雑誌の購読プランに、誰も選ばないはずの選択肢が一つだけ混じっている。
なぜ、わざわざそんな無駄な選択肢を載せるのか。実はそれがあるだけで、あなたが選ぶプランが変わってしまうとしたら、どうでしょう。
『予想どおりに不合理』は、行動経済学の世界的ベストセラーです。著者のダン・アリエリーさんは、人間がいかに不合理に決断しているかを、ビールやチョコや鎮痛剤を使った実験で次々に暴いていきます。
そして本書を貫く主張はこれです。私たちの不合理は、でたらめではない。規則があり、何度も繰り返すから、予想できる。だから「予想どおりに不合理」なんです。

「合理的な人間」という前提を、実験で崩していく本
この本の面白さは、扱うテーマの大きさと、それを確かめる手つきの細かさのギャップにあると私は思います。
著者の研究の原点は、18歳のときの大火傷でした。全身の70パーセントをやけどし、長い入院生活のなかで、看護師の包帯の剥がし方に疑問を持ちます。
彼らは「一気に剥がすほうが患者は楽だ」と豊富な経験から信じていた。でも、その信念は後の実験で否定されてしまう。専門家の経験すら、検証なしには信じない——アリエリーさんは人間の行動をスローモーションで切り分け、顕微鏡で覗くように一つひとつ確かめていきます。
伝統的な経済学は、人間を「常に損得を計算し、最善を選ぶ完璧に合理的な存在」だと仮定してきました。アダム・スミス以来の「ホモ・エコノミクス」という前提です。本書はそれを真っ向から否定する。人間は感情や環境に流される、不合理な生き物だ、と。
ただし、トーンは暗くありません。不合理が予測できるなら、対策も立てられる。著者が「無料のランチ」と呼ぶ、誰もが得をする改善のチャンスがそこにあるからです。
読み終えたあと残るのは諦めではなく、「だったら仕組みでよけられる」という前向きな感覚でした。ここを押さえておくと、以降に並ぶ「人間のダメさ」のカタログも、ただの嘲笑ではなく設計図として読めてきます。
「比較」と「無料」——日常の罠を、数字で見せられる
本書がすごいのは、抽象論で終わらず、誰でも心当たりのある場面を実験台に乗せてくるところです。まず外せないのが「相対性」と「無料」の二つ。
人間には、ものの価値を絶対的に測る体内計が備わっていません。だから他のものと比べて値打ちを判断する。冒頭の雑誌購読プランの謎は、ここで解けます。
著者がMITの学生に見せたのは、ウェブ版のみ59ドル、印刷版のみ125ドル、両方セット125ドルの3択。印刷版のみとセットが同じ値段なのだから、印刷版だけを選ぶ人はゼロでした。
一見すると無意味な選択肢です。
ところがこの「おとり」が効く。3択のときはセットを選んだ人が84人、ウェブ版が16人。誰も選ばない印刷版のみを消すと、結果が逆転してウェブ版68人、セット32人になりました。
おとりを一つ置くか消すかだけで、セットの支持が84人から32人へ動いてしまう。レストランで一番高い料理が注文されなくても役に立つのも同じ理屈で、その隣の二番目が急に手頃に見えるからです。
著者の結論はシンプルで、人は比較できる相手がいると、そちらに引き寄せられる。だから狙いは「比較の鎖を断つ」ことにある。
二つめの「無料」は、ただの安い価格ではなく感情のホットボタンだと著者は言います。15セントの高級トリュフと1セントの普通のキスチョコを並べると、トリュフが73パーセントを取りました。
ところが両方を1セントずつ値下げし、トリュフ14セント・キスチョコ無料にすると、差額は変わらないのに選択が逆転してキスチョコ69パーセント。
人々はお得なはずのトリュフを捨てて、無料に殺到したわけです。アマゾンが送料無料を導入した国で売上が跳ね、1フランだけ取り続けたフランスでは伸びなかった話も、ほぼ無料と完全な無料のあいだに横たわる崖を物語ります。
無料はリスクがゼロに見えるから、人は過剰反応する。
ちなみにこの「相対性」は時間も超えます。最初に見た数字が基準として刷り込まれる「アンカリング」です。社会保障番号の下2桁という、商品価値とまったく無関係な数字を先に意識させただけで、番号が大きい学生ほど高い入札額をつけた。
スターバックスが高価格を定着させられたのも、安いコーヒーの記憶を上書きする新しいアンカーを差し込んだからだ、と著者は読み解きます。最初は適当でも、一度受け入れた基準を人は一貫して使い続ける。
これを「恣意の一貫性」と呼びます。
お金と人間関係、そして「正直さ」をめぐる怖い話
個人的に一番ページをめくる手が止まったのは、お金と人間関係の章でした。
私たちは、思いやりで動く「社会規範」の世界と、対価で動く「市場規範」の世界を生きている。問題は、この二つを混ぜたときに起きます。手間をかけた手料理に「400ドル払いますよ」と現金を差し出す。
引っ越しを手伝ってくれた友人に小銭を渡す。良かれと思った行為が、関係を一瞬で冷やしてしまう。
実験もこれを裏づけます。画面の円をドラッグさせる単純作業で、報酬5ドルなら平均159個、50セントなら平均101個。ところが報酬ゼロで「お願いします」と社会的に頼むと、平均168個と一番多く働いた。お金を持ち出した瞬間に、人は「割に合うか」で考え始めるのです。
社会規範が市場規範と衝突すると、社会規範が長いあいだどこかへ消えてしまうのだ。社会的な人間関係はそう簡単には修復できない。
(ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』より)
象徴的なのが、迎えに遅れる親へ罰金を科したイスラエルの託児所です。狙いに反して遅刻はむしろ増えました。親が「お金で遅刻を買える」と解釈したからです。
しかも罰金を廃止しても遅刻は元に戻らなかった。一度市場規範に切り替わった関係は、後戻りしない。善意で回っていた場にお金を持ち込む怖さが、これほど鮮明に出た例も珍しいと思います。
終盤の「正直さ」の章も忘れがたい。まず分かるのは、人は意外と正直だということ。テストでバレずにごまかせる状況を作っても、学生はわずかしか不正をしませんでした。
良心がブレーキをかける。しかもそのブレーキは、テスト直前に十戒を思い出させたり倫理規定に署名させたりするだけで強化され、不正がゼロになった。
ところが、現金から一歩離れるとブレーキは驚くほど簡単に外れます。学生寮の冷蔵庫に置いた缶コーラは2時間で消えたのに、1ドル札は72時間置いても1枚も減らなかった。
報酬を現金でなく引換券にしただけで、不正は2倍以上に跳ね上がる。現金は盗めないのに、モノやポイントになると人は自分を正直だと思いながら不正を働ける。
経費の水増しも備品の持ち帰りもストックオプションの日付改ざんも根は同じ、という指摘には、自分の身を振り返らずにいられませんでした。
弱さは「意志」でなく「仕組み」で補う
本書がただの「人間ダメ図鑑」で終わらないのは、対策がセットで示されるからです。
象徴は先延ばしの実験。MITの学生に、レポートの締め切りを自分で自由に決めさせたクラスと、教員が等間隔の締め切りを強制したクラスを比べると、成績が良かったのは強制されたクラスでした。
自由は必ずしも良い結果を生まない。人は弱いから、外から縛られたほうが力を出せる。著者はこれを「事前決意(コミットメント)」と呼び、自分で自分を縛る装置を持てと説きます。
フォードが1万8000もの整備項目を3つの点検パッケージにまとめたら客が先延ばしをやめた、という話も、選択肢を減らして決意しやすくした好例です。
保有効果の章も実践的です。デューク大学のバスケのチケット抽選で、外れた学生は「平均170ドルなら買う」と答え、当たった学生は「平均2400ドルでないと売らない」と答えた。
同じチケットに約14倍の差がつく。自分の持ち物に惚れ込み、得るものより失うものに注目する癖を知っておくだけで、不要な物を手放せなくなる自分にブレーキをかけられます。
期待の力も見逃せません。鎮痛剤の偽薬を「2.50ドル」と言われた学生はほぼ全員が効いたと答えたのに、「10セントに割引」と言われると半数しか効かなかった。
価格という事前情報が、痛みの感じ方という体験そのものを書き換えてしまう。安易な値引きが、商品価値の評価まで下げかねないという示唆でもあります。
どんな人が、どう得をする本か
価格やキャンペーンを設計する仕事の人にとっては、「なぜあのプランが一番売れるのか」の裏側を見せてくれる教科書になります。ただし即効の販促テクニック集ではなく、人間の心の癖を理解したうえで設計に活かす、遠回りに見えて確かな道具です。
先延ばしや浪費に悩む人には、もっと効きます。本書は「意志を強く持て」とは言いません。むしろ、人は弱いものだと認めたうえで、締め切りを自分で縛る、選択肢を減らすといった「仕組み」で弱さを補う発想を授けてくれる。意志に裏切られ続けてきた人ほど、肩の力が抜けるはずです。
一方で、数理モデルや学術的な厳密さを求める人には物足りないかもしれません。あくまで一般読者向けの、語り口のうまい読み物です。サンプルの多くがMITの学生で、結果がどこまで一般化できるかは慎重に見たほうがいい——そう留保したうえでなお、行動経済学の入り口として、これ以上ない一冊だと思います。
人間は規則正しく間違える生き物だ——その事実は、知っておくだけで景色を変えます。次に何かを「無料だから」と手に取りそうになったとき、誰かをお金で動かそうとしたとき。
これは予想どおりの不合理かもしれない、と一歩引ける。間違いに規則があるなら、仕組みでよけられる。その一歩を手に入れるために、読む価値のある本です。
合わせて読みたい
比較するほど差が開く心理。 本書の第1章「相対性」を、日常の感情面から掘り下げたコラムです。人と比べるほど苦しくなる仕組みを、アリエリーさんの「相対性の連鎖を断つ」と重ねて読むと腑に落ちます。
『自分のアタマで考えよう』ちきりんさん 「知っている」ことが、かえって考える力を奪う。本書が暴く思い込みやアンカーの罠と地続きで、自分の判断を疑う視点が手に入ります。
『継続する技術』戸田大介さん 先延ばしと自制心の章をもっと実践的に知りたい人へ。本書の「事前決意」と同じく、意志ではなく仕組みで三日坊主を治す具体策が詰まっています。
