スーパーの棚に、ボディ用の固形石鹸が並んでいます。
洗浄力で比べれば、大手ブランドも無名ブランドもほとんど差はありません。なのに、レモンやラベンダーを思わせる色合い、美しいパッケージ、深呼吸したくなる香りを持つ石鹸には、人は何倍もの値段を払う。
機能はほぼ同じなのに、選ばれるものと、選ばれないものがある。この差はどこから来るのか。
本書『ハーバードの美意識を磨く授業』は、その差の正体を「美意識(Aesthetic Intelligence)」という言葉で説明します。著者のポーリーン・ブラウン氏は、LVMH(モエ ヘネシー・ルイ ヴィトン)の北米地域社長を務めた人物。
ハーバード・ビジネス・スクールで行った講義をまとめたのが本書です。監訳は『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』の山口周さん。
著者の主張は明快です。AIが論理的な処理を肩代わりする時代に、人間に残る最後の武器は美意識である。そしてそれは才能ではなく、筋肉のように鍛えられるスキルだ、と。

「役に立つ」がデフレし、「意味がある」がインフレする
本書を一言でまとめると、価値の源泉が「機能」から「情緒」へ移っている、だから感性を磨いた者が勝つ、という話です。
監訳者の山口周さんは、いま美意識が必要になった理由を5つの観点で整理しています。これが本書全体の土台なので、まず押さえておきたい。
ひとつ目は「正解の無価値化」。かつては問題が多く正解が希少だったので、正解を速く出せる人が優秀とされた。ところが普遍的な問題の多くは解消され、いまや正解は過剰供給ぎみです。
これからは「新しい問題を発見・提起する力」が要り、それには「何かが美しくない」と感じる感性が要る。ふたつ目は「論理的スキルの限界」。論理的・分析的な処理は誰がやっても同じ正解に行き着くため、突き詰めるほど差別化が消えていく。
三つ目が「全産業のファッションビジネス化」で、人々の欲求が生存・安全から自己実現へ移った結果、消費は「自分らしさを表現する記号」の側面を強めている、という見立てです。
そして四つ目が、本書全体を貫く軸になります。「役に立つ(利便性)」がデフレし、「意味がある(情緒)」がインフレする。薪ストーブや真空管アンプのように、不便でも豊かな情緒をもたらすものに、人はかえって高い対価を払うようになった。
五つ目が「AIとの仕事の奪い合い」です。著者は「人工知能に奪われない仕事は何か」と問い、それは創造的要素のある職業であり、そのために最も重要なのが美意識だと答えます。
私がこの本に惹かれたのは、これが「センスのある人」を称える本ではない、という一点でした。むしろ、論理や正解で勝負してきた真面目な人に向けて「あなたが軽視してきた感性こそ、これからの戦場だ」と言ってくる。
データ分析を突き詰めても最後の差別化で行き詰まる人、提案資料がスペックの羅列になって相手の心が動かない人にこそ、刺さる構造になっています。
美意識は才能ではなく、鍛えられる「第二のAI」
ここが本書の希望のある部分です。
著者は美意識を「第二のAI(Aesthetic Intelligence)」と呼びます。ある物事や経験から引き起こされた感覚や感情に気づき、それを洞察をもって解釈し、わかりやすく表現する力のこと。そしてこう言い切ります。
美意識は磨くことができる。誰もが美意識を持っているが、十分に発揮されていない。
ポイントは、これが生まれ持った才能ではなく、意識的に感覚を研ぎ澄まし、良質なものに触れる経験を積めば誰でも習得できる、と断言している点です。「自分にはセンスがない」と感性の領域を最初から諦めてきた人にとって、この一文は入口の扉を開けてくれます。
著者自身の原体験も、特別な天才の話ではありません。10歳のとき、パナソニックのカセットレコーダーのデザインに魅了されたことが美意識の目覚めだった、と語られます。出発点は、誰の中にもある小さなときめきなのです。
「中身で勝負」という思い込みを、静かに崩す
なぜ感性がそこまで効くのか。著者ははっきりした数字を出します。消費者が購入を判断するとき、その動機の約85%は感覚や感情によるもので、合理的な判断はわずか15%にすぎない。
多くのマーケターが機能の宣伝に力を注いでいるのに、買い手はそこをほとんど見ていない、というのです。
人は、複数の感覚が刺激され、感情を揺り動かされた時に、魅惑される。
だからこそ、視覚だけでなく触覚・嗅覚・聴覚・味覚を含めた「感覚マーケティング」が効いてくる。五感は単独ではなく、相互に作用します。
私が一番うなったのは、嗅覚をめぐる逸話でした。ロールス・ロイスが内装の一部を木材からプラスチックに変えたところ、車内の「匂い」が不評になり売り上げを落とします。
そこで嗅覚の専門家を雇い、旧車種の木の香りを再現した香料を開発して新車に塗布した、というのです。スターバックスも、朝食用サンドウィッチの匂いがコーヒーの香りを損なって売り上げが落ち、販売を中止して匂いの出ないサンドを作り直しました。
味覚もまた意外な仕組みで動いています。「舌で味わっている」と感じているうちの8割は、実は匂いとして感知している。同じワインでもグラスの形を変えれば味わいの複雑さが増す。
私たちは「中身で勝負」と思いがちですが、その中身の感じ方そのものが、五感の演出で書き換わってしまう。知覚は驚くほど環境に依存しているわけで、これは作り手にとって、けっこう重い事実です。
ビジネスに落とす三つの鍵──コード、引き算、言語化
著者は、美意識をビジネスに定着させるための鍵を三つ提示します。
ひとつは「ブランドコード」。ロゴを隠してもそのブランドだとわかる識別子のことで、ティファニーのブルー、エルメスの馬車、シャネルのツイードが典型です。
ティファニーのブルーはパントン色見本帳の特定の番号で定義され、スターバックスのロゴのマーメイドは尾が2本ある。ここまで具体的だからこそコードとして機能する。
面白いのは、優れたコードは人工的に設計されたものというより、創業者の信念や個人的な好みから有機的に育っていく、という指摘です。ココ・シャネルが恋人の服から着想してツイードを使い始めた逸話がまさにそれ。
一方で、オレンジの三角屋根で親しまれたレストランチェーン「ハワード・ジョンソン」のように、コードが時代とズレて衰退する例もある。コードは強みであると同時にリスクでもあります。
もうひとつが「キュレーション」、引き算で価値を生む技術です。選択肢は多いほど良さそうに見えて、実は逆。多すぎると人は決められなくなり、選んだ後の満足度まで下がる。
本書はこれを数字で示します。P&Gがシャンプー「ヘッド&ショルダー」を26種類から15種類に減らしたら売上が10%伸び、ある猫用トイレ用品メーカーが不人気な10種類をやめたら利益が87%も増えた。
シーナ・アイエンガーの研究でも、退職プランで提示するファンドを2つにしたときの加入率は約75%、50に増やすと約60%に下がりました。選択肢を削ることが、そのまま付加価値になるのです。
そして「アーティキュレーション」、感じたことを言葉にする力。どれだけ優れたデザインを生んでも、その価値を言葉にできなければ届かない。「よい」「おいしい」では何も伝わらず、「快活な」「ゼリー状の」といった具体的な言葉で、製品を使うときの情景や感情を相手にありありと想像させよ、と説きます。
個人のスタイルについては「4つのC」――明快さ(clarity)、一貫性(consistency)、創造性(creativity)、自信(confidence)――を満たしているかをセルフチェックできる、とも。
自分にしっくりくる服装を身につけるためには、決断しないといけないことがいくつもある。そこに正解、不正解はないが、唯一の正しくないことといえば、自分の身につけるものに全く気を配らないことだ。
気を配らないこと自体が、唯一の失敗。これは服に限らず、自分の発信や仕事全般に通じる言葉だと思います。
どんな人に効くか、そして今日からできること
正直に言えば、本書は誰にでも完璧にフィットするわけではありません。事例の多くがラグジュアリーブランドやアパレル、飲食業に寄っているため、BtoBの仕事にそのまま流用しようとすると、読者の側で一段抽象化する手間が要ります。
すでに五感や情緒を意図して設計している人には、既知の話も多いでしょう。
それでも、論理や正解で勝負してきて「機能だけでは選ばれなくなった」と感じ始めた人、AI時代に人間に残る武器を才能ではなくスキルとして鍛えたい人には、強くおすすめできます。
鍛え方は拍子抜けするほどシンプルです。次にレストランや店舗に入ったら、スマホを置いて数分だけ五感に集中し、「なぜこの空間は居心地が良い(または悪い)のか」を視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚の要素に分解してメモする。
日常で使うアイテムから、心がときめくものと苛立つものを一つずつ選び、その理由を深掘りして自分の好みの根底にある価値観を言葉にする。どれも「意識を向ける対象を変える」だけの行動で、才能はいりません。
美意識は、そんなことよりもはるかに重要なもの、ビジネス戦略上、必要不可欠な要素だ。
美意識は、感度のいい人の趣味ではなく、戦略である。その立場から書かれた一冊です。本書を閉じたあと、その小さな習慣から、あなたの「第二のAI」は静かに鍛えられていきます。
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『センスは知識からはじまる』水野学さん 本書が「読後に読むべき一冊」として推薦しています。美意識は鍛えられると知った次に、では何を、どうインプットして基準を作るのかを学べます。
水野学×山口周『世界観をつくる』 「役に立つ」の先にある価値創造を扱った一冊。本書の核である「機能から情緒へ」というシフトを、別の角度からさらに深掘りできます。
『右脳思考』内田和成さん ロジカルシンキングの限界とその先を論じた本。本書の「論理だけでは差別化が消える」という主張と響き合い、論理と直感の使い分けが具体的につかめます。
