「人的資本経営」「ジョブ型雇用」「パーパス」。会議でこの言葉が飛び交うたび、なんとなく置いていかれる感覚がありませんか。
流行りの言葉を取り入れてみたのに、現場は何も変わらない。むしろ忙しくなった。そんな職場は珍しくありません。本書が最初に名指しするのは、まさにこの「手段の目的化」という病です。
著者の小笹芳央さんは、約40年にわたって組織人事コンサルティングに携わってきた人です。本書はバズワードの表層を疑い、会社・組織・個人の「本質」に立ち返ることで、流行に振り回されない視座を手渡してくれます。

バズワードを切る前に、モノサシを持て
著者がいちばん強く警戒するのは、社会的要請に振り回されて「手段が目的化」することです。女性管理職比率を上げろと言われれば、数字合わせのために望まない人を管理職にする。
人的資本を開示しろと言われれば、意味のない独自指標を並べる。本来の目的を見失った瞬間、施策は現場を疲弊させるだけのものに変わります。
ではどうするか。著者の答えはシンプルです。会社とは何か、組織とは何か、働くとは何か。その「本質」を一度つかんでおけば、新しいバズワードが来ても自分のモノサシで判断できる。本書はそのモノサシを、章を追って組み立てていきます。
ここがこの本のいちばんの効きどころだと思います。語られているのは個別の施策論ではなく、施策を判断するための「上流の視点」です。だから一冊読み終えると、流行りの言葉が来るたびに右往左往していた自分のスタンスが、少し変わる。
新しい概念に飛びつくのをやめ、まず「これは何のためか」を問えるようになる。逆に言えば、最新の組織モデルやグローバル事例のカタログを求めて開くと肩透かしを食らう本でもあります。
これは流行を追う本ではなく、流行を疑う側の本だからです。
会社は「カイシャ君」、あなたは「投資家」
本書の出発点が、会社の擬人化です。著者は会社を「カイシャ君」と呼びます。
会社の本質は、人間の欲望を叶えるために生み出された発明品である。法人という仕組みも、もとは利益追求のためではなく、担当者が亡くなっても契約を結び直さずに済むよう、契約を簡素化・安定化するために考えられたものでした。
そしてこの発明品の基本価値観は、ただ一つ。経済合理性、つまり儲かるかどうかです。
だからカイシャ君は、ある意味で守銭奴です。家族愛や奉仕の精神といった多様な価値観が混ざり合う社会とは、価値観が逆さまになっている。売上や利益の重圧に負けると、会社は社会規範のグレーゾーンに足を踏み入れてしまう。著者は近年の検査不正や認証不正といった企業の不祥事を、一部の悪人の問題ではなく、経済合理性を追う会社の構造が生む宿命として捉えます。
善悪の話に落とさず構造で見る、その視線が一貫していて気持ちがいい。
そして第3章では、視点が会社から個人へ反転します。著者は働く個人を「投資家」と再定義する。自分の時間、能力、経験を会社に投資している存在だ、という捉え方です。
さらに自分自身を「アイカンパニー(自分株式会社)」の経営者とみなす。勤務先は設立登記先ではなく投資先、給料は売上、というわけです。
会社の魅力がなくなれば、個人は投資先を変える。
すると会社と個人の関係そのものが変わります。縛り縛られる相互拘束から、選び選ばれる相互選択へ。企業は労働市場で選ばれなければ生き残れず、「優秀な人材を採用できる会社にこそ仕事が回ってくる」という発想の逆転が起きる。
守銭奴のカイシャ君と、投資家の自分。この対の構図が腑に落ちると、会社への漠然とした不満が「では自分はどこに何を投資するか」という能動的な問いに変わります。
ここが本書を読む快感の中心です。
「人」ではなく「間」を見るメガネ
実務でいちばん使えると感じたのが、組織を「要素還元できない協働システム」、つまり人と人の関係性のネットワークとして見る視点です。
著者は言います。組織の問題の多くは、特定の個人ではなく、人と人の「間」に生じる、と。
たとえば営業部門と技術部門がぶつかっているとき。「営業責任者が悪い」「技術責任者に問題がある」と個人を責めると、相手は自己防衛して話が前に進みません。でも「営業と技術の”間”に問題がある」と捉え直すと、双方が改善の余地を認めやすくなる。犯人探しが、関係性の修復に変わる。
この関係性は、人数が増えると爆発的に複雑になります。本書はそれを本数で見せる。5人のチームなら関係性は10本、10人なら45本。ところが100人のフラットな組織になると、一気に4,950本に膨れ上がる。
だから「分化」が必要になります。100人を10人ずつ10チームに分けてリーダー会を設ければ、関係性は495本まで減る。フラットなときの10分の1です。
階層を作るのは威張るためではなく、複雑性を縮減するため。この一節を読むと、組織図の意味づけが変わります。トラブルのたびに犯人探しになり何も解決しない、という職場に心当たりがある人ほど、このメガネは効くはずです。
お金を配っても、感情を配れなければ人は離れる
組織が分化すると、その分かれ目に立つのがマネージャーです。著者はマネージャーを、上下・左右・内外のあらゆるコミュニケーションが通る組織の「結節点」と定義します。
ここで前提になるのが人間観です。著者は人を「完全合理的な経済人」ではなく「限定合理的な感情人」と捉える。人はある程度は合理的に動くけれど、最終的には感情で判断や行動が左右される、という行動経済学寄りの見方です。
だからマネージャーの仕事には、金銭報酬とは別の武器がある。著者がそれを「感情報酬」と呼びます。承認欲求、貢献欲求、親和欲求、成長欲求を満たすこと。
ほめる、感謝する、成長を認める。金銭報酬には原資の限界がありますが、感情報酬はマネージャーの力量次第で無尽蔵に生み出せる、というのがミソです。
これを裏づける話が刺さります。ある大手IT系企業は約15%という大幅なベースアップを実施した。それでも若手の離職は止まらなかった。理由は「自分の仕事が認められている実感がない」「成長を感じられない」という感情報酬の欠如でした。
お金を配っても、感情を配れなければ人は離れていく。給料は上げているのに離職が止まらない、という悩みに対する本書の答えがここにあります。手当を増やす前に、自分は一日に何回「気づいたよ」を言葉にしているか。
そう問い直させる主張です。
葛藤は「振り子」で考える、均衡は危険な兆候
マネジメントの現場は葛藤だらけです。効率か能率か、短期か長期か、分化か統合か。著者は、どちらか一方を正解として選ぶのをやめろと言います。代わりに「振り子」で考える。
組織の成果を求めるのが効率、個人の満足を求めるのが能率。いま組織が効率に偏りすぎているなら、意図的に能率の側へ振り子を振る。短期に偏っているなら、長期の側へ振る。
そしてここが本書のいちばんの逆説です。著者は「均衡している状態は危険な兆候」だと言い切ります。バランスが取れて落ち着いている組織は、実は停滞と衰退の入り口にいる。
だからリーダーは、自ら意図的に「健全な不均衡」を作り出す必要がある。andの意識で両方を追いながら振り子を振り続けることが成長を生む、というダイナミックな見方です。
この発想は個人にも貫かれます。ワークとライフを小さな円のままバランスさせて「良し」とすると、ちょっとした環境変化で簡単に壊れる。だから安定した小さな均衡に安住せず、あえてバランスを崩してどちらかの円を大きくしていく。
落ち着きを心地よさと取り違えるな、という警告として読むと、効率化を進めすぎた職場ほど胸に刺さります。
流行を本質で切り、キャリアは「自分創り」へ
第2章で、著者はこの本質論をフィルターにしてバズワードを切っていきます。女性管理職比率の数値目標は、無理な登用で本人を不幸にしたり、男性のムラ社会ルールのまま女性に「男性化」を強いたりしかねない。
人的資本開示も、独自指標を並べること自体が目的化すれば、事業成果とつながる筋道を欠いたまま社内を混乱させるだけになる。
そのうえで著者が「人的資本経営の一丁目一番地」と置くのが、エンゲージメント、つまり企業と社員の相思相愛度です。ここでも数字が効く。エンゲージメントスコアが1ポイント上がるごとに営業利益率が0.38%上昇し、労働生産性も0.035上がるという。
一方で日本企業のエンゲージメントは、ギャラップ社の調査で世界132位という低さでした。働き方改革で労働時間は減ったが、それは「働きやすさ」の改善であって「働きがい」は別物。
衛生要因をいくら整えても、動機付け要因に手を入れなければ人は燃えない、という整理です。ジョブ型雇用についても著者は手厳しく、「仕事に値段をつけることは不可能」と断じ、日本で進むジョブ型の多くは実態としては「役割型」にすぎないと見ます。
キャリア論も同じトーンで覆されます。未来のキャリアを詳細に設計できるというのは幻想だ、と。スタンフォードのクランボルツ教授の理論によれば、個人のキャリアの8割は偶発的な出来事から生じる。
3Mのポスト・イットも偶然の産物でした。だから「自分探し」より「自分創り」。目の前の「Must(やるべきこと)」に全力を注いで「Can(できること)」を増やせば、ある時自然に「Will(やりたいこと)」が浮かび上がる。
人は直線ではなく、横ばいを経てある日突然伸びる「階段状」に成長する、という見立てです。
組織変革についても、著者は号令一発で全員が変わるという幻想を手放させます。変革には「臨界点」があり、トップが小さなアクションを諦めずに続け、同調者が一定数を超えた瞬間に空気が一気に動く。
自律分散型・フラット組織への過度な期待も冷ましつつ、現場の作業を会社のパーパスへ「意義レベル」で翻訳するマネージャーの役割を、変革の鍵として置いています。
こんな人に効く
特に刺さるのは、現場の違和感に名前をつけたい人です。
- 上から「ジョブ型を導入しろ」「女性管理職を増やせ」と言われ、なぜやるのか腹落ちしないまま進めている人
- 職場のトラブルが起きるたびに犯人探しになり、何も解決しないと感じている人
- 給料は上げているのに若手の離職が止まらず、理由がわからない管理職・人事
逆に、最新の組織モデルやグローバルの先進事例、流行の施策を素早く回す実装テンプレートが欲しい人には物足りないかもしれません。本書は流行を追うのではなく、流行を疑う側の本だからです。
読み終えて残るのは、個別のテクニックではありません。会社を経済合理性で動く発明品として見る目。問題を人ではなく間に置く目。自分を時間と能力の投資家として見る目。この3つのレンズが、流行に揺れない足場になります。
次に会議で新しいバズワードが飛んできたら、飛びつく前に一度問うてみてほしい。「これは手段か、目的か」と。その問いを持てた瞬間から、本書の効果は立ち上がってきます。
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