気になるホテルを予約する直前、あなたの指はどこで止まるでしょうか。
旅行代理店が用意したつやのあるパンフレットではなく、たいていは口コミサイトで見知らぬ誰かが残した★の数や、友人が旅先で撮った一枚の写真ではないでしょうか。企業がいくら「最高の眺望」と言葉を尽くしても、他人の一言のほうが強く背中を押す。
この「広告よりも、名前も知らない他者の声を信じる」という一見ささやかな逆転こそ、マーケティングの大家フィリップ・コトラー氏が本書で突きつけた地殻変動です。
『コトラーのマーケティング4.0 スマートフォン時代の究極法則』は、コトラー氏とヘルマワン・カルタジャヤ氏、イワン・セティアワン氏の三人による、デジタル経済の実践書。
前作『3.0』が「人間中心」という理念を掲げたのに対し、本書はそれをスマホ、SNS、IoTという現実の道具でどう回すかへと踏み込んでいます。
この記事では、本書が描く新しい地図を、フレームワークごと持ち帰れるように編集部の視点で組み直します。

マーケティングはなぜ「4.0」まで来たのか
本書はマーケティングの歴史を四段階で捉えます。製品をいかに売るかの「1.0」、顧客を満足させる「2.0」、人間の精神や価値観に訴える「3.0」、そしてデジタル経済に適応する「4.0」。番号が進むほど、企業の視線は「モノ」から「人の心」へと移動してきました。
4.0の定義そのものはシンプルです。企業と顧客のオンライン交流とオフライン交流を一体化させ、認知から推奨までの道のりで顧客を案内すること。
ここで著者が繰り返す逆説が鋭い。ハイテクの世界に生きる人ほど、ハイタッチ(人間的な触れ合い)を強く求めるというのです。
自動化やアルゴリズムが進むほど、最後の決め手は温度のある対応になる。だから最良の顧客体験は、オンラインの便利さとオフラインの温かさが両方そろったときに立ち上がります。
デジタルかリアルかを二者択一で迫る議論が多いなかで、本書が一貫して「融合」の側に立つのは、読み手にとって安心できる出発点になります。
権力は「縦」から「横」へ流れ落ちた
本書がまず提示するのは、ビジネスを取り巻く三つのパワーシフトです。
ひとつ目は「排除から包摂へ」。経済や政治の力が、覇権国家から新興市場や多様な層へと分散していく流れです。インドやインドネシア、中国の起業家が、アマゾンやウーバーをヒントに自国版サービスを次々と立ち上げた事実が、その象徴として引かれます。
ふたつ目は「縦から横へ」。かつてイノベーションは企業から市場へと縦に降りていましたが、今は逆に、市場がアイデアを供給し企業がそれを形にします。P&Gが社内開発の限界を認め、外部からアイデアを募る「コネクト・アンド・ディベロップ」へ舵を切った例が、その転換をよく表しています。
みっつ目は「個人から社会へ」。購買の決め手が、自分の好みから社会のつながりへと移りました。本書はこのつながりを「Fファクター」と呼びます。友達(Friends)、家族(Families)、フェイスブックのファン(Fans)、ツイッターのフォロワー(Followers)。
ニールセンの60カ国調査では、回答者の83%が友人や家族を最も信頼できる「広告」源だと答えたといいます。企業がどれだけ言葉を重ねても、Fファクターの一言には勝てない。
この非対称性を直視することが、本書の起点です。
つながった顧客が抱える三つのパラドックス
接続性が高まった結果、マーケターは三つの矛盾と向き合うことになります。
ひとつ目は、すでに触れたオンラインとオフラインの補完関係。ふたつ目は「情報を持つ顧客 対 注意力散漫な顧客」です。人はかつてないほど情報にアクセスできるのに、その洪水ゆえに注意が続かない。
人間の平均的な注意持続時間は、2000年の12秒から2013年には8秒へ落ちたと本書は紹介します。だから人は自力で調べきることをあきらめ、集合知にすがるようになる。
みっつ目がとりわけ面白い。「批判的な意見 対 好意的な意見」です。ブランドへの批判は普通、避けるべき害だと思われています。ところが本書は批判が表明されなければ、好意的な意見もまた表に現れないままになると言い切ります。
マクドナルドは好きが33%、嫌いが29%で拮抗し、スターバックスも30%対23%で割れている。それでも、否定の声があるからこそ、好きな人が熱を帯びて擁護に回る。
批判はファンを目覚めさせる必要悪だという捉え方は、炎上を過度に恐れる現場への処方箋になります。
デジタル時代の主役はYWN
では誰を狙うのか。本書の答えは「YWN」、若者(Youth)、女性(Women)、ネティズン(Netizen)です。これまでマイノリティ扱いされてきた層こそ、デジタル経済で最大の影響力を持つと著者は説きます。
若者は新製品をいち早く試すアーリーアダプターであり、トレンドの発火点です。彼らを押さえることは「マインドシェア」を取ること。アップルが2001年にiPodを若者向けのトーンで世に出し、そこから主流市場へ広げた例が引かれます。
女性は買い物のたびに徹底的に調べる「ホリスティック・ショッパー」であり、家庭の財布を握る存在です。彼女たちは「市場シェア」のカギ。インドネシアでは働く女性が51%にすぎないのに、約74%の女性が家計を取り仕切っているという数字が、その決定権の重さを裏づけます。
ネティズンはネット上で活発につながり、ブランドの伝道者になる人々。彼らは「ハートシェア」のカギです。匿名性ゆえに無責任にもなりますが、その匿名性が逆に、リスクを気にせず熱烈に推奨する土壌にもなる、という両義的な指摘が誠実です。
4Pは4Cへ、AIDAは5Aへ
接続性は、教科書のフレームワークそのものを書き換えます。戦術の定番だった4P、製品・価格・流通・プロモーションは、本書では4Cへと進化します。
顧客を巻き込む共創(Co-creation)、需要で揺れる通貨(Currency)、シェアリング型の共同活性化(Communal activation)、双方向のカンバセーション(Conversation)です。
そして本書の中心が、新しいカスタマー・ジャーニー「5A」。直線的なAIDA型に代わり、認知(Aware)でブランドを知り、訴求(Appeal)で少数に惹かれ、調査(Ask)で積極的に調べ、行動(Act)で買って使い、推奨(Advocate)で他人に勧める、という五段階で顧客を捉え直します。
肝は、この流れが直線ではないこと。段階を飛ばしたり、後戻りして螺旋を描いたりする。そして終着点が「購入」ではなく「推奨」に置かれている点が決定的です。テスラのように、実際に買える人は少なくても「あの車はすごい」と語る推奨者が大量にいる状態こそ、現代の理想だというわけです。
蝶ネクタイ型は、認知した人が全員推奨し、惹かれた人が全員が買う、完璧な状態を指す。(本書より要旨)
5Aを進ませる力を、本書は「Oゾーン(O3)」と呼び三つに分けます。企業が出す外的(Outer)影響、友人や口コミによる他者の(Others)影響、過去の経験に基づく自身の(Own)影響。
今日の顧客は、自分の判断や企業の広告よりも、他者の影響に最も強く動かされる。だからこそ著者は、顧客間の会話は広告に頼らず認知を築く低コストのレバレッジだと書きます。
PARとBARで「詰まり」を数字にする
自社が今どの型かを知るために、本書は産業を四つに分類します。調べずに買うドアノブ型、徹底的に調べる金魚型、買う人より勧める人が多いトランペット型、順に通り抜ける漏斗型。目指すのは、認知と推奨がぴたりと重なる蝶ネクタイ型です。
そして詰まりを可視化する独自指標がPARとBAR。PAR(購買行動率)は認知者のうち実際に買った割合、BAR(ブランド推奨率)は認知者のうち自発的に勧めた割合です。
著者はこれを財務のデュポン分析になぞらえ、ROEを分解するように各段階のコンバージョン率へ切り分けます。訴求は強いのに調査で落ちている、といったボトルネックが浮かべば、あとはそこへ予算を寄せればいい。
無駄なマス広告を削り、顧客の疑問に答えるコンテンツへ投資を移す判断が、勘ではなく数字でできるようになります。
広告ではなく、コンテンツと「ワオ!」で語らせる
ボトルネックの多くは、一方的な広告では解けません。そこで本書が押すのが、人間らしいブランドとコンテンツ・マーケティングです。ブランドが友人のように振る舞うための特性として、身体的魅力・知性・社交性・感情性・パーソナビリティ・道徳性が挙げられます。
完璧を装うより、弱点も正直に見せるブランドが信頼される。パタゴニアが自社製品の環境負荷を公開し、ドミノ・ピザが「うちのピザはおいしくない」という声を広告にして改良した勇気が、その証拠です。
コンテンツは新しい広告になり、ハッシュタグはタグラインの役目を果たす。企業はプロモーターからストーリーテラーへ変わるべきだという主張は、GEがSFポッドキャストで科学を届けた例に裏打ちされています。
最後の鍵が「ワオ!」。予期せぬ驚きから生まれ、個人的で、伝染していく体験です。リッツ・カールトンが、子どもが置き忘れたキリンのぬいぐるみに「休暇を楽しんでいる証明書」を添えて送り返した話が典型で、マニュアルを超えた一手が顧客を自発的な伝道者へ変えます。
オムニチャネルの整備で買い手の価値が単一チャネルの8倍になったという報告も、統合の効果を後押しします。
明日、ひとつだけ動くなら
本書を読むと、マーケティングのゴールが静かに移動していることに気づきます。かつての終着点は「買ってもらう」ことでした。本書の終着点は「語ってもらう」ことです。買った人を、次の誰かに勧める伝道者へ育てられるか。デジタル時代のレバレッジは、そこに集約されます。
まず自社の5Aを紙に書き出し、どの型に近いか、どこで顧客が詰まっているかに印をつける。次にKPIへPARとBARを加え、脱落地点を数字で押さえる。そのうえで広告予算の一部を、顧客の疑問に答える一本のコンテンツへ振り向けてみる。
そして最も軽い一歩は、あなた自身が最近「これは良かった」と思った商品を、ひとことSNSに書いてみることです。その小さな推奨が、いま企業のマーケティングを動かしている当事者の感覚を、あなたに教えてくれます。
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『コトラーのマーケティング5.0』フィリップ・コトラー 本書4.0の正統な続編です。4.0で示した人間中心のアプローチを土台に、AIやIoTといったテクノロジーで顧客体験をどう革新するかへ進むので、デジタル戦略の最新形まで一気に追えます。
『ジョブ理論』クレイトン・クリステンセン 本書が説く「顧客の潜在的な不安や欲求を理解する」というテーマを、さらに実践に落とすための一冊。顧客がなぜその行動をとるのか、どんな用事を片付けたいのかを深掘りする視点が、5Aの「調査」段階の設計に効きます。
『THIS IS MARKETING』セス・ゴーディン 広告で押し込むのではなく、特定の小さな市場に深く刺さる思想が本書のFファクターや推奨と響き合います。コミュニティを起点に語ってもらう発想を、もう一段深めたい人におすすめです。