らない視点で、だからこそ読む価値がある。
別人にはならない。昨日の続きが、そこにいる
本書でいちばん心を打たれたのが、ここだった。
著者は、認知症になっても人は突然別人にはならない、と言い切る。昨日まで生きてきた続きの自分が、そこにいるのだ、と。喜怒哀楽の感情も、その人らしさも、最後まで残る。
「そもそも認知症になったからといって、突然、人が変わるわけではありません。昨日まで生きてきた続きの自分がそこにいます。」
私はこの一文を読んで、自分がどれだけ雑な思い込みを抱えていたかに気づかされた。「もう何もわからない」と決めつけた瞬間、私たちは目の前の人を一人の人間として扱うことをやめてしまう。その諦めこそが、当事者をいちばん傷つける。
さらに著者は、専門医ですら誤解していた事実を打ち明ける。それは、症状が固定したものではない、ということだ。
著者は長年、認知症になれば状態は一定で変わらないと信じていた。ところが自分が当事者になってみると、朝は調子がよく、夕方になると疲れて混乱が増す。
その日その時の心身の具合で、症状は良くも悪くも揺れ動く。世界的権威にとってのこの発見が、「やっと、わかった」という言葉の重みを支えている。
認知症は「病気」ではなく「暮らしの障害」
では、認知症とは何なのか。著者の答えは教科書とは違う。本質は「暮らしの障害」だ、と言う。
朝起きて顔を洗い、ご飯を食べ、掃除や洗濯をする。当たり前にできていた日常が、少しずつできなくなっていく。本人と家族にとっての最大の困難は、検査の点数ではなく、この生活そのものの揺らぎなのだ。
ここに希望がある。「暮らしの障害」なら、周囲の接し方や環境の工夫で、その程度をずいぶん和らげられるからだ。病気として絶望するのではなく、暮らしの問題として手を打てる余地が生まれる。
本書はこの見方を「ニューカルチャー」と呼ぶ。認知症を脳の恐ろしい病気として疾患中心に捉える従来の見方が「オールドカルチャー」。それに対し、認知症をその人の暮らし全体に関わるものとして全人格的に捉え、ケアの質次第で状態が変わると考えるのが「ニューカルチャー」だ。
この発想の源流は、イギリスの心理学者トム・キットウッドが提唱した「パーソン・センタード・ケア(その人中心のケア)」にある。病気ではなく、まず「人」を見る。著者はこの理念に深く共鳴し、日本に広めようと尽力してきた。
考えてみれば、これは認知症に限った話ではない。私たちは病名や肩書きや属性で人を判断し、その人そのものを見落とす。「まず人ありき」という姿勢は、介護の外側でも通用する普遍的な構えだと思う。
「待つ」とは、自分の時間をその人に差し上げること
その人中心のケアを、具体的にどう実践するのか。本書には現場で使える接し方が数多く記されているが、最も印象に残ったのが「待つ」ことだ。
「聴くというのは待つということ。そして待つというのは、その人に自分の『時間を差し上げる』ことだと思うのです。」
認知症の人は、理解や応答に時間がかかる。そこで周囲が先回りして「こうしましょう」と答えを出すと、本人は置いてきぼりになる。だから言葉が出るまでゆったり待つ。待つこと自体が、相手に時間という贈り物を手渡す行為なのだ。
この発想の転換が鮮やかだ。普段、私たちは「待たされる」ことを損だと感じる。だが著者は、待つ側こそが時間を「差し上げている」と捉え直す。すると沈黙は気まずさではなく、相手への敬意の形に変わる。
決めごとの場面についても、著者の姿勢は一貫している。本人抜きで物事を決めないでほしい、置いてきぼりにしないでほしい、と。だから「今日は何をしましょう」ではなく「今日は何をなさりたいですか」と尋ねる。自発性と選択を尊重し、子ども扱いせず、一人の大人として接する。
具体的なコツも実用的だ。伝えるときは一度に一つだけ——「顔を洗って着替えて」とまとめず、一つ済んでから次を渡す。役割を奪わない——料理や得意な作業など、小さな役目を担ってもらうことが尊厳を保つ。
そして、騙さない。忘れるからとごまかすのは厳禁だ。著者は、認知症になっても「尊厳をもって扱われていない」ことだけは確実に伝わる、と警告する。
「100から7を引いて」は計算テストではなかった
著者が開発した長谷川式スケールの舞台裏も興味深い。きっかけは恩師の「見立てが昨日と今日で違ってはいけない。診断の物差しをつくりなさい」という言葉で、1974年に検査が生まれた。
有名な「100から7を順番に引いてください」という質問。多くの人はこれを計算力のテストだと思っている。だが本当の狙いは別にある。
引く数を7にしたのは、3や5では易しすぎるから。そして「93」と答えた後に「そこからまた7を引いて」と続けるのが正しいやり方だ。93という数字を記憶に保ちながら引き算をする——つまり注意を二つに分ける高度な作業ができるかを見ている。
これは計算力ではなく「注意力の分割」を測る検査なのだ。
著者は、点数を出すだけのツールとして使うなと釘を刺す。何を見ているのかを理解して使え、と。さらに検査は、患者のプライドを傷つけないよう上からではなく「お願いする」姿勢で行うべきだと説く。診断される側に回って、その大切さを改めて噛みしめたのだろう。
認知症にもいろいろある。中には「治る」ものも
ひとくちに認知症といっても種類がある。最も多いのがアルツハイマー型で約6割。次に脳梗塞や脳出血で起こる脳血管性で、かつての日本ではこちらが最多だったが、生活習慣病予防が広まり、いまはアルツハイマー型が一番になった。
ほかに、幻視やパーキンソン病に似た症状が出るレビー小体型、人格の変化や社会性の低下が見られる前頭側頭型などがある。著者自身が診断されたのは「嗜銀顆粒性認知症」。80代以降に現れやすく、進行が緩やかなタイプだ。
意外なのは、治る認知症もあること。「正常圧水頭症」は脳脊髄液が溜まって脳を圧迫する病気で、手術で治療できる。「認知症は治らない」という常識は、必ずしも正しくない。
予防についても率直だ。最大の危険因子は加齢で、これは避けられない。ただ発症を遅らせることはでき、高血圧や糖尿病、運動不足、喫煙に気をつけることが役立つ。
WHOは65歳以上に週150分の中程度の有酸素運動を勧める。一方、ビタミンBやEなどのサプリメントはリスク低下の効果が確認されておらず推奨されない、と冷静に線を引く。
車の運転だけは、絶対にやめる
社会との関わりで、著者が一点だけ強く警告するのが運転だ。クルマの運転だけは絶対にやめたほうがよい、と妥協なく断言する。事故で他人を傷つける恐れがあるからだ。
車好きだった著者自身、80歳の頃に車体をこすったことを機に「これはいけない」と判断し、未練を残さず免許を自主返納した。自分の言葉に、自分の行動で責任を取っている。
2018年のデータでは、検査を受けた75歳以上のドライバーの約27%に認知機能の衰えが認められたという。決して他人事の数字ではない。
「いま」を生きる。死を、上手に受け入れる
本書がいちばん深いところで語るのは、死生観だ。
著者は、認知症を神経細胞が壊れていく恐ろしい病気として治そうとあがくのではなく、老いの一部として受け入れる道を選ぶ。ありのままを受け止め、自分らしく生きる。そのうえで、過去の後悔にも未来の不安にもとらわれず、「いま」という時間を大切にすると言う。「生きているうちが花」だ、と。
「明日やれることは今日手をつける」。映画や音楽、絵といった美しいものに触れて感情を満たす。信仰が安心の支えになる。こうした小さな実践が、不安の中の著者を静かに支えている。
認知機能や感情が壊れていっても、いちばん深いところに残る「その人らしさ」がある。それを支えるのがスピリチュアル・ケアだと著者は言う。だからこそ、重い認知症になっても、その人の尊厳が失われることはない。
ここで思い出したいのが、本書の歴史的背景だ。かつて認知症は「痴呆」と呼ばれ、座敷牢に閉じ込められた時代があった。有吉佐和子の小説『恍惚の人』が「何もわからない恐ろしい人」という偏見を広めた面もある。
そこから2004年の「認知症」への呼称変更を経て、いまの「共生」の時代へ。本書は、その日本の認知症史の総決算とも言える一冊だ。
おわりに——明日からできる、小さな実践
この本を読んで、認知症への怖さが少しほどけた。別人になるのではなく、昨日の続きの自分がそこにいる。症状は揺れ動くし、接し方で軽くもなる。何より、感情も尊厳も最後まで残っている。
最後に、本書の知恵を今日からの行動に落としておきたい。どれも認知症の人に限らず、誰かと向き合うすべての場面で効く。一つ、相手が言葉に詰まったら先回りせず黙って待つ。
二つ、決めごとは本人を抜きにせず「何をなさりたいですか」と先に聞く。三つ、役割を奪わず、得意で安全にできることを一つお願いして「ありがとう」と伝える。
診断の物差しをつくった人が、診断される側になって、それでも「生きているうちが花」と書く。その静かな強さが、いちばん心に残った。認知症は、いつか自分や大切な人が通る道かもしれない。そのとき、目の前の人をどう待ち、どう敬うか。その答えのヒントが、この遺言には確かに詰まっている。
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