『トイ・ストーリー』を作った会社が、倒産寸前だった。そう聞いて、すぐに信じられるでしょうか。
私たちはピクサーを「ストーリーを語る芸術の理想郷」だと思っています。でも、その内側には、毎月の給料すら危うい財務の現実がありました。
本書は、元CFO(最高財務責任者)のローレンス・レビー氏が、その内側から書いた記録です。スティーブ・ジョブズ氏に誘われ、赤字とディズニーとの不平等契約に縛られたピクサーを立て直していく。アニメの作り方ではなく、お金と戦略の話です。
そして読み終えてみると、これは「逆転劇の痛快本」では終わりません。創造と数字のあいだで揺れ続けた、ひとりの財務責任者の思考の記録として、じわじわ効いてきます。

華やかさの真逆から始まる物語
この本がまず読者の先入観を壊すのは、神話化されたピクサーを徹底して「現実」から描く姿勢です。
レビー氏が初めて訪れたとき、オフィスの向かいにあったのは製油所だった。華やかさとは程遠い。財務はもっと深刻でした。著者の試算では、当時の株主価値はマイナス5000万ドル。
キャッシュも引当金もなく、毎月の不足額をジョブズ氏が個人の小切手で埋め続けていた。つぎ込んだ額は最終的に5000万ドル近くにのぼります。
事業も自立できていませんでした。看板技術のレンダリングソフト「レンダーマン」は1本約3000ドルで、定期的に使う大手スタジオは50社前後しかない。
CM制作は30秒で12万5000ドルほどかかる。どれも市場が小さすぎたり制作費がかさみすぎたりして、利益を生めなかった。レビー氏は冷徹に「利益を上げられる事業など、どこをどう探しても出てこない」と診断します。
絶望的な診断のあとに彼が漏らす一言が、本書の姿勢を決定づけます。
「お先真っ暗だと進言するために雇われたわけではない」
問題の指摘は誰でもできる。絶望的な状況でも解を見つけるのがプロだ、という構えです。この一行に痺れる人は、たぶんこの本と相性がいい。そして彼が出した結論は明快でした。残された成長の道は、映画制作そのものに賭けるしかない、というものです。
「次の一手」しか見ない思考法
もうひとつの足かせが、ディズニーとの契約でした。ディズニーが制作資金を出す代わりに、興行収益の大部分を持っていく。本書の記述では、ピクサーに入る利益はわずか約10%でした。
大ヒットを出してもほとんど自分たちのものにならない。しかも契約期間中は他社と交渉できない独占条項があり、ディズニーは単独でピクサーのキャラクターの続編を作る権利まで握っていた。
縛りは何重にも重なっていたのです。
ここで本書が突きつける逆説が面白い。私たちは「ハリウッドは創造性にあふれ、リスクを取る場所」だと思いがちです。でも実際は逆で、ハイテク業界よりも現状維持に汲々とし、リスクを極端に嫌う保守的な世界だった、と。この観察だけでも、エンタメ産業の見え方が一段変わります。
そして、不利な盤面を前にレビー氏は嘆きません。チェスの比喩でこう構えます。
「駒がいまどう配置されているのか、それを変える術はない。大事なのは、次の一手をどう指すか、だ」
変えられない過去ではなく、次の一手に集中する。本書を貫くこの思考法は、規模を縮めれば私たちの仕事にもそのまま効きます。理不尽な状況に腹を立てる時間を、いま動かせる一手に振り向けられるか。多くの人が「嘆く」で止まってしまうからこそ、ここに差が出ます。とはいえ、これは精神論ではありません。レビー氏の「次の一手」は、後述する具体的な事業設計として結実していきます。
ピクサーを自立させる「4本の柱」
では、その次の一手とは何だったのか。レビー氏が描いた事業戦略は「4本の柱」にまとめられます。
ひとつ目は、映画収益のピクサーの取り分を大幅に増やすこと。約10%から、ディズニーと折半できる50%以上の関係を目指します。ふたつ目は、制作費を自前で負担できるようにすること。
そのためにIPO(株式公開)で7500万ドル以上を集める。資金を自分で出せれば、ディズニーに頭を下げる理由が減るからです。三つ目は、会社の規模を広げて映画の制作本数を増やすこと。
1本に依存していては当たり外れのリスクが大きすぎる。四つ目は、ピクサーの認知度を高め、世界的なブランドにすること。誰が作った映画なのかを世間に知らせる。
肝心なのは、この4本がバラバラに並んでいるのではない点です。IPOでお金を得れば制作費を自前で出せ、本数を増やせ、交渉力が上がり、ブランドも立つ。
ひとつを動かせば他も連動し、「自立」という一枚の絵を描く。優れた戦略は個々の施策の寄せ集めではなく、互いに噛み合った構造になっている――この設計の妙が、本書の戦略パートのキモです。
公開前に仕掛けた、本書で一番スリリングな賭け
4本の柱の要が、IPOでした。そしてここに、本書で最もスリリングな決断があります。
アニメーション制作には「持越費用」という特有の重荷がある。実写映画はプロジェクトごとにスタッフを集めて解散しますが、アニメはスタッフを社員として抱え続けるため、映画を作っていない待機期間でも多額の給与が出ていく。
しかも映画ビジネスは過酷です。本書が引く1986年のデータでは、劇場用映画は10本のうち6〜7本が採算割れ、1本がとんとん、利益が出るのはわずか2本だけ。
実績ゼロのピクサーが巨額を調達するのは至難の業で、投資銀行には門前払いも食らっています。
それでもレビー氏とジョブズ氏は、『トイ・ストーリー』の公開「前」にIPOを仕掛けます。ヒットが証明される前に動く、という賭けです。背景には、ネットスケープのIPO初日に時価総額が20億ドルを突破した市場の熱狂があった。
彼らはわざわざ確実性を待たず、その追い風が吹いているうちに勝負へ出たのです。
結果は劇的でした。当初12〜14ドルとされた公募価格は最終的に22ドルまで引き上げられ、上場初日の終値は39ドル、時価総額は15億ドル弱に達します。
調達額は約1億5000万ドル。この日、ジョブズ氏はビリオネアになりました。4本の柱の2本目が、現実になった瞬間です。しかも肝心の『トイ・ストーリー』も、公開週末にジョブズ氏の目標1500万〜2000万ドルを超える約3000万ドルを記録し、北米興行収入は最終的に1億9200万ドル弱。
賭けは二重に当たりました。冷静な財務家のレビー氏が、なぜこの一点では大きなリスクを取れたのか。その判断の組み立てを追うだけでも読む価値があります。
クリエイティブには口を出さない、という異例の決断
個人的に、この本でいちばん唸ったのはここです。財務と戦略で会社を支えるレビー氏とジョブズ氏が、もうひとつ下した決断――クリエイティブな判断には経営陣が口を出さない、現場のジョン・ラセター氏たちに完全に任せる、というものです。
これはハリウッドの常識に反していました。普通は予算や締切を握る経営陣がクリエイティブを監督する。でもピクサーは、予算やスケジュールの超過リスクがあっても介入しなかった。
その背骨にあるのが、ラセター氏の「きれいなグラフィックスは人を数分楽しませるが、人々を椅子から立てなくするのはストーリーだ」という信念です。
技術や見栄えではなく、ストーリーこそが人を動かす。レビー氏自身、『トイ・ストーリー』の初期試写で、踏まれて怪我をするプラスチックの兵隊に本気で身をすくめ、その「魔法」を体験しています。
注目したいのは、この決断がジョブズ氏自身を変えた、という著者の見立てです。尊大で人の意見を聞かないと思われていた彼が、ここでは才能を信じて判断を委ねる。著者は、この経験がジョブズ氏を「怖いオーナー」から「信頼できる保護者」へと変え、のちのアップル復帰を支えたとさえ見ています。
委譲の思想は、細部にまで一貫して流れます。古参社員の不満に応えてストックオプションの枠を広げ、さらに映画のエンドクレジットには、ハリウッドの慣例を破って財務や人事、システム管理まで、作品を支えた全員の名前を載せた。
表に出ない人を称える文化が、全社を一丸にしたのです。任せたつもりで結局口を出す――中途半端な委譲が一番士気を下げる、というのは、組織を率いる人すべてに刺さる教訓です。
成功しすぎた会社が抱えた、もうひとつの逆説
連戦連勝のピクサーは、やがて別の問題に直面します。成功しすぎたことです。
上場から5年で株価は171%上昇し、時価総額は60億ドル近くに膨らみました。素晴らしい数字ですが、レビー氏は危うさを感じていた。ここにも本書の鋭い逆説があります。
「大ヒットを出せば会社は安定する」と思いがちですが、実は逆。評価が高すぎると、わずかな失敗で株価が急落する巨大なリスクを抱える。2005年秋、ジョブズ氏との散歩で彼が口にした「株価が太陽に近づきすぎている」という比喩が、その危うさを言い当てています。
「成功すると守るものが増え、同時になにかを失ってしまう。勇気が恐れに圧倒されるのだ」
レビー氏は、この高すぎる評価を維持し続ける難しさを説き、事業の多角化かディズニーへの売却かという選択肢を示します。最終的にピクサーが選んだのは、後者でした。
買収額は74億ドル。ジョブズ氏は、かつて自分たちを縛ったディズニーの最大株主になります。逆転は、ここで完結する。決め手が「数字」ではなく、ディズニーの新CEOボブ・アイガー氏がピクサーの価値を深く理解できる相手だと「信頼できたこと」だった点に、この本の体温があります。
そして全体の底に流れるのが、レビー氏がたどり着いた「中道(ミドル・ウェイ)」という哲学です。彼はピクサーの歴史をプレートテクトニクスに例えます。
芸術的に素晴らしい物語を求める「イノベーションの圧力」と、資金調達や制作ペースといった「生存のプレッシャー」。この2つのプレートがぶつかる緊張こそが、ピクサーを世界一に押し上げた原動力だった、と。
効率と管理に倒れれば創造性が死に、創造性に倒れれば会社が潰れる。どちらにも倒れず、揺れながら踊り続けること。彼はこの緊張を、映画作りだけでなく「すばらしい生を生きるとき、すばらしい組織を作るとき」にも生まれるものだと言います。
経営書の顔をして、最後に人生論として着地してくるのが、本書のいちばんの仕掛けかもしれません。
どんな人に効くか
この本がとくに刺さるのは、創造性と数字の板挟みになっているマネージャーです。チームの自由を守りたいのに、予算と納期が首を絞めてくる。その緊張に「中道」という名前をつけられるだけで、肩の力が抜ける人は多いはずです。
赤字や不利な契約から会社を立て直したい経営者・財務担当にも、資金調達と交渉の生々しい実例として効きます。
一方で、再現可能な経営フレームワークや、アニメ制作の技術論を求める人には向きません。これはあくまで、ジョブズという特異な才能とピクサーという特殊な状況を駆け抜けた、一人称の回顧録です。そこで起きたことをそのまま自社に移植できるわけではない、という留保は持っておいたほうがいい。
私がこの本でいちばん引っかかったのは、世界一のスタジオが「お金の現実」と地続きだった、という事実です。魔法のような映画の裏に、毎月の小切手と過酷な交渉があった。
それでも本書は、お金が夢を汚すとは書いていません。むしろ現実と折り合う力があったからこそ、ピクサーは創造性を守り抜けた。中道とは、夢を現実から守る技術だったのです。
あなたの仕事にも、効率と創造性のプレートがぶつかる場所があるはずです。そのきしむ音を、どう踊りに変えるか。本書を閉じたとき、残るのはその問いです。
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