きれいな棒グラフ、整然と枝分かれしたロジックツリー、欄外まで作り込まれた企画書。会議では誰一人反対しない。なのに、業績は半年たっても一向に上向かない。
このすれ違いに心当たりがある人は、決して少なくないはずです。本書はその正体を、ためらいなくひとことで言い当てます。資料には「バケツ(入れ物)」だけがあって、肝心の「中身」がない、と。
『戦略参謀』は、稲田将人さんが書いた企業改革の物語です。郊外型の紳士服チェーン「しきがわ」を舞台に、現場あがりの若手社員が経営企画室へ放り込まれ、凄腕のコンサルタントの薫陶を受けながら、会社の低迷と泥臭い社内政治に立ち向かっていく。
理論をきれいに並べた解説書ではなく、改革の現場で実際に何が起こるのかを生々しく描いた小説仕立ての一冊です。
著者が冒頭から突きつけるのは、こういう問いです。優れた戦略を立てる方法を説いた本は世にあふれている。では、なぜその戦略は社内で実行されないのか。本書が照準を合わせるのは、立案ではなく実行の手前で会社が止まる、その理由のほうなのです。

こんな人に効く一冊
まず刺さるのは、経営企画や社長室など、トップの意思を全社へ落とし込む「参謀」の立場にいる人です。フレームワークは作れるのに、それが現場でまるで機能しない理由がわからず、夜中に資料を作り直している。そんな人にこそ効きます。
次に、形だけの会議、見栄えだけの資料、前年踏襲で出てくる予算申請。こうした「大企業病」の症状に違和感を覚えながら、どこから手をつければいいかわからないマネージャー層。
そして、経営理論は一通り学んだのに、いざ実行の段になると人の保身やプライドに阻まれてきた人。理論と実践のあいだに口を開けた溝に、何度も足をすくわれた経験がある人には、本書の手触りが響くはずです。
ほかの経営書と決定的に違う点
世の経営書の大半は「正しい戦略の立て方」を教えます。本書はそこを最初から手放し、「立てた戦略がなぜ実行されないのか」だけに焦点を絞り込みます。
著者が示すその答えは、身もふたもありません。人間の怠惰と保身、そして組織にはびこるエゴイズムです。戦略は実践され、修正されて初めて価値を持つ——どれほど美しい計画も、机上で完結したままなら一円も生まない。
当たり前に聞こえて、ほとんどの会社が実はできていない。ここを正面から扱うのが本書の独自性です。
もう一つの特徴は、物語形式であること。抽象的な命題ではなく、「ダメな会議」や「現場の抵抗」という具体的な場面を通して議論が立ち上がります。改革を進めれば必ず湧いてくる、既得権益を守ろうとする人々の幼稚なプライドや、社内を駆け巡る怪文書まで、容赦なく描かれる。
読者は理屈ではなく、現場の温度として腑に落ちていきます。
主人公が落とされた「成長の踊り場」
舞台のしきがわは、東証一部上場、店舗数350店、年間売上550億円という業界3位のチェーンです。郊外型紳士服市場で約65%のシェアを握る強者でありながら、その市場はすでに飽和しきっている。
既存店の売上は前年を割り続けている。それでも全社の数字がかろうじて維持できているのは、新規出店で上から数字を積み増しているからにすぎません。実質の収益性は大きく落ちている。これが本書のいう「成長の踊り場」です。
問題は数字だけではありません。急ピッチの大量出店で、十分な教育を受けないまま現場に立つ若手店長が増えた。かつての強みだった一子相伝式の提案販売は失われ、販売員は顧客に言われたものを棚から出すだけの「自動販売機」になっていた。組織の筋肉そのものが衰えていたのです。
なぜ、かつて急成長した会社がこうなるのか。著者は、企業の成長はS字曲線を描くと説明します。試行錯誤の末にブレイクスルーをつかんで一気に伸び、ある規模で必ず踊り場を迎える。
ここで低迷が長引くと、社内に疲弊感とマンネリが広がり、謙虚さを失って大企業病へ転落していく。第2、第3のS字を描き直すには、それまでとは別の仕組みが要る——ここから物語が動き出します。
戦略参謀とは、創業者の頭脳を組織で再現する装置
その「別の仕組み」の中核に据えられるのが、本書のタイトルでもある「戦略参謀」、すなわち経営企画の機能です。
成功した創業者は、いったい何をしていたのか。著者の見立てはこうです。自分が納得いくまで情報を集め、仮説を立て、実行し、結果を検証し、また修正する。
この一連を、たった一人で高速かつ高精度に回していた。市場の突破口を謙虚に探りながら、自らの判断で事業という乗り物を引っ張っていた、と。
ところが会社が大きくなると、この芸当を一人で担いきれなくなる。だから分業する。創業者が頭の中だけでやっていた「仮説と検証」のプロセスを、組織として肩代わりするのが参謀の役割です。属人的な天才を、再現可能な機能へ翻訳する仕事だと言い換えてもいい。
ここで著者があえて釘を刺すのが、参謀は決してエリート集団ではない、という点です。トップと並んで「そもそも何に取り組むべきか」を真剣に考え、社内の声を吸い上げてまとめるパイプ役になる。
トップの意思を具体化し、会社が永続的に発展していく文化と仕組みをつくる。それが本来の務めです。逆に参謀が権力を持ちすぎると、現場の痛みを忘れてエリート意識に走る。
「権力は腐敗する」という古い警句が、ここでじわりと効いてきます。
PDCAは管理手法ではなく、「学習行動」だ
本書がもっとも熱量を込めて説くのが、PDCAの再定義です。
PDCA(計画・実行・検証・改善)を、単なる業務管理のルーチンだと思っているうちは、そもそも回せていない。著者はこれを「企業の学習行動」だと言い切ります。
トヨタの奥田碩会長が、名だたる経営者を前に「私はどこの会社でも経営できます。PDCAを回せるからです」と語った逸話が引かれる。事業を経営することと、PDCAを回すことは、ほぼ同義だというのです。
カギを握るのは検証(C)の扱い方です。多くの人は、Cを「自分が間違っていたと認める儀式」だと感じて、無意識に避けてしまう。けれど著者によれば、Cは人格や反省の話ではまったくない。
自分が読んだ因果のどこが外れていたのかを、客観的につなぎ直すだけの作業です。感情を切り離せた人だけが、検証を武器にできる。
ここにもう一つの逆説が顔を出します。「100%成功する企画こそ良い企画だ」というのは、根深い思い込みだと本書は斬る。新しいことに挑めば失敗はつきもので、もし100%成功し続けている人がいたら、何も挑戦していないか、超高速でPDCAを回して失敗を即座に塗りつぶしているかのどちらかにすぎない。
アオキインターナショナルの青木擴憲会長は自らを「51勝49敗だ」と語り、ファーストリテイリングの柳井正会長は『一勝九敗』という一冊まで書いた。
成功者ほど、たくさん負けて、その負けから学んでいるわけです。
だからこそ、施策に手をつける前に検証方法を決めておく。「効果検証のできない施策はやめておきましょう」という一文が、実践の急所をぴたりと突いています。
「バケツ」を並べただけの資料に騙されない
参謀の仕事は、当然ながら資料づくりにも及びます。そこで登場するのが冒頭の「バケツと中身」という比喩です。
フレームワークは、物事を整理するための「入れ物(バケツ)」にすぎません。ロジックツリーで「客数を増やす」「客単価を上げる」と美しく分解しても、それだけでは何ひとつ動かない。なぜ客数が減っているのか、その真因を掘り当てない限り、具体的なアクションには一歩も近づかないからです。
著者は、すべての企画が通過すべき思考のステップを順に示します。現状把握、真因の追究、解の方向性、具体策の比較検討、実行計画の明示。この順番で考え、とりわけ「なぜこの問題が起きているのか」を執拗に深掘りする。見栄えのいいスライドから入るのは、順序があべこべなのです。
中身のない資料が横行すると、何が起きるか。実行を伴わない、上っ面だけの企業文化ができあがります。本書には象徴的な場面があります。米国の伝説的プランナーのアイデアを借りた販促コンサルタントが、しきがわで「在庫過剰で困っています。
買ってください」という非常識な安売りチラシを打つ。「スーツは日用品のようにまとめ買いするものではない」という大前提を無視したため、最初の2週間こそ休眠客が反応して客数は前年比102%まで上がったものの、4週目には82%へ激減した。
ビジネスマンが年に買うスーツはせいぜい2〜3着。前提を外したフレームワークは、こうして現場を壊していくのです。
経費は「削減」するな、「低減」せよ
中盤のテーマは経費です。著者は、経費削減と経費低減はまったくの別物だと断言します。
経費削減とは、利益の帳尻を合わせるために、切りやすい経費から有無を言わさず切り落とすこと。教育費や広報宣伝費を真っ先にカットするのがその典型です。けれどこれらは中長期でじわじわ効いてくる投資であり、安易に切れば来期以降に成長阻害というツケが必ず回ってくる。
一方の経費低減は、まるで逆のベクトルです。費用対効果を見極め、求める品質と機能を明確にしたうえで、知恵を絞って同じ効果をより安く実現する。本書には、あるデザイン発注担当者が、40種類もあった同サイズのショッピングバッグを一列に並べ、仕様と単価とロットを突き合わせて相見積もりを取り直しただけで、数千万円以上の効果を叩き出した例が出てきます。
切ったのではなく、考え直しただけで生まれた金です。
ここで著者が本当に目指しているのは「経費低減のヒーロー」を組織に生むことです。コスト削減を苦痛なノルマとして押しつけるのではなく、皆で知恵を出し合う前向きな活動、つまり文化へと変える。
業務プロセスそのものを根本から見直すBPR(業務を抜本的に最適化すること)を伴って初めて、それは本物の経費低減になります。
人事制度は、エネルギーの「方向舵」である
物語は人事とモチベーションへと進みます。
しきがわは売上回復を狙い、月間個人売上の1.5%を業績給として払う代わりに基本給を減らす制度を導入しました。結果は、売上を強引にもぎ取る社員と、それ以外との露骨な二極化でした。
荷受けや品出しといった付帯業務に回る若手ほど接客時間を削られ、手取りが減っていく。チームでの店舗運営より個人の数字確保が優先され、組織の文化そのものが内側から崩れていきました。
著者が突くのは、米国型の成果主義を翻訳もせずそのまま移植する危うさです。KPIだけで人を評価すると、人は魔がさしたように自分に都合のいい運用へ流れてしまう。数値指標は便利な道具ですが、それを制御するマネジメントの強い意思がなければ、たやすく暴走する。
人事制度の本来の目的は、社員のエネルギーを最大化し、その向きを整えることにあります。前提に置かれるのは「人、性善なれど、性怠惰なり」という人間観。
人は本来善であっても、放っておけば楽な方へ、保身の方へと流れる。だから「お天道様は見ている」という適度な緊張を設計し続けることが、マネジメントの仕事になる。
そして制度は、何よりもまず「フェア」でなければならない。
菩薩と明王、二つの顔を併せ持つマネジメント
ここで本書独自のフレームワークが立ち上がります。真言宗の開祖・空海の教えを下敷きにした「菩薩と明王」です。
空海は、人間の欲望を頭ごなしに否定せず、むしろエネルギーの源泉として位置づけました。同時に、道を外れればそれを戒めて正しい方へ引き戻す。著者はこの二面性を「方向舵と制御技術」と呼びます。
マネジメントにも、この二つの顔がそろって要ります。一つは菩薩のやさしい顔。社員の前向きな努力や成果をきちんと褒め、報いて成長を後押しする。もう一つは不動明王のこわい顔。
社内のルール違反やズルさ、抑えの利かない個人の煩悩、つまりエゴイズムに対しては厳しく戒め、力ずくでも正しい方向へ縛り直す。慈悲と怒り、その両方が制度とマネジメントに組み込まれて初めて、組織は健全に動き出す。
どちらか一方だけでは、甘さか恐怖政治に堕ちる、という鋭い指摘です。
改革を阻む本物の悪は、「巨悪」ではなく「保身」
物語が改革へと加速すると、抵抗勢力が必ず立ちはだかります。終盤の主題が、このエゴイズムとの対峙です。
ここに本書最大の逆説が置かれています。企業を停滞させ、衰退へ追い込むのは、わかりやすい悪意や巨悪ではない。「自分は今のままで飯が食える、だから現状維持でいい」という保身、既得権益の死守こそが、改革を阻む本物の悪なのだ、と。
改革を阻むのは、明確な悪意ではなく、「現状のままで困らない」という保身である。
トップの抑えが弱まると、組織には保身と責任回避が雑草のようにはびこります。これに立ち向かうには、まずトップ自らが現場の実態を直接つかみ、明確な意思でリーダーシップを発揮することが大前提になる。
そのうえで、偏った評価が起きない精度の高い制度や、妥協のない判断を下す会議体という「しくみ」を組み上げていく。改革とは、こうして正しい企業文化を死守する営みでもあるのです。
ただし本書は、自らの限界も率直に認めます。最終的な成否は、トップの決断力に強く依存する。トップそのものが機能不全に陥っていれば、ボトムアップだけでの解決には限界がある。著者はその不都合な真実を隠しません。だからこそ、安易な希望ではなく、地に足のついた誠実さを感じさせます。
明日から変えられる3つのこと
本書から、今日の仕事にそのまま移せる行動を3つ挙げます。いずれも著者が一貫して説いていることです。
1. 企画は「見栄え」からではなく「真因」から書き始める 資料に着手するとき、いきなりグラフやフレームワークを作るのをやめます。現状把握、真因の追究、解の方向性、具体策の比較、実行計画。この順で思考を整理し、「なぜこの問題が起きているのか」を何より先に掘る。
2. 施策を始める前に、検証の方法を先に決める 新しい施策を思いつきで実行して満足するのをやめます。「何をもって成功とするか」と、その測り方を着手前に紙へ書き出す。効果検証ができない施策は、最初から手をつけない。
3. 経費を「削る」前に、求める機能を言語化する 一律カットの前に、その支出で本当は何の効果を得たいのかを書き出します。オーバースペックを削り、業務プロセスのムダを見直す。出張費や教育費を反射的に切る手を、いったん止める。
おわりに
本書を貫いているのは、人間への醒めた信頼です。人は善だが怠惰で、放っておけばエゴイズムへ流れる。その前提を冷静に受け入れたうえで、では、どう仕組みと文化をつくるか。理想論でも諦念でもない、その中間に立ち続ける姿勢が一冊の芯になっています。
著者が紹介する経営者の言葉に、「自分の意思で乗り物を造る、あるいは乗り物を進化させる人生」というものがあります。与えられた環境にただ乗って運ばれるのではなく、自ら環境を変える側に回る。参謀とは、その乗り物を設計し直す職人なのだ、と読めます。
あなたの会社で、いま誰もが見て見ぬふりをしている「保身」は、どこに巣くっているでしょうか。そこに、明王の顔を向けられるかどうか。改革は、たぶんその一点から始まります。
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